その頃のある日、急に寒気がしてきた。ガタガタガタガタと震えだした。生まれてこの方こんな悪寒を感じた経験はない。マラリヤかも知れないと思いながら三時間ばかり毛布にくるまって震えた。
それが終わると、こんどは熱が出てきた。ドンドンと高い熱になり、ご飯もおかずも喉を通らなくなって、お茶だけが欲しくなった。飯を食べないで、お茶をガブガブ飲むと胃に悪いのだが、無性に飲みたい。
皆が学習に行き、自分だけ班内に取り残され熱に悩まされていると、健康の有難さがつくづく感じられる。どうなることかと心配で心細く寂しいこと、何とも形容のしようがない。マラリヤで亡くなった谷田君を始めタンガップで悪性マラリヤで息を引き取っていった兵士達の悲しい姿が思い出され、滅(めい)入ってしまう。
軍医に見てもらい、薬を飲み休むこと数日、悪性でなく三日熱程度のものだったのだろう、幸い三、四日で熱が治まり元気な体に回復した。やれやれと安心し嬉しかった。他に同じ程度の熱発患者が三、四人でたが、皆大事にならなくてすみ、訓練を続けることができた。
◆西谷上等兵の病
この頃輜重聯隊から一緒に来ていた元気者の西谷矯正(にしたにきょうせい)上等兵がマラリヤと赤痢を併発し急激に衰弱した。
同僚であるが私が引率してきた責任もあり、一生懸命に看病した。しかしここでは充分な手当ができないので、ラングーン市内にある陸軍の基地病院に入院することになった。少しばかりの彼の装具やお守り等を持ち、付き添って病院に行った。鉄筋の大きな病院で設備も整っているようであった。
彼は私に、赤痢のことについて「絶対に外で物を買って食べてはいかんぞ、儂(わし)は菓子を食べてからこうなったんだ。お前も気をつけろよ」と後悔の気持ちを込め注意してくれた。
私は「ここは大きな病院だから薬もあり、設備も良いからきっと治るよ」「通信技術の勉強のほうは後から頑張ればよいのだから」と励まして帰った。
その後見舞いに行った時、ちょうど内地から来ている看護婦が「ご案内します」と言つて案内してくれた。まさに日本女性の優しい声である。私の心は疼き、すがすがしさを感じた。白衣が目に痛い程で白い肌が美しく、黒い髪の匂いがほんのりと漂ってくる。なぜ日本の女性はこんなにも美しいのだろうかと思いながら後について行くと「こちらです、どうぞ」と教えてくれた。
少しぐらいの病気をしても、こんな優しい女性に看護してもらえればいいなあ等と、つまらぬことを考えた。
内科の部屋に入るとベッドが幾つも並んでいた。この部屋の人は、みんな重病なのか起きている人はいなかった。案内の看護婦は西谷君のベッドに近づき「ここです」というと、そのまま出ていった。
西谷上等兵は気配を感じてこちらを向いた。私は「西谷、来たぞ」と言うと「有難う、よく来てくれて」と元気のない細い声で答えた。普段でも細い顔が一層痩(や)せて青く、くすんでおり、目はくぼんでいた。これが二十歳台の青年かと疑いたくなる程衰弱していた。
私はあまりの変わり方に多くも語れず「充分養生して早く治れよ。お前は心臓が強いのだから大丈夫だよ」と励ました。それ程に西谷君の病状は重く、平素気丈夫な彼であったが、病魔の侵すところい・か・ん・ともしがたく、闘病の日を過ごしていた。
私が思う以上に、その時の彼は看護婦さんを頼りにし、祈る気持ちだったことだろう。ほかに現地採用のビルマ人看護婦達も甲斐甲斐(かいがい)しく働いているのが印象的であった。
タンガップの野戦病院は病院といっても野宿同様の小屋で薬も設備もなく、死出に旅立つ人の溜(たま)り場のようなものであるが、それに比較し、ここで治療が受けられるのは幸運だと思われる。でも重い病気にはかなわないが。
何回か見舞いに行ったが、一進一退というより心配の方が多くなってきた。励ましてやるのだが、うなずくだけで心なしか目には涙が光っていた。異境の地に来て、華々しい戦いにも出られず、病気に倒れての苦悶(くもん)の日々。さぞ残念であろう。そして故郷の父母兄弟を思い懐かしんでいるのだろう。
そのうち、看護婦二人がリンゲルを打ちにきた。毎日打つのだろうが、大きな針が痩せた太股に刺されている。果たして治るのだろうか?彼が快方に向かうことを祈りつつ兵舎に帰った。
彼が私を頼りにしているのがよく分かるので、学習の合間を縫って何回も見舞いに行った。

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