今日はビタカンの注射をしてくれた。キニーネは胃によくない。続けて飲んでいるが今更(いまさら)効くはずもない。ふらふらしながら、外の便所に行く回数が増えるが、もうたまらない。私は痔が悪く、手術したことがあり肛門の括約筋(かつやくきん)がやや緩いので、漏らさないようにするのが大変なのである。
クラクラする頭、よろめく足元、濃い茶色の小便、血のような粘液物が混じった大便、ああ恐ろしい。
その日も暮れ、夜になったが熱は一向に下がらない。体温計は四十度一分を指したままで、汗は全然出てこない。
衛生兵もこの悪性マラリヤにはホトホト手を焼いている。私も、次々に倒れ死んでいった兵士達の姿を見てきた。先日も久保田君の罹病(りびょう)から最後の姿を見届けたばかりであり、死の恐怖をひしひしと感じる。
でも自分だけはそのコースをとらないでよくなるだろうと、欲目なことを思うのである。椰子の葉で葺(ふ)いた屋根の隙間から残月の明かりが病室に差し込んおり、周囲の患者は寝静まっている。内地から持って来て肌身離さず着けているお守りをもう一度固く握り直してみると、母の姿が思い浮かんでくる。
「敦ちゃん、お母さんが一生懸命信心しているから、元気をだせ」「お前のために一心にお祈りしているから、お前はきっとおかげをいただけるから」と、母がはっきり夢枕にたち、幾らか気分が落ち着いて来た。そして「神様どうか助けて下さい」と深く厚いお祈りをした。声には出さないが悲壮な願いであった。
高い熱にうなされ体を反転させ、うつらうつらしている間に夜が明けた。昼中は今日も暑い日である。発病してから四日になる。一日一日と悪くなっていくだけで、またしても不吉な予感に襲われる。周囲の者も「小田はもう駄目だろう」と感づいているのだろう。誰も声をかけて来ない。今日か明日には野戦病院に行くような命令が来るのではないかと、みんな思っているようである。午後になると熱に加えだんだんと下痢が激しくなってきた。衰えてゆく体、急転直下奈落(ならく)の底に転落するようだ。今日もそのまま日が暮れてきた。
◆救いの神
夕方、志水衛生伍長が病室に入ってきて、「小田どうだ」と尋ねられた。「はあ」と力なく答えた。勇気づけるためかわざわざ笑顔で親しそうに「弱ったか、熱が出て何日かのう」と聞かれた。私は「今日で四日ですが、ずーっと熱が出たきりで下がらないんです。それに下痢も始まり・・・・」と哀願(あいがん)するような気持ちで答えた。神様にお祈りするような心境で、それに知っている人だけに、いささか甘えたい心理も働きつつ答えた。「そうか」と言って衛生伍長は立ち去った。
しばらくして「小田ちょっとこちらへ来い」と呼ばれた。病室を出て奥の部屋にふらふらしながら行った。誰もいない治療室だった。もう室内は薄暗くなり、カンテラに明かりが点されていた。
「腹ばいになって尻をだせ、打ってやるから。この注射は人によってはよく効くんだ。だけどこれはもう殆ど無い、取っておきなんだ。もう補給もないだろうし」と言いながら「痛いぞ、我慢しろ」と言って、グサリとお尻に一本打ってくれ「もう一本だ、こちらの尻だ」と言ってグサリと二本目を注射して下さった。バグノールという薬だそうだが、当時貴重品中の貴重品だったのだろう。兵隊の私にもこんな戦況で辺鄙(へんぴ)な山奥にいる中隊の医務室に貴重な薬品が、沢山在るはずがないことは分かる。それを私に打ってくれたようである。尻の注射は痛かったが、これぐらい有難い痛さはなく、感謝の注射であった。
注射が終わった後、志水衛生下士官は「元気を出しておらんといかんぞ」と一言励まして下さった。
しかし、熱は下がることなく暗い夜は更けていった。やはり駄目なのだ、もう駄目なのだ、私の運命もこれまでかと悩み、不吉なことのみが頭の中を駆けめぐり、眠るでもなく目覚めているでもない状態が続いた。その内いつの間にか眠ったようである。ふと目が覚めるともう朝だった。
少し気分が良いではないか。「少しいいぞ!」心が明るくなった。「シメタ、あの注射が効いたのだ」きっと志水伍長の措置が効を奏したのだ。有難い、志水伍長有難うと思わず手を合わせた。体温を計ってみると三十八度だ。四日間ぶっ通しで四十度続いた熱が下がっている。あのバグノールという注射が私にはよく効いたのだ。病状により、いつでも誰にでもどのマラリヤにも効くのではないようであるが、私には幸運にもピッタリ効いたのだ。
昨日までは何も食べられなかったのに、今朝はお粥(かゆ)が少し食べられた。昨日に比べ今日は本当に嬉しい。夕食のお粥はもっと食べられた。病気が快方に向かう時の嬉(うれ)しさは格別である。希望が湧きその夜はよく眠れた。
翌日、体温は七度五分に下がり下痢も止まった。素晴らしい治り方だ。不思議なぐらい熱が下がり下痢も全く無くなった。私は死の淵から救われ、日々快方に向かい半月もたたない内に元気に働くことができるようになった。三途(さんず)の川まで行って引き返してきた大変な幸福者である。このことはいつまでも忘れられない。復員後戦友会で私はこの命の恩人に時々お目にかかる機会に恵まれている。

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