◇無線通信教育隊に
◆首都ラングーンへ
私は、聯隊本部から突然「ラングーンで通信技術の教育があるから、教育を受けに行くように」と命じられた。我が輜重聯隊から、私の他に、藤井、山本、西谷、矢野の各上等兵の計五人が選ばれた。中隊本部へ行き金井塚中隊長に申告した。中隊長はレミナの町にいる時一緒に生活していた関係もあり特に私の方へ向かって「しっかり勉強してこい」と激励の言葉があったように思われた。
それからタンガップの他地域にあった聯隊本部へ行き、ラングーンで教育を受ける旨の申告をした。こんな場合、いつでも同年兵ばかりの時は、私が引率者の立場で号令をかけるのが当たり前のようになっており、皆もそのように認めていた。
この時は後方、ラングーンへ向かう自動車に便乗させてもらうことになり、タンガップを夕方出発し、夜明けには大イラワジ河を渡りプロームまで来た。歩いて八日もかかった山道を一夜のうちに走った。さすが自動車は早い。夜の内なら敵機に見つかることもない。
トラックの荷台に乗せてもらったが、路面は凸凹道だから前後左右に揺れるやら、上下に跳ね上げられてはドサンと落とされるやら、荷台には周囲の枠につかまる以外にはつかまる所がないので、五人は懸命に枠にしがみついていた。
しかし、文句を言うどころではなく、自動車は本当に有難いものだと思った。運転手は一睡もせず大変な仕事だがこれも軍務の中、ご苦労なことである。太陽が上がる前に町外れの木立の茂みの中に入り車を止めた。
大休止の後、夕方になりそこを出発した。プローム街道を南南東に向けて走った。舗装道路だから昨夜に比べれば雲泥(うんでい)の差で、荷台に仰向けに寝転び夜空の星を眺めながら進んで行った。気持ちの良い夜だった。幸い、夜のことでもあったため空襲にも遭わず、次の朝はラングーンに着き、ビルマ方面軍司令部直轄(ちょっかつ)の森部隊の通信教育隊に編入された。
私達の兵兵団(つわものへいだん)(五十四師団)からは姫路の歩兵、鳥取の歩兵、姫路の野砲、姫路の捜索(そうさく)聯隊等からで、他の師団から選ばれてきた者を含めて総数約五十名であった。
教育の内容は無線通信機器の操作技術に加えて、モールス信号の発信オペレーターの技術学習であった。
私は学生時代にそれらの基礎を習っていたので、取りつきもよく、皆よりよくできるし、完全に頭の中にスイスイと入るので楽しかった。全体の雰囲気は良く軍隊の中としてはスマートな教育と言えよう。教育時間外も比較的自由に生活ができるようにされていた。
それだけに、厳しい教え方でなくても頭と体、指先と耳で、早く技術を修得しなければならなかった。
◆辺境タンガップとラングーン市内の比較
時折ラングーン地域にも空襲警報が発令されたが、敵機は現われず被害は出なかった。日曜日には市内に外出することも許された。ビルマ人の住宅地にはブウゲンビリヤの真っ赤な花が咲いており、庭には美しい草花が咲き乱れていた。家庭の温かい雰囲気が懐かしく思い出される。
市街の商店街では、日本の将校や兵隊が見物や買物をしていた。
ビルマの若い女性が髪に花を飾り、奇麗なエンジに、色鮮やかなロンジを纏(まと)い皮製のサンダルを履いて二、三人が歩いている姿を見ると、今までアラカンの山や辺鄙(へんぴ)なヤンコ川岸で警備に当たっていた私には、とても美しく感じられた。このように、和やかな女性の姿を見ることができた。男性も下はロンジだが上はスマートに洋服の上着を着ていたり、垢抜けしたビルマの衣装を身に着けていた。さすがビルマの首都である。我がビルマ方面軍の総司令部が置かれている所だけに、日本人の経営する店もあり、日本人の女の子をウエイトレスにしている喫茶店もあった。
戦友と一緒に早速入ってみた。久し振りに見る日本女性はやはり色が白く天使のような感じであった。コーヒーを一杯注文したが、内気な私は一言二言声をかけただけだった。でも心が和む感じがした。市内にはもっと遊べる所があるのだろうが、我々兵隊には無縁なことだし、どうなるものでもなかった。
ただ、ここで感じたことは、第一線の戦場と後方との大きな違いである。あの、タンガップの村落へ、アキャブ方面から戦いに破れ、食物も無く、息絶え絶えになり乞食のような姿で、ボロボロの服を着て杖にすがり帰って来る兵隊と、後方のラングーンで整った服装に身を固め、便利のよい恵まれた市内を闊歩(かつぽ)している兵隊を比較する時、同じ戦地といっても場所によって大変な籤運(くじうん)の違いがあると思った。
私自身も、数日前まで深い山の中で、虎の出そうな深夜、弾薬庫の警備をしていたことを思うと、その境遇に雲泥の差があり、今をしみじみ有難く感謝した。
ラングーンにも雨期がやってきて、毎日毎晩雨の日が続いた。室内での講義と教育はあるが屋外での実地演習はできなかった。気分も何となく重かった。

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