◆弾薬倉庫等の警備
空から絶対見えない場所を選び、分散して小さい家を建てて宿ることにした。どの分隊もそれぞれ暗い木立の下に粗末な小屋を建てた。ここはヤンコという地名だが民家も何もない山の奥深くであった。
もう日本軍は平地で、部落のあるような所には、住めない程に敵の飛行機に追いつめられていた。
我々瀬澤小隊は、馬がいないので輸送業務はなくなり、タンガップ地区の警備に当たることとなった。この地区にある弾薬倉庫、糧秣倉庫、被服倉庫、燃料廠(ねんりょうしょう)、海岸の警備、野戦病院の使役、その他兵站(へいたん)の各種勤務に就いたのである。
これらの品々はいずれも山の中に分散し敵機に見られないように、遮蔽して野積みにされていた。その監視に当たるのである。
私も弾薬置場の監視に就いた。弾薬置場といっても山すその樹木と草原の交じった寂しい所にある。大きい木の陰に弾薬箱を置き、更にその上を擬装(ぎそう)して集積しており、昼夜三交替の勤務である。監視であるから、銃を持ち節度正しく警備し、周りを歩いて警戒するのであるが、考えることもないし特別することもないので、一人ぽっちで夜空を眺めていると、またしても故国のことが思い出される。これから先のことが明暗いろいろに頭をかけめぐる。
いつの日故国へ帰れるのだろうか?今に新兵が来れば交替して帰れるだろうが。戦いに勝ってしまえば凱旋(がいせん)だが、どんなに嬉しいだろうか。しかし、戦いはどうも見通しが明るくない。今の我々には、新聞もなければ、ラジオもない生活である。うわさだが西南太平洋方面の海戦で次第に押されており、サイパン島も危ないとか?事実ここでも日を追って敵の空襲が激しくなってきており、友軍の飛行機など見たこともない。戦況が次第に悪くなっていくのが分かる。
何であろうと戦い抜いて勝たねばならないのだ。与えられた軍務に精励すれば、それがお国のためなのだと思い返してみるが考えに前進はなく、いつも堂々巡りである。
しばらく深夜の静寂が続く。急に近くの山で、「ごおー」「ごおー」とビルマの山鹿であるノロが悲しそうに啼いた。虎にでも追われ逃げてきたのかも知れない。厳しい現実が襲いかかってきた。銃を握り直し、警戒を続けた。私の空想と現実の隔たりは余りにも大きい。
この辺りはビルマの西海岸アラカン山脈の西側で、辺境地といわれる不便な所で経済的にも価値のない所である。しかし戦略的には、英軍と印度軍がいつ上陸してくるか分からない重要な地点となっており、我が軍もこの地の防備に力を入れている。
ここからアキャブ方面にも通じており、海岸防備のためのラムレ島、チェトバ島への渡航地点にもなっており、行き来する人が泊まる場所となっていた。
私はその後、弾薬庫勤務からタンガップ兵站宿舎の勤務になった。いわば旅館勤務といったところだが、とてもそんな粋(いき)なものではなかった。前線へ向かって行く兵隊は、アラカンの険峻(けんしゅん)を歩いて来たとは言え、衣類も痛んでおらず兵器もきちんと持ち、顔色もよく元気で兵隊らしかった。
しかし、アキャブ方面から帰って来る兵隊は哀れだ。服はボロボロ、シャッもボロボロ、空の背嚢を背負い、兵器は殆ど持っていない。顔色は悪く、杖をついてやっと歩いている。乞食(こじき)のようだ。飯盒と水筒をだらしなく持っている。
兵站宿舎といっても、屋根と座がある程度のお粗末なもので、野宿よりは少しましといったところだ。「兵站はここですか」と細い弱い声で尋ねる。「ここです。どうぞ休みなさい」と答えると、ホットした様子で疲労しきった顔に嬉しさがかすかにうかがわれる。しかし一日二日と泊まるうちに、そこで息を引き取ってしまう兵隊が何名かあった。
負傷したり病気になったり、アキヤブの方から後退を命じられ、乗り物も無くやっとここまでたどり着くが、体力は非常に弱っており、息を引き取ってしまうのだ。気の毒なことと思う反面、これが日本の軍人兵士だろうかと、唖然(あぜん)とするのである。
死体の片づけも私達勤務者の仕事だが、あまりにも、みじめな姿は目を覆うばかりである。
二十日ばかり勤務したその頃、思いがけない命令がきた。

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