◇原隊復帰
◆再びタンガップの山中へ
そうこうしている間に、いよいよ教育効果試験もすみ四ヵ月間の訓練を卒業した。彼を病院に残したままで元の輜重聯隊に復帰した。教育の効果試験の結果は、私がトップだったようである。
先にも述べたが、学生時代に基礎を習っているし、真面目に学習したのだから当り前と言えばそれまでだが、聯隊本部に復帰の申告に行った時、及び金井塚中隊長に申告に行った時も大変褒(ほ)められた。おそらく成績が原隊に通知されていたのではないかと思われた。自分自身にとっては便利のよい首都ラングーンで、前線の苦労から開放されて勉強させてもらった上に、聯隊や中隊内での印象も更に上がり、有難いことであった。
タンガップの中隊本部に帰った頃は、雨期も終りに近い九月中旬だった。私は激しい雨期の期間をアラカンの辺鄙(へんぴ)な山の中でなく、都市ラングーンで食糧にも全く不自由せず過ごせたのだから、そのこと自体本当に有難いことであった。
主要な方に挨拶をすませ、私の属する瀬澤小隊に帰ってみると、山の中の掘っ建て小屋の中に四、五人の兵隊が残っていた。
建物は雨期を過ごしてきたので古ぼけ痛んでおり、いわば乞食の小屋のようであった。殆どの兵隊は各場所に分散して海岸警備等の任務に行っており、警備先でも皆この程度の小屋に住んでいるのだろうが、瀬澤小隊長もどこかの警備の指揮に当っていて、ここにはおられないそうである。この兵隊達はみんな半病人のようで顔色も悪く元気もなく、小屋の中の土間で小さな焚火(たきび)をしていた。
その兵隊達の話によると、中隊も小隊も分散していろいろの所に配置されているが、雨 雨 雨の毎日で、山の中で食物は無く雨期の間に大勢の人が栄養失調やマラリヤで死んでいったそうである。この間もタンガップの倉庫が空襲で焼かれたため、物資がなおさら欠乏し、爆死した人もあったという暗い話ばかりであった。
私がもし、ラングーンに行かずここの警備任務を続けていたら、悪性マラリヤに罹(かか)り、あるいは食糧不足で病死していたかも知れなかった。幸運であった。
その後しばらくして、西谷上等兵が不帰の客になったとの知らせが中隊本部に届いた。やっぱり駄目だったか、と私は暗然とした。元気な頃、彼のお父さんから来た手紙も見せてくれたことがあったが、身内の人が聞いたらどんなに悲しまれるだろうか。彼は立派な病院で、日本人看護婦に見取られて逝ったのだろうが、同じ聯隊の戦友に見守られることもなく、寂しくこの世を去っていったのである。その後、遺骨がどうなったか知らないが、今も在りし日の彼の特徴ある面影が思い起こされてならない。合掌
その頃、ヤンコ川のほとりにある中隊の医務室は患者で満員であった。殆どの人がマラリヤで重い患者が多く赤痢の人もいたが、繁盛するのは医務室ばかりであった。しかし薬も乏しく、悪質な病気にはどうすることもできない状態で、ただ寝させているだけのようでもあった。
◆久保田上等兵の最期
久保田上等兵がマラリヤでもう五日間高熱が続き、全く何も食べていないので入院することになった。彼はこの間まで元気で、作業していたのに四十度の熱が出たきり下がらなくて、それに下痢までするようになったのだ。私が牛車に乗せてタンガップの野戦病院に連れていった。道なき道を行くのだから揺られ揺られて大変な苦痛だっただろう。それにどんな思いをしているのだろうかと心配だった。
やっと、野戦病院についた。「まいったなあ!」と彼が言った。「しっかりしろ大丈夫だ。病院に入れば薬も沢山あるし、少しすれば熱も下がるよ」と勇気づけた。しかし、病院とは名ばかり、我々が住んでいるあ・ば・ら・や・と何ら変わりがない。幾棟かの貧しい小屋が山中の薄暗く湿気の多い場所に、建っているだけである。ここも患者が一杯で空いているところがなかった。やっと、一人分のスペースを見つけそこに入った。奥の方に大勢の患者がいるようだ。でもうす暗くてよく見えず不潔な感じが溢(あふ)れている。こんなところで治るのだろうか?
椰子の葉で造った窓の蓋(ふた)を押し上げて開ける元気もなく、皆寝ているだけなのである。そのため暗く陰気なことこの上ない。
病院はタンガップ地区にいる兵隊ばかりでなく、前線から傷ついて下がって来た者もおり患者で一杯だ。軍医も看護兵も足らず、薬剤も何もかも不足していることは明らかであり、久保田上等兵を寝かせて「また来るから元気を出しておれよ」と勇気づけたものの心配しながら中隊へ帰った。
この野戦病院でどんなに多くの人が死んだのだろうか。金井塚中隊から入院した人がもう五人も死んでいるそうである。恐ろしいことである。
それから一週間後「久保田上等兵の遺体を受領に行って来い」と命令された。やっぱり駄目だったのか彼は死んだのだ。私は愕然(がくぜん)とした。

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