部落民は、中隊長がトップであることを知っているので、この通信班の所へよくビルマのご馳走を作って持ってきてくれた。中隊長のおかげで我々もご馳走を一緒に頂いたが、食うことが楽しみな兵隊には嬉しいことであった。この間、幾らかのビルマ人とも言葉を交わし接触することもできた。また、軍票で買物ができ、現地たばこのセレーや、バナナ、マンゴウ等を買って食べたものだ。ビルマでの戦争中の二年と戦後抑留中の二年の計四年間を振り返って見て、レミナでのこのような生活が一番楽しい時であった。中隊長や溝口曹長(そうちょう)など中隊首脳の方と一緒に住み可愛がって頂き、戦況も穏やかな良い二ヵ月余であった。
---しかしその後の惨憺(さんたん)たる転進作戦で、八人の内五人が戦死され、復員できたのは溝口指揮班長と構(かまえ)兵長と私の三人だけだった。その構君は爽やかな人間性を備え、戦争中も立派な働きをし、復員後も元気で我々ビルマ会の世話をしてくれていたが、四年ばかり前に亡くなられ、今では語る相手は溝口さんと私だけになり、しみじみと寂しさを感じる。皆様のご冥福をお祈りし感慨無量、時は遠くへ流れ去ってゆく。
中隊本部は、このようにレミナに位置していたが、各小隊は当時南部アラカン山脈を横断し、クインガレーから、インド洋側にあるグワ地点に向かって輸送業務を開始していた。険しい山道で、車は使用できず、馬の背中に荷物を乗せて運ぶ駄馬方式で、苦労し、全行程八十キロを六区間に分けて逓送(ていそう)していた。
その頃通信班長の溝口曹長の提案で、第一中隊の新聞を発行しようということになった。皆が一ヵ所に集まれないのでせめてこれにより情報を伝達しようというのである。私に原稿を書くように命令された。新聞といってもB四版で一枚ぐらいのものであった。それをガリバンで刷って各小隊各分隊に配布するのである。
ある時、我が中隊が輸送業務をやっている前線の山中に虎が出るという情報が入った。こちらは武装しているし鉄砲を持っているのだから、その内、虎を仕留(しと)めるだろうと、興味本位に原稿を書いた。
溝口通信班長に見てもらい、いよいよガリバンにかけ印刷し終えた所へ班長が、急いで帰ってきて「新聞はまだ配ってはいないだろうな」と尋ねられた。
「まだです」と答えた。「そうか、それでよかった」「虎が出て兵隊がやられたり、闇夜に出てきて大変らしい。興味本位の記事は差し控えたほうがよい状況だ。もっと深刻な様子らしいぞ」とのことで、その時の配布は取り止めになった。
その後通信班もその輸送ルートの山の中、虎の出没する地点に前進して行った。当時通信班には馬がいないので、現地の小型の牛二頭に引かせる牛車に装具一式を乗せ、山坂や谷を渡りやっとたどりついた。
ここは、本当にみすぼらしい竹で出来た家が五、六軒あるだけの山の中であった。我々通信班も野宿はできないので竹で小屋を造り、虎に備えて周囲を竹の塀で固めた。実際は気休めで、虎が入ろうと思えば、一たまりもない粗末なものであった。輸送を担当する分隊や班がこの近くにも分散して竹小屋を造り休んでおり、馬は近くの林に繋(つな)いでいた。この付近にいる四十人程のために共同炊事場もあり、まとめて飯とおかずを調理してくれていた。輸送班は我々通信班がここへ来る以前から奥へ奥へと山深い中を輸送していた。

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