◆内地からの便り
お寺の境内にいる頃、内地からの便りが届いた。母からのものが二通あった。出したのはもっと沢山だったかも知れない。文面は父は元気に小学校へ勤めているが、学校でも防空演習等で忙しく、本来の勉強や教育をする時間が足りなくなり困っていること。母は内助の仕事をいろいろしており、妹は勤労奉仕で軍需工場へ働きに駆りだされて勉強ができないが、頑張っている由だった。
母が一生懸命に私のことを祈ってくださっていることが、文面からうかがわれ有難く懐かしく読んだ。母の優しい顔が目に浮かび、何物にも勝る親と子の情愛の深さ、切れない太い繋がりをしみじみ感じた。
この時、米沢の西澤とよ子さんからの手紙も受け取った。物資不足で困っていることや、勤労奉仕のことが書いてあった。女学校四年生になったが戦争中のことなので、上級学校をどこにしようかと思っていることなどが書かれてあった。特に印象に残ったのは「小田さん元気で頑張って下さい。米沢のさくらんぼが一生懸命にお祈りし待っています」と書いてある文面であった。
米沢のさくらんぼは淡黄の薄紅色で、甘すっぱく舌触りがさわやかであった。その時代の若者や我々学生達は、初恋の味がするもの、初恋を象徴するものとして愛し食べた特産品だったので、彼女もその意味を込めてしたためてくれたのだ。どんなに胸をときめかしてくれたことか、一文字一文字がどれ程優しく温かく、彼女をどんなに懐かしく思ったことか。清純なセーラー服姿が目蓋(まぶた)に浮かぶ。
当時軍隊に出し入れする手紙は検閲(けんえつ)され、あまり変なことは書けない時代であったが、さくらんぼが待っているのであれば、いくら検閲を受けても誰にも分からない言葉であった。彼女と私にしか分からない大切な味わいのある表現だった。
私はこの手紙をその後何回も何回も読み返し、ずっと服の内ポケットにしまいこんで、肌身離さず持っていた。長い間持ち続ける間に外の封筒は破れ、汗に汚れ雨に濡れ、グシャグシャになってからもしっかり抱きしめ、お守り代りにし、少しでも時間があると開いて見、危険な時もそのことを思い出し勇気をだした。
しかし、敵に追われ、雨に遭い、水に浸かり、弾丸の中を潜る間にいつの間にか不覚にも失ってしまったが、「小田さん、さくらんぼが待っています」という一節はいつまでも心に沁(し)み込んでいて、私を温め勇気づけ励ましてくれたのである。