六 戦況不利
◇戦況の推移
◆敵機頻繁(ひんぱん)に来襲
山の中で敵の監視を逃れながらひっそりと過ごしている間に、戦況は急速に悪化し敵の飛行機は度々飛来し、爆撃も頻繁になってきた。よく晴れた日に爆音が西の方インド洋のベンガル湾方面から聞えたかと思うと、爆撃機が二十機ばかり見事な編隊を組んで飛んで来る。まだ新しい飛行機だろうか太陽に輝いて銀色にキラキラと光っている。
我々のいる所から三キロ程離れたタンガップの町の上空に差しかかったかと思うと、一斉にパラパラと光る物を落した。飛行機から離れた瞬間のみ見える物体であるが、その後は見えない。十〜十五秒するとドカン、ドカン、ドカンと大きな爆発音が聞こえ、その辺りから土煙が幾つもはね上がった。一帯は煙に包まれてしまい、やがて火災が発生してきた。
日本軍には反撃する手だては何も無く、敵は縦横無尽(じゅうおうむじん)に攻撃をしかけてくる。敵のなすままで、いくら歯ぎしりをしても仕方がない。
これが友軍であれば、どんなに嬉しくどんなに頼もしいことかと思ってみても、敵機だ。残念ながら私はビルマに来てから友軍の飛行機を殆ど見たことがない。
やがて、この頃から敵の大編隊が我々の遥か上空を東に向かって飛んで行くのを見るようになった。どこを爆撃しに行っているのか分からないが、多分ビルマ中部平原の日本軍の拠点や、我が後方の陣地や基地のほか、食糧倉庫や兵器倉庫を爆撃しているのだろう。
そして、偵察機が私達の隠れている山の中を縫うようにして低空で偵察に来るので、身動きもできない状況となってきた。日中は大きくよく茂った木の下に隠れ、煙を出さないようにし、暗くなってから飯盒炊事をする生活を余儀なくされた。
その頃、ビルマの女性二人が我々がいる山深い所へ物売りに来た。一人は中年、もう一人は娘らしく若かった。私はラングーンから原隊に復帰して以来ここ三ヵ月ぐらい現地人、特に女性など見たことがなかった。日本人が餅(もち)が好きだということで、餅を作って売りに来たのだ。軍票の値打ちが下がりかけてはいたが、まだ使えたのでそれで支払いをした。
娘の方は赤いロンジを腰に巻いていたが魅力的で印象に残った。顔にはビルマ風の、木の汁の白いものを塗る化粧をしており、足は裸足だったが、なんと美しいなあと女性を感じた。一服の清涼剤で心の和む一時であった。誰も同じ気持ちだったと思う。ただそれだけのことを今も覚えている。
時まさに昭和二十年一月、ベンガル湾ラムレ島方面に敵の軍艦からの砲撃が開始され、我々の所にもその砲声が遠雷のように響(ひび)いて来た。戦場間近しの感深く様相が大きく変わり、暗い気持ちで正月を迎えた。正月らしい食物も無く、やっと飢えを凌(しの)ぐ程度であった。
だが、経理担当の金田軍曹が餅米(もちごめ)をどこかで調達してきて、炊事班の三木兵長等が丹精込めて餅を作り一個ずつ配ってくれた。
大正天皇の御製に「軍人(いくさびと)国の為にと射(う)つ銃の 煙のうちに年たちにけり」とあるがそれを思い出した。実際ここビルマでの戦況は日に日に悪くなっている中で、私は数え年で二十三歳、満年令でもうすぐ二十二歳になる昭和二十年の正月を迎えた。
その頃は、敵がいつ上陸してきても戦えるように武装したまま仮眠(かみん)する夜もしばしばあった。その後、敵機の偵察から逃れるため、住む場所を変え、より深い山の中で大木の下に、半地下式の穴を堀った。次第に追い詰められてゆくのがひしひしと感じられた。
◆ドイツが負けたというビラ
二月になった頃、「イタリヤが負け、ドイツも降伏した。ヒットラーが死んだ。一葉落ち二葉落ちて天下の秋を知る」と書いたビラを英印軍が播(ま)いていった。それを拾った人から人へと次々にうわさが流れてきた。半信半疑ながら大変なことになったと思った。あれ程強かったドイツ軍が何故負けたのか。日本はどうなるのだろう?負けはしないだろうが、勝つことは難しく憂慮すべき戦況だと思わざるを得ない有様だ。味方からの情報は全く入らない。敵の散布するビラしかない。敵の宣伝を信じはしないが、これを否定する確実なニュースはどこからも入ってこなかった。
この頃、ラムレ島の守備に就いていた鳥取の歩兵聯隊が、物凄い艦砲射撃(かんぽうしゃげき)を受けていると聞く。
強大な物量を持つ敵の攻撃に友軍は手も足も出ず、苦心惨憺(くしんさんたん)しているとのことであった。砲声は昼となく夜となく殷々(いんいん)としてここまで聞えてくるようになった。その島に私はいないのでよく分からないが、実際そこで戦っている兵士達がどんなに被害を被り、どんな悲惨な状態に陥(おちい)っているのかと思うと、たまらない。ただ健闘を祈るのみであった。

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