五 ビルマ西部海岸警備
◇第一アラカン山脈を目指す
◆イラワジ河を西に渡る
昭和十九年三月下旬、前進命令が第一中隊に下りた。大アラカン山脈を越えインド洋に面するタンガップの町に前進することになった。
イラワジ河の東側、左岸渡河地点近くに来た。敵機から見つからないようにネットや木の枝で擬装(ぎそう)し、乗り場に至る道や、船着場を覆うようにしていた。また道端のあちらこちらに止まっているトラックにも充分な擬装をしていた。
ここで、珍しい人に巡りあった。金平操(かねひらみさお)さんである。同郷の可眞(かま)村弥上(やがみ)の出身で家が三百メートルぐらいしか離れていない。可真小学校では兄貴分で、しかも岡山二中に進んだ時も先輩として大変可愛がってもらい、仲良くして頂いた方である。
操さんは、岡山師範学校(岡大教育学部の前身)を卒業され先生になっておられたと聞いていたが、長身でスマートな先輩で懐かしい。こんな所でよくもパッタリ会ったものだ、奇遇という他はない。どこの部隊に属していたのか覚えていないが、本当に嬉しく元気でやろうと励ましあった。南方の軍隊生活で日に焼け、たくましくなっておられ、野戦で苦労されている様子がうかがわれた。
お互いに、軍務の途中でゆっくり話すことができないまま、武運長久を心に祈り誓いあって別れた。その後操さんに会うことはなかった。
---操さんはその後、どこでどうなされたのだろうか?きっと苦労され戦死されたのだろう。ここでもまた、立派な若い先生を失ってしまった。戦争は苛酷(かこく)であり無残である。私は抑留生活二年をビルマで過ごし、昭和二十二年七月に復員し、郷里の弥上部落内を挨拶して回った。当然操さんの生家にも行った。既に戦死の公報がきており、悲しんでおられた。私のみ生きて帰り悪いような気持ちがしたが、イラワジ河畔(かはん)で会った時のことを話してお慰めした。
---その時、彼のお母さんは「戦死の公報は来ていても、まだ操が帰って来ると思う。夜帰ってくるかも知れないから、庭や入り口辺りに物を置かないようにし、操がつまずかないようにいつも片づけているのですよ」と言われた。その時私は、操さんが元気で帰って来られるのならば、ビルマの山河を何ヵ月も裸足で夜道を歩き通し大変な経験をしているのだから、庭先の物や小石につまずくようなことはない、もっとしっかりしているはずだと思ったが、親はこれほど我が子のことを思っておいでかと、目頭が熱くなったことを今も覚えている。
この辺りの河幅は三キロぐらいだったろうか。三十トン程度の船で夜の闇に助けられ何事もなく無事渡河できた。幸いこの頃は乾期のため水量も少なかった。渡ってしまうとなんのことはなかった。でも、渡河後はなるべく早く渡河地点であるセダンを離れなければならない。夜明けまでに十キロ程を歩いた。大した距離ではなかったが装具の重さが肩に食い込んだ。それでも道も良いし平坦地であり夜間の涼しさで思うように行軍ができ、ある部落に着いた。現地人は既に山の中に逃げ込んでどこも空き家になっていたのでそこに入って休んだ。
次の日は朝より行軍だ。西へ西へ向かって歩くうちにアラカン山脈の麓(ふもと)に近づいてきた。次第に林が多くなり、道も埃(ほこり)だらけの道となってきた。時折友軍のトラックが埃を残して走って行った。我々は一個班に一つの輜重車のみは残しており、できるだけそれに荷物を積み、積みきれないものは各自背嚢(はいのう)に詰めて背負い、車を皆で引いて、汗みどろ埃だらけになって歩いた。午後になると緩やかな坂道が曲りくねってきた。夕方になり大休止となったが、もうここは山の中で民家は無く露営である。
山から薪(まき)を拾ってきて、飯盒で飯を炊いた、幾人もの飯盒を並べて炊いた。でき上がる少し前水分が出なくなると一つ一つ取り出し、逆さにしておくと、良く蒸せ美味しくなり、しばらくすると食べ頃になる。もう何回となく使用してきた飯盒なので貫禄(かんろく)がつき、外側は真っ黒になっていた。残りの飯盒で乾燥野菜と乾燥醤油で汁をこしらえる。干し肉や干し魚があるときは良いがこの頃は欠乏しかけていた。木の若芽を摘んで野菜代わりにしてみたがまずかった。

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