そうするうちにバリバリ、バリバリと敵の砲艦から砲撃が開始された。曳光弾(えいこうだん)が尾を引いて飛んで来る。高い木の枝が折れる音、飛び散る音が凄い。一旦止んだのでホッとした。しかしそれも束の間、今度は少し角度を降ろして激しく撃ってきた。地上すれすれに曳光弾が飛んで来て、我々は壕(ごう)の中で頭を縮めた。ガガガタと歯が震える。弾丸は我々が泊まっている公会堂を貫いている。凄(すご)い恐ろしさだ。砲艦一艘(そう)でこれだから、軍艦から攻撃を受けたラムレ島やチェトバ島はどんなに激しかったことかと思われた。
敵の火砲と味方の火砲の比較は千対一、いや万対一で、どうにもなるものではない。もう一つ不思議なのは我々がここに来てから、一週間ばかりになるが、敵の偵察機が来たこともないし、見えない沖の方にいる敵の軍艦が、ここを監視しているようでもないのに、どうして我々の存在が分かるのか。常に木の陰に隠れている我々がどうして知られるのか。敵は我々日本軍が想像するより遥かに凄い探知器や観測計器を持っているのだろう。
霰(あられ)のような攻撃が止んだ。静かで不気味な時間である。今にも敵が上陸してくるのではないかと、目を皿のようにし耳をそばだてていた。しかし、敵はエンジンをかけて、もと来た方向に向かって引き揚げて行った。エンジンの音が遠くに去った後、やっと緊張がほぐれた。「凄い奴だなー」と誰かが口を切った。「なかなか、やりやあ〜がるなあ」と誰かが答えた。「皆無事か」と浜田分隊長が尋ねた。やっと、みんな壕(ごう)から這い出て小屋に帰った。幸い誰も負傷してなくて助かった。興奮が納まらず、誰も眠れないようである。
そうしている間に、「マスター」と外で呼ぶ声が聞こえる。何事かと思って出てみるとビルマ人が二人立っている。一人が先程の弾で怪我をしているので手当てをし薬をくれという。中へ入れローソクを点(とも)し、衛生兵を起こした。怪我人は背中を撃ち抜かれ、かなりの重傷である。
部落の長が連れて来たのだが、彼も緊張した趣(おもむき)で手には長槍を持ったままであった。それは彼らの身を守るために用意したものらしい。衛生兵は傷口にヨウチンを流し込み、包帯で縛り丁寧に処置をした。彼らは大変感謝して帰ったが、戦争のために第三者までこんな犠牲になっているのを見て本当に気の毒に思った。
それからはいつ、敵が上陸してくるか分からないので、それに備え、より充分な警戒をした。私は橋本上等兵と共に、後方の少し高い山に行って見張りをするよう瀬澤小隊長より命じられた。それは敵艦が攻撃してくるのを早く見付けるためであったが、後から思うと、そればかりではなく敵が上陸してくると全滅する恐れがあるので、その場合にこの二人を連絡要員として、残して置こうと考えたのかも知れない。
二人は小高い山の上にあがり昼夜続けて見張りをし、敵の砲艦の様子を監視した。そこは海や入江の様子がかなり遠くまで見える適所であった。虎を警戒しながら過ごした。
◆橋本上等兵と語る
橋本梶雄上等兵と私は、私が青野ヵ原に転属してきた時以来、最初から特に仲良く助けあってきた仲で、今までにいろいろと身の上話をしてきたが、ここでは二人だけであり、時間は幾らでもあるので更に詳しく話をした。彼は旧制高梁(たかはし)中学から、秀才の行く旧制第六高等学校を経て、東北帝国大学を卒業し、大阪で一流の会社に勤めるエリート社員で、私より十二歳も年上である。温厚な人柄で、私の人生の大先輩、先生のような人であった。先に述べたように、既に奥さんも子供さんもあり安定した家庭を持った方であった。
私は子供の頃、備中(びっちゅう)の高梁の町に住んだことがあり、岡山市で中学生活をし、旧制高等工業学校は東北地方山形県の米沢市に行ったので、共通した土地の話が合い人生経験を教えられることが多かった。元気で帰ったら、美味しいぜんざい屋に案内するからなどと、内地を懐かしんだものだった。
奥さんの写真を出して何回も見せてくれた。その奥さんの写真の着物の柄は、姫路の駅に両親と子供さんを連れて送りにこられた時のそれである。楽しい家庭が赤紙一枚でこのように別れ別れになるのかと思うと、気の毒でもあり現実の厳しさを感じないわけにはいかなかった。独身の私が想像する以上のものがあったであろう。橋本君は年が三十三、四歳で兵隊としては決して若くない。
若い私が、こんなに苦しい思いをしているのだから、彼の肉体的精神的な苦痛は想像以上のものがあろうが、よく頑張っておられると感心したものだ。
私は自分の蝿(はえ)が追えないのに、気がつけば彼の蝿を追う手助けをする程の親しい戦友であった。
私は独り身であり両親の写真までは持ってきていなかったが、米沢のさくらんぼの話をしながら過ごすうちに、親密さも更に深まり、お互いに無事内地へ帰還できるようにと祈りあった。

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