ビルマは長い間英国の支配下にあったのだが、それを駆逐した日本人だということで、敬意をもって戦勝者を歓迎してくれているようでもある。日本軍もビルマ進駐当初より、軍規を守り決して現地人に対し悪いことはしないで、良好な親善と宣撫(せんぶ)工作の結果信頼されていた。
一般的に貧しいが、仏教国で皆が仏心を持っていて、素朴で好感が持てる。後で分かったことだが、民族の主流はビルマ族で、カレン族・シャン族・チン族など多くの部族、種族からなっているようである。
広い平野に恵まれ、米の大産地だが原始的農作業で、牛や水牛による農耕が主である。
田舎に行くほど住居はみすぼらしく、丸木と竹の柱に、竹で編んだアンペラのような物で周囲を囲み、屋根は椰子(やし)の葉で葺(ふ)いたものであった。寒い国でないから、これで住んでゆけるのだ。
日常生活の主な道具は、「オウ」という焼き物の瓶(かめ)で、これに水を入れて運んだり、米を炊いたり、おかずもこれで煮る等万能の器である。女の人が上手にこの瓶を頭の上に乗せ水を運び、また大きな籠(かご)を頭に乗せバナナやマンゴーを売って歩いたり、重い荷物を運んで行き来しているのを見た。
ビルマでは何と言ってもパゴダだ。ラングーンをはじめどんな田舎の町や村に行っても、大小様々なもの、金色に輝くものから白亜に引き立つもの、時には形の珍しいものなどがある。また、仏像が各地にあり様々な形や姿勢をしている。
それにポンジーと称する僧侶が多い。僧侶は地域の指導者で知識人であり、子供を集めて寺子屋式教育をしている。また男の子は一度は小坊主になって修養することになっている。朝は托鉢(たくはつ)に出るのが日課で、大人から子供の坊さんまでが一列に行儀よく並んで歩いているのを見かけた。僧侶が修行のためお経を唱えながら鉢を持って家々を回りご飯やおかず等の施しを受けるのだが、市民もお祈りの気持ちで托鉢に喜捨(きしゃ)をしていた。ビルマ人の心はこのようにして培(つちか)われてきたのである。
また、僧侶はすぐにそれと分かる黄色の法衣(ほうい)を着ているが、格別な地位と考えられている。法衣を女性には触れさせず、母といえども、その例外ではないことになっていて厳格なものとされている。
---以上は五十年余り前の戦争当時の状況であるが、現在は都市ラングーン(ヤンゴン)辺りは自動車も増え単車も走り、テレビも上層階級には普及しており、僅かではあるが高い建築物も建ち、変化している。しかし、その文明開化のスピードは遅く基本的に大きな変化はなく、民情はそのままのようである。なお、政情不安定を伝えられているが、早く平和で文化的な国として発展することを祈念する。
---戦争中、一部には日本軍に敵対行為をした者もいたが、ビルマ人の温かい心に支えられ、終戦後の二年間の抑留(よくりゅう)生活中も、陰になり日向(ひなた)になり、俘虜(ふりょ)の我々日本人を気の毒に思って助けてくれた。その気持と恩を忘れることはできない。これは私個人だけでなく生還した戦友達みんなのお礼の言葉である。