◇第二アラカン山脈の守備
◆シンゴンダインで弾薬の警備
瀬澤小隊のアン河の渡河点での作業も一週間ぐらいで終わり、そこから東へ二十キロぐらいアラカン山脈を登り、シンゴンダインという山の中の地点に移動した。深い谷と凄い山の間で、ここに貯蔵している弾薬と燃料等の警備に当たることとなった。
既にこのシンゴンダインには、前線からここまでたどりついたものの力尽き、次々と倒れた多くの将兵の死骸(しがい)が折り重なり、死の谷、恐怖の谷と呼ばれていた。
その近くを通る時、死臭嘔吐(おうと)をもよおす程で、耐えられない臭(にお)いである。我が小隊四十名は、ここで約二十日間、野積みされた弾薬の保管警備の仕事を続けた。この間に、前線から部隊を組み、あるいはバラバラになり、多くの兵士が疲れ果てた姿で、アラカンの大山脈を西から東へと登り後退して行った。
野砲(やほう)聯隊が砲を馬に輓(ひ)かせ、やっとここまで登って来た。馬はもう疲労しきっていたのであろう、幾ら「前へー進めー」と号令をかけても動かなくなってしまった。一晩中「前へー進めー」「前へー進めー」と号令をかけていたが、翌朝までに一キロ程しか登っていなかった。野砲聯隊も大変だなあと思った。馬も食物をろくにもらえないで、重い大砲を引いて険峻(けんしゅん)を登るのだから、可哀相なことである。この地点は第二アラカンを二日程登ってきたところで、まだ登り口である。頂上までにまだ三十キロもあり、これから先が案じられる。
◆懐かしい人に出会う
こうした中、岡山の歩兵第百五十四聯隊が印度洋ベンガル海岸のカンゴウ方面より後退してきた。この折、バッタリ旧制岡山二中の同級生だった内田有方君に会った。まさに奇遇、突然の出会いで懐かしい限りである。彼は少尉の階級章を着けておりたくましい感じの将校姿であった。
既に、カンゴウでの戦闘を経験し多くの戦死者を出した直後らしかったが、彼は元気で精悍(せいかん)な感じさえした。お互いに健闘を祈り固く手を握りあい別れたが、大きな励みとなり心の支えになった。
もう一人は橘秀明(たちばなひであき)教官である。私が姫路で金井塚隊の教育隊に入隊したとき、初年兵教育をして下さった方で、特別に私を可愛がって下さった。見習士官室の隣の部屋を勉強しろといって私のためにわざわざ貸して下さった恩人、橘少尉である。野戦編成になった金井塚隊に私を送り出し、別れを惜しんで下さったのである。
しかし、その後この方も他の部隊に転属になり、こうしてビルマに来ておられ、ここアラカンの山中で思いもかけぬ奇跡的な出会いとなったのである。本当に懐かしく、涙が出る程嬉しい再会であった。よくも、広いビルマの中で会えたものだ。神様の思召しにより会わせて頂いたのだ。
別れてから二年ばかり経っていたのだがお互いにすぐに分かった。
橘少尉は「小田元気か。幹部候補生の試験は?」と先ず訊(たず)ねられた。
それもそのはず、私がこの野戦部隊の金井塚隊に転属になったのは、幹部候補生の試験が留守部隊の有元隊では行なわれず、野戦部隊の金井塚隊に転属すれば受験できるとの人事係准尉の言葉で、私も受験したいばかりに転属することになり、その結果ビルマの果てまで来たことになったのである。その経緯を知っておられる方だけに、試験を受けることがあったかどうか、心配して聞かれたのだ。私が今も普通の上等兵の衿章を着けているから、およそのことは察しながら。
私は「試験は全くないのです。もう戦争ばかりで、試験など行なわれないのです。でも、こうして元気ですし、皆によくしてもらっているので」と答えた。
「こんな戦況では、どうしようもないからのお」と慰(なぐさ)めて下さった。
橘少尉がいつまでも私のことを心配して下さっていることに感激し、胸に熱いものが込み上げてきた。
ところで、将校なのに何故、ここを一人で歩いているのだろうか、当番兵も従えていないで、と不審に思った。一応将校としての拳銃、軍刀等の武器、背嚢(はいのう)等の装具は持っておられるが、落伍しかかっているのではないか?と心配になった。

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