◆アン河渡河地点の状況
こうした監視をしている間にも、ここから二十キロ先のカンゴウ方面でも激戦が続き、岡山の歩兵聯隊が苦戦していると聞いた。
この海岸警備は約二十日で打ち切られ次の地点に移動することになった。ここに敵が上陸して来なかったので助かったが、来ていれば全滅していただろう。
更に北東へ行軍し移動が続けられた。その折、灌木の間に陣地を敷いていた捜索(そうさく)聯隊の白井大尉に出会い、瀬澤小隊長が戦況を聞いたところ、ひどい負け戦になり各部隊とも多くの損害を被り対応に苦慮しているとのことであった。私は白井大尉の勇姿を見たのはこの時が初めてであったが、この方面での戦争は日々苛烈(かれつ)になっていることを知った。
何のためにどこを目指しているのか分からないが、牛をもらって肉を食べての夜行軍、昼は木の下に隠れてフクロウのような行動をした。もう、現地のセレーたばこも無くなった。畑にあるたばこの葉を取ってきて乾かし、味が良かろうと悪かろうと吸って凌(しの)いだ。飯盒炊事で少しでも煙を出すと敵機が低空で飛んで来て、機関砲を射ってくるので、よほど注意しなければならない。
敵機に対し何もできず、ただ隠れるだけである。
一両日して第二アラカン道の西の入り口に当たるアン河の渡河(とか)地点にたどりついた。そこで渡河作業をすることになった。アキャブやカンゴウ方面から後退してくる兵士達の渡河を助けたり、ベンガル湾海岸方面より引き上げてくる弾薬等の渡河、運搬作業をした。
大多数の兵士は集団で来るのでまだまとまっているが、落伍してふらふら歩いている兵士達の姿は誠にみじめである。以前タンガップで見た姿よりもっと哀れでみじめであった。ボロボロにちぎれた服、靴は殆ど履いておらず、裸足にロンジの切れ端を裂いた布を巻いている。杖をついてトボ、トボと歩いて一人一人と来る。髭(ひげ)は伸び痩(や)せ衰え、目は虚(うつ)ろで頬は落ち、土色の顔は二十代の若い兵隊の姿ではない。
持ち物は雑嚢(ざつのう)に飯盒、水筒、自決用に手留弾一個を持っているだけである。我々にも彼等を助ける食料もなければ薬等もちろんない。哀れで気の毒にと思うのみでどうすることもできない。我々も野宿だが、彼等も道端の木の陰にごろりと寝転ぶだけである。
休んだままで食べる物もなく、動きもせず二、三日土の上に横になったままで、いつとはなしに事切れていくのだ。あまりにも哀れで悲しい姿である。戦い、戦い、苦しみ、苦しみ、飢餓(きが)に悩まされ、病魔に犯され、若い命が急速に衰え名もなき異境の原野に朽ち果ててしまうのである。
その中で私は一人の知人に偶然出会った。彼は昨年ラングーンで共に無線通信の教育を受けた村井上等兵という鳥取の歩兵聯隊の兵士で、その後ラムレ島に行っていたが、やっとここまで帰ることが出来たとのことである。かつての肉づきの良い紅顔の若武者の姿はなく、今は骨と皮ばかりでどす黒く汚れ垢(あか)だらけとなっていた。彼も他の人と同じように、杖(つえ)にすがっていた。
「ラムレ島に対する敵の攻撃は物凄く、全員の三分の二は海が渡れず、三分の一の俺達だけが、筏(いかだ)を組み夜の間に海を泳いでやっと本土に帰ってきたのだ。舟も無く敵の監視と攻撃が厳しいので、昼間に渡ることは絶対にできない。その島で多くの戦友が餓死(がし)しつつある」と悲痛極みなき話であった。
再会したものの、衰弱した彼は多くを語る力もなく、とぼとぼと去っていった。お互いにこれから大アラカンの山を越えて撤退してゆかねばならないのだ。彼はラムレ島からここまで来たので、もう大丈夫だと言ったが、これからどんなことがあるのやらと、彼の後姿を見送った。
それ以後、村井上等兵の消息を聞いたことはなかった。

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