◆第一アラカン山脈を越え
次の日も行軍は続いた。坂道はだんだん急になり谷を渡り山を越えながら登り坂が多くなり、標高も高くなってきた。乾期の最中だから山道の埃は我々が歩くだけでも、もうもうと舞い上がった。
この第一アラカン道は日本軍が二年前に造った道で、一応自動車が通れるように応急的に造ったのだが、ビルマでは粒子の細かい土質の所が多く、切り開いただけの道で、長い間、雨が無く乾き切っているので大変な埃がたつのだ。
三日目からは、昼間の行軍はしないことになった。敵の飛行機に見つからぬよう夕方から夜明けまで歩いた。夜は暑くなくてよかった。
見も知らない曲がりくねった山道を夜行くのだから、どの方向に進んでいるのか全然分からない。全体として西に向かってアラカンを進んでおり毎日登って行った。黙々と前の人に遅れまいと歩くだけである。背嚢(はいのう)を背負い、車を皆で押したり引いたりしながら、時には「ワッショイ ワッショイ」と掛け声をかけ、元気を出して登ったが、疲れていつの間にか黙ってしまうのである。
イラワジ河を渡ってから四日目、やっとニューワンギョという地名の所に着いた。ここはアラカン道の中央で山脈の頂上である。夜明けに着いた。そこには大きいチークの木がたくさん茂っていた。寒い、寒い、標高千二百メートルぐらいだと誰かが言った。携帯の毛布二枚を引きかぶり、やっと寒さをこらえ眠りにつくことができた。昼の間は休み、夕方前にニューワンギョを出発した。しばらく行くと見晴らしのよい所に出た。アラカン山脈の山々が雲海の上に頭を出し、西の山に夕日が沈みかけ赤く染まっている、なんと美しい眺めであろうか。自然の偉大さ、その見事さに、しばし疲れを忘れ、戦を忘れ、目を奪われた。絵にしたらどんなに美しいだろうか、などと思った。
道は次第に下りが多くなった。開けた所は星明かりで助かるが、高い林の間を行く時は真っ暗なので足元が全然見えない。各班に一台ずつの輜重車を皆で力を合わせ引くのだが、下りはガラガラと惰性で早く転がるので、自分が転倒でもすると本当に危険であった。みんな一生懸命に走った。暗闇の中を下っていく時は奈落の底に落ちていくようであった。
当初携行した食糧も次第に減り、途中の倉庫で支給を受けた。しかし、これまた少なく形ばかりの支給であった。飯を、塩とと・ん・が・ら・し・の辛さで食べているようなもので、他に副食は何もない。
私はこの行軍で肩と手が痺(しび)てしまった。銃を持ち、重い背嚢が肩に食い込み、筋肉と神経が麻痺したのだろうか。日に日に痺(しび)れが増し手が殆ど動かなくなってしまった。しかし、そんなことは言っておられない。苦しいのは、自分一人ではないはずである。銃を持つ手が痺れているので、落ちそうになる。足の豆も次第に大きくなり、潰れて汁が出ている。しかし、こんなことで挫(くじ)けてはならないと困苦欠乏の行軍は続く。坂道を下るといっても、中途では登り坂もあり道程は長い。
ニューアンギョを出てから四日目の夜明け前、誰れかが「平地に出たぞ」と叫んだ。印度洋海岸に沿うたタンガップの平野に来たのだ。平坦な道を二キロぐらい行った所で、本道をそのまま四キロばかり直進すればタンガップの中心地に行くのだが、左へ曲がり細い脇道をうねうねと三十分ばかり歩いて林の中に止まり、大休止することになった。もう東の空がほのかに明るくなってきた。
ここまで歩いて来たのがプロームとタンガップを結ぶ第一アラカン道百七十キロの横断道である。野宿野営の毎日だったが、幸い虎にもやられず無事到着したのである。しかし、第二小隊で途中三名の者がマラリヤにかかり落伍してしまった。その後どうなったか知らない。
疲れた体を毛布にくるまり安堵(あんど)の気持ちでぐっすり眠った。
「皆起きろ」という浜田分隊長の声で目を覚ますと、もう太陽は空高く昇っていて時計を見ると十二時だ。「食事の用意をせい」との号令で、近くの川に行き水を汲み、薪を集めて各自飯盒炊事をした。さて、今日はどのようになるのだろう。我々兵隊には予定は分からない。命ぜられるままに、するだけである。午後も休み疲労回復に努めることになった。

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