本筋に話を戻そう。ピュンタザの一ヵ月は空襲もなく平穏な日々が過ぎ、ようやく雨期も終わりに近づいた。
汚い話だが、便所に行き下をみると、その辺りで大きな魚が糞まみれになりバチャバチャやっている。今まで雨期で一帯の水溜まりの中を泳いでいた魚が、便所の辺りに来ている間に雨期が終わり、そこに取り残されてしまい、糞魚になって弱っているところだ。このように雨期には家の下まで水が来て、湖になるのだ。
その頃乾期を迎え火祭りが行なわれ、現地人が奇麗なロンジやエンジを着て集まってきた。ビルマの女性は髪にブウゲンビリヤの花を飾るのが好きで、若い女性の華やいだ姿もチラホラ見え、若者達も楽しそうであった。我々は見るだけで、中に加わる程の親しさにはなっていなかった。
どこの国でも、女の子は美しいものだと感じた。メロデイーに合わせて、日本語で「今日は〜楽しい〜水祭り〜水をかけましょう〜あの〜人に〜」と替え歌として歌われていた。こうして季節の変わり目を祝い、豊作を祈願するのだ。
私達のこの頃の楽しみは、鉄道機関区にある大きな風呂に入りに行くことだった。長い期間、水浴だけだったので、お湯に入りのびのびできたことは有難く忘れがたいことであった。以後ビルマにいた四年間でドラムカンで湯を沸かし入ったのを除けば、湯ぶねのある風呂に入ったのはこの時だけであった。
ある日、飛行機が一機飛んできた。「これは日本軍のだ」と誰かが説明した。頼もしく思い飛行機を見上げた。しかし残念ながら私は、その後ビルマにいる間中、友軍の飛行機を一回も見ることはなかった。このように次第に制空権を英印軍に握られてしまうのであった。
平日は内地にいる時と同じように、厩作業や馬運動をし、青草を刈ってきて与え、兵器の手入れをした。また時には士気の高揚(こうよう)図るため野外演習が行われた。
一ヵ所にまとめて炊事場があり、各班は飯上げにそこに行き持ち帰って分けて食べた。
ビルマ米は内地米に比べるとパサパサして味が落ちるが、だんだんと慣れてこんなものかと思うようになってきた。
軍服もぼつぼつ傷みかけ、膝こぶしの所が破れ始めたので、木陰の下で慣れない手つきで補修し、そのあとついでに洗濯をした。
「泥に〜まみれた軍服を〜洗う〜貴方の〜夢を見た〜、本当に 本当に ご苦労ね〜」という歌を口ずさみながら。我が家にいれば母親が針仕事も洗濯もしてくれるだろうなあと、思いつつ身のまわりのことをした。
そのあと多少時間もあり、ビルマに来て初めて軍事郵便の葉書を書いた。両親や、勤務先の東京の会社を始め、米沢の彼女 西澤とよ子さん、内田富士雄君の浦和の家等に送った。検閲(けんえつ)があるので元気にやっていると近況を知らせる型通りの文面にしかならないが、心の中では本当に懐かしい思いを込めて書いた。

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