それ程弱っておられる様子ではないが、何となしに不安を感じた。だが、私の教官であり私を一番可愛がって下さった見習士官、軍隊生活中で最も思い出に残る橘少尉に「どうか元気でいて下さい」と心を込めて言うのみである。
「お前も元気でな」と優しい返事が返ってきた。そして、第二アラカンの山また山へ登っていかれる後姿に心から幸運をお祈りした。
---橘少尉は兵兵団(つわものへいだん)の我々輜重聯隊でないので、その後の様子は全く分らない。生きておられたら、終戦後二年も抑留されている間に風の便りで消息が分かるはずなのに、何の音沙汰も聞くことがなかった。戦況不利の状況から推して、よくないことが想像され、あの時が今生(こんじょう)の別れになったのではないかと思う。
---五十二年の歳月が流れた今も尚(なお)懐かしい。色白、やや丸顔、黒縁の眼鏡をかけた面影が目に浮かんできて堪(たま)らない。橘教官、橘中尉、教育兵の私を特に心にかけて可愛がっていただきました。消灯後わざわざ、外出先から買ってきた寿司を初年兵の私にご馳走して下さったこともありました。
軍隊生活は一般とは別世界の厳しい所ゆえ、人の情はより温かくより強く感じられるものである。これらの御恩は決して忘れてはならないし、私の一生の意義ある思い出、軍隊生活の中の一際(ひときわ)懐かしい思い出として大切にし、いつまでも懐かしみ、いつまでも橘秀明中尉にお礼を申し上げたい。
本来ならば恩人の本籍地を調べ、消息を調べ、感謝し、お礼申し上げなければならないのだが、分からないまま歳月が流れてしまった。凛々(りり)しく優しい面影が今も脳裏に浮んでくる。嗚呼(ああ)!
◆悪性マラリヤまん延
第二アラカンの山中で引き続き弾薬や燃料の警備をしていた。四月下旬頃から五月当初にかけて毎日、敵の大型飛行機二十機ばかりが編隊を組み、我々の遥か上空を東へ向って飛んで行く。どこへ行っているのだろうか?後で分かるのだが、その頃敵はビルマ中部の主要地域や平原に拠点を作り、陣地を確保して我が軍を攻撃し各所で優位に立ち、中部重要地点を占領し支配下に収めつつあったのだ。
我が兵兵団はビルマの西地区、アラカン山脈に取り残された状況となっていたのだが、こうした中でも瀬澤小隊は一番西の最前線で引続き弾薬庫の警備をしていた。もう誰も使うことはないだろう弾薬や荷物の警備はおよそ意味のない仕事になっていた。だが、その命令に従っていた。その間に多くの部隊が我々の所を通りアラカン山脈を越え後退していった。
この山の中は前にも述べた通り、悪性マラリヤの根源地で、兵士は次々に倒れていった。昨日まで元気者で筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)としていた古参の松本上等兵が、急に高熱に冒され日に日に衰弱していった。ここ数日何も食べられず白湯(さゆ)だけ飲んでいる。例の如くやがて下痢が始まった。どこにもよく効く薬はない。各自錠剤のキニーネ薬を僅か持っているが、そんなものは今更効かない。
病の進行を見守り運に任せるだけである。寝ている彼に蝿(はえ)がたかってくるが、もう追い払う力もなく、鼻の穴や唇辺りに群がるにまかせていた。やがて黙ったまま事絶えてしまった。気の毒な末路であった。彼は鳥取の出身でさわやかな感じの人であった。この有様を親や兄弟が見たらどんなに悲しまれるだろうか。
---今も、松本古年兵の白い歯並みが整った面白(おもじろ)の顔が目に浮かんでくるが、それも遠く過ぎし日のことである。
◆内地の短波放送
その日は四月二十九日で天長節の日であったと思う。手元に細々と食べるだけの米や乾パンがあり、敵も我々の所へ襲撃してこなかった。警備保管中の各種器材に混じり、敵から分捕った無線機があった。スイッチを入れてみると、壊れてなく音がするではないか。いろいろ調節していると日本の短波放送が聞こえてきた。もう、二年近く日本の放送を聞いたことがなかっただけに懐かしく、かじりついて聞いた。
放送は「毎日敵機の空襲で次々に家が焼かれている。今日も名古屋市が大爆撃を受けた。家は焼け建物は壊れても、国は焼けないのです。今こそ国民は一丸となって、屍を越え灰燼(かいじん)を踏み越え鬼畜(きちく)米英をやっつけねばなりません。頑張り通そうではありませんか」と悲痛な声である。
内地も大分やられているのだと今更ながら驚いた。ビルマの現地もこのように苦心惨憺(さんたん)しているが、内地も空襲を受けて随分損害を被りながら日本中のみんなが頑張っているのだと思った。
シンガポール港の倉庫監視当番をしていた時、現地人が「先では日本が負ける。英国が必ず勝つ」と言っていたあの言葉が、ふと脳裏(のうり)に浮かんできた。
戦争中の二年及びその後の抑留中の二年を通して、内地の放送を聞いたのは、この時だけである。もちろん、他国の放送を聞いたこともなく、全く放送は珍しいことであった。

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