◆歩哨(ほしょう)に立つ
深夜一人で歩哨に立って静かに澄んだ月を見ていると、いつしか私の心は内地へ帰っており、内地の月も同じように出ているだろうにと思った。星が美しいが、ここは南に寄っているので内地で見る星座とは少し違う。遥か南の地平線の上に南十字星が十の字をかたどり、サソリ座も大きく端から端まで姿を見せて輝いていた。
今頃家では何をしているだろうか?田舎の小学校の校長として父は、戦時下の教育に苦労しておられるだろうなあ。
母は父の任地の学区で官舎に住み、地元の人との融和に努め、内助する立場だが、わが親ながら素晴らしい人柄だから、きっと円満にやっておられるだろうと信頼している。何にしても物資が無い時勢で苦労されているだろう。妹は学校の寮に泊まり勉強しているが、食物が少なく、それに勤労奉仕で苦しい目にあっているのではないか?と思い巡らすのであった。
私が学生生活をした山形県米沢市。下宿させてもらった西澤家には大変お世話になったが、戦時下で物資の欠乏はそこにも及んでいるだろう、どんなにされているだろうか。とりわけ、ほのかに思いを寄せていた言葉の綺麗なとよ子さんは、当時県立女学校(現在高校)へ一番で合格できたと、お母さんが喜んでおられたが、もう女学校の高学年になり、娘らしくなったことだろう。才媛の面影が懐かしく思いだされてくる。その彼女も今頃はモンペ姿で、勤労奉仕に駆りだされているのだろうか。
青春時代、学生時代を過ごした所は誰にとっても懐かしい所だ。紅葉の吾妻(あづま)山、松川の清流、山並みに輝く雪景色、上杉神社のたたずまい。それに私は米沢市民の礼儀の正しさと人情の豊かさ、親切な心を忘れることはできない。
また、学友達殆どの者が軍隊に入り、気合いを入れ頑張っているだろうが、どこでどんなにしているか?お互いの消息も無いが皆の顔が浮かんでくる。
一年間勤務した東京無線電機株式会社の川添課長や斉藤係長を初め、先輩、同僚達はどんなにされているだろうか?私の手がけた軍用無線機は実用化され活躍しているだろうか?
いつまで、このビルマの地にいなくてはならないのだろうか?丈夫で再び内地へ帰れる日がくるだろうか。戦争に勝って早く帰れればよいが、そうなれば、あの会社に勤め、うんと仕事をするのだが。それから西澤とよ子さんにどのようにして自分の気持ちを伝えようか、などと空想を描いてみるのである。
内地を出発以来、新聞もなければラジオもなく太平洋戦争がどうなっているか全然分からない。
ただ、戦争は容易には終わらない、戦い抜かなければならないらしい。どうも暗雲に閉ざされているようで明るさが感じられない。しかし、負けるようなことはあるまいと、自分に言い聞かせるのである。とにかく、我々はしっかりビルマで戦うのだ。そうすれば、いつかは帰れる日が来るのだ。そんな思いが頭の中で、どうどう巡りをする。
歩哨(ほしょう)に立って、誰にも邪魔されず、このように過ぎし日を懐かしみ、現実を肯定し、自分をいたわり将来を描いていると、交替の兵隊が来る。「不寝番交替(ふしんばんこうたい)」「異常なし」「ご苦労さん」と瞑想(めいそう)は破られる。
こうして、比較的平穏な日々が過ぎていった。しかし鉄道が爆撃を受け直径十メートルもある大きな穴があいているのを見た。この頃から敵の爆撃がビルマの中部平原に対して、ボツボツ始まったようである。このお寺の敷地に宿営したのは二十日ばかりで、また移動した。
今度は鉄道利用、徒歩行軍、その後イラワジ河の支流を舟に乗ってさかのぼり、三日ばかりかけて次の部落レミナへと進んで行った。

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