◆タマンド地区の警備と敵の襲撃
二月中旬に、瀬澤小隊はタマンド地区の海岸警備に当たることになった。ヤンコ川の上流の山中を出て、海岸に沿い北へ向かって最前線に出動した。数日間の夜行軍が続き、タマンドの一部落の海岸に着いた。そこには現地人の家が二十軒ばかりあり、海岸の近くに公会堂のような小屋があったので、そこに泊まることになった。野宿ばかりしてきた者にとって、屋根のある家の中で休むことは有難いことであった。
ここに来たのは第二小隊の一部で、瀬澤小隊長以下浜田分隊長を含め第四分隊の四十名ばかりであった。
この頃、既に小隊の中で第三分隊約四十名は他の方面に分散しており、小隊長の所を離れていた。我々は周囲の状況を良く調査し敵の上陸に対処した。ここは入江になり小さな船着場となっていて、ベンガルの海が前方に大きく開けていた。よく見ると敵英印軍が上陸した形跡があり、携帯食糧を食べた後の包み紙が捨てられていた。
我が方の兵器は軽機関銃が二丁と小銃三十五丁余りで極めて軽装備である。弾丸の数は機関銃と小銃を合わせて二千発も無かったであろう。敵が艦砲射撃をしてどっと上がって来れば、一溜(ひとた)まりもないことは明らかである。しかし我々瀬澤小隊はここを厳守することを命じられたのである。
もうこの頃は充分な食糧も無く、現地人の蓄えていた籾を鉄帽に入れて帯剣の頭で搗いて籾から玄米(げんまい)、玄米から白米へと、時間をかけて食べられるようにし、と・う・が・ら・し・の辛い刺激で食べていた。
ここでちょっと、私の回りにどんな人がいたか思い出してみる。瀬澤小隊長、この人は旧制中学校の図画の先生をしていた方で温厚な人柄であった。私はタンガップにいた頃、この方の将校当番を仰せつかったことがあった。私はあまり気性が鋭い方でないので、充分に食糧を仕入れてきて小隊長に差し上げることができたか否かは自信がなかったが、何かと心が通じあって大変可愛がって頂き、目をかけてもらっていたのである。
浜田軍曹は分隊長で、張り切った下士官といったタイプの人情味のある聡明な方であった。
次に森剛伍長だが、シンガポールかどこかで最近下士官教育を受けてこの分隊に配置されてきたばかりで、いくらか遠慮されており、若く人柄の整うたおだやかな方のように見受けられた。分隊長見習い中といったところであった。
戸部兵長は班長で真面目な方で班内をよく取りまとめており、古参の玉古上等兵は機関銃手として頑張り、機転のきく人であった。戸部班長も玉古上等兵も、私を良い兵隊として常にそのように扱って下さった。厳しい軍隊で野戦の中にいながら、温かい雰囲気の中にいられることは、本当に有難かった。
その他に田中古年兵、前田古年兵、松本古年兵、平田古年兵等がいた。そして、我々と同じ初年兵に橋本、妻鹿(めが)、長代(ながしろ)、三方(みかた)、中村、萱野(かやの)、山崎、中山等、その外同じ班内の人や他の班の人が二十名混じりあって、総員で四十名ばかりが行動を共にしていたと記憶している。
編成当時瀬澤小隊は百二十名いて、二個の分隊で六個の班で編成されていたが、この時は既にいろいろの方面に、分散され配置されていたし、既に数名は亡くなっており、まとまっていたのはこれだけであった。
ここで思い出して書き出した方々は、その後殆ど戦死され、内地へ復員できたのは、妻鹿(十年前死亡)、中村(五年前死亡)、前田(三年前死亡)、田中、長代の諸兄と私だけである。班内でも大部分の方がビルマの地で散っていかれた。痛恨(つうこん)の限りである。
さて、この海岸の警備任務に就くにあたり、森伍長を斥候長として私達三名で海岸線の偵察に出掛けた。我々が陣を敷いている湾は河口でもあり、椰子の木も生えた緑の多い船着場であった。
しかし海に向かって左手の方は岩ばかりの海岸が続きゴツゴツしたところであり、右手の方即ち船着場の河を隔てた向こうはマングローブの茂った浜辺が続いており、我々は重要地点を警備していることを悟った。
警備について二、三日後の深夜のこと、ドゥ、ドゥ、ドゥというエンジンの音がして敵の砲艦がだんだん河口を上って近づいてきた。その時不寝番が「敵襲!敵襲!」と大きな声で叫んだ。皆武器を持ち外に出てあらかじめ用意した壕(ごう)に滑り込み、河口の方を見ていた。
小隊長が「射つな」「射つな」と命令した。「敵が上陸してここまで来てから射つのだぞ。それまでは射ってはならんぞ」と言った。射てばこちらの位置を知られるだけで、こちらが一発撃てば千発お返しが来ることが目に見えている。それにこちらは、数える程しか弾薬を持っていないのだから当然の命令だ。

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