◆屍(しかばね)の処理
この地で悪性マラリヤにかかれば治ることは殆どない。それに下痢を併発したとあっては、仕方がない。いくら病院といっても、薬は殆ど無く看護する兵隊が病気で倒れ、次から次へと増える患者の世話をすることはできない現状である。
結局、病人や負傷者は自力で回復するより方法が無いのである。すでに弱りきった体では、なすべき手段もなく最期を待つのみである。死んでしまえば、病院側も原隊に知らせるのが精一杯といったところのようである。野戦病院やその勤務者が悪いのではない。戦況がこんなにも悪いのである。
このようにして、薄暗い竹で造った野戦病院とは名ばかりで手厚い看病も充分な薬も与えられず、亡くなって逝つた兵士達は、自分の運命はこれまでかとあきらめながらも、また生への執着と故国への夢には去りがたいものがあったであろう。
案内されて行ってみると、久保田上等兵は昨夜十二時過ぎから様子が変わり午前三時に息を引き取ったとのことである。
遺体には彼の毛布がかぶせてあるだけである。枕元には飯盒と水筒、薬の袋と少しの日用品があった。これが彼の全財産である。余りにも寂しい旅立ちである。彼にも内地に両親があり息子の武運を祈っていただろうに・・・・。浅黒い整った顔立ちの気持の良い男だった彼は、哀れな姿に変わり果てている。
---一年四ヵ月前内地出発の時、姫路駅から宇品駅に行く夜行列車の中で、私の前の席に腰掛けていたが、しんみりと「いつまたこの汽車に乗れるだろうか?」と話しかけてきたことを思い出し、私が彼の最期、遺体の処置をするようになろうとは、つゆぞ思いもかけないことであった。
迎えに行った我々三人は、彼の屍(しかばね)を担架に乗せて病院敷地内の火葬場に運んだ。この病院にそんな仕事をする兵隊もいるのだが、余りにも死人が多く手が回らず、疲労しきっており処理ができないので、原隊の責任でやってくれとのことである。
そこには大きな穴が掘られ鉄の太い棒が数本渡されていた。我々は教えられるままに久保田君の死体をその上に乗せた。近くの山から二時間もかかって薪(たきぎ)を取ってきて、斧(おの)を病院から借りて割り木を作り、窯(かま)の中の方に放り込んだ。屍の上にも一杯積み上げた。病院から灯油を十リットルばかりもらってきて、屍の上や焚き木の上にかけた。それはあらかじめ、このために用意された油であった。
内地からここまで苦労を共にしてきたのに、その友をこうして火葬にしなければならなくなった私、与えられた命令とはいえ余りにも耐えがたいことである。しかし、屍をこのままにしておくわけにはゆかない。今ここでは感傷は無用である。軽く合掌(がっしょう)し点火した。火は油のためかよく燃え広がり、どんどんと燃え久保田君の着ている服にも火がついた。
しばらくその場を外した。その内なんともいえぬ臭いが鼻をつき、気持ちが悪い。体が焼けている臭いだろう。この火葬場で次から次に大勢の人が白骨となったことだろう。嘔吐(おうと)をもよおす臭いが立ち込める。
大分時間も経過したので、臭(くさ)いのを我慢して行ってみると、内臓あたりが焼け切らずジュウジュウと音を立てていた。長い棒でよく焼けるように直し追加の薪を重ね、風上の林の中に行って待つことにした。誰も口をきかない。
私は「人間もこうなってしまえばおしまいで、すべては終わりだ。肉体はこのようになってしまったが、人の魂はどうなるのだろうか?故郷の国へ帰ることができ御仏となることができるのだろうか。せめてそうであってほしい」と思った。
敵機に発見されると攻撃されるので、なるべく煙の出ないように努めやっと焼き終った。多少焼け過ぎてボロボロに砕けた部分もあった。
幸いにこの時間に敵の飛行機が来なくて助かった。骨を入れる壷がなく、適当な容器も無いので、もう必要のなくなった彼の飯盒に骨を拾って入れた。英霊に対しご無礼なことかも知れないが、これが一番安全確実な方法だと思わざるを得ない。大切に中隊本部へ持って帰った。命令とはいえ戦友の屍の処理に当たることは、どんなにつらく悲しいことか。
その日の夕食は吐き気がして、食事が喉を通らなかった。ご遺骨はその後どうなったか、内地まで届いただろうか?それは昭和十九年十一月頃のことで戦況は次第に悪くなり、その可能性は薄いと思われるが。届いていることをお祈りする。

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