七 転進作戦

◇最後尾の小隊
◆第二アラカン山脈より転進を開始
置き去りになっていた瀬澤小隊に後退転進命令がきた。もう、私達より前線の、西方面に残った部隊はいない。早々に東へ東へとアラカンを登り後退してしまったのだ。我が小隊が第二アラカン方面でいよいよの最後、しんがりの部隊である。
責任者である小隊長瀬澤中尉は、この命令をどんなに待ちわびておられたことだろうか。忘れられてしまったのではないかなど、責任者として考えることも多かったことだろう。
我々の小隊が、日本軍の最後尾を守りながら、シンゴンダインを出発したのは五月三日ぐらいだと思う。遅れているので昼夜を分かたず山を登った。アラカンの東の平地へ出る地点で、どこかの守備隊が待ってくれることになっているので、一日でも一時間でも早く合流しなければならないと、懸命に歩いた。
山を登って行くと、今まで他部隊がいた宿営場所には、壊れた自動車や、倒れかけの小屋が散らばり、駐留していた場所に雑品が残され捨てられていた。廃墟(はいきょ)というか、敗残後の片づけは必要なしというのか虚(むな)しい有様であった。屍を埋めた所も見受けられた。
二日程歩いた所で私は急に悪寒(おかん)を覚えた。マラリヤの発熱前兆(ぜんちょう)だ。しまった、えらいことが起きたと直感した。あのシンゴンダインの凄い奴だろうか?それなら助からないかも知れない。また、半年前にタンガップでマラリヤで死にかけたときのことが思い出されてならなかった。あの時はまだ一ヵ所に駐留して小屋に住んでいたが、今度は毎日歩き通さなければならない悪条件の中であり、ついて行けるだろうかと、暗澹(あんたん)とした気持ちに襲われた。
山を登っているのに汗が少しも出てこない。普通の健康状態なら当然、汗が出るのだが様子が違う。熱が激しくなり、山坂の行軍で疲労はつのるばかりだ。ただ以前のタンガップの時に比べれば、お粥がほんの一口だけだが喉に入る。前回で少し免疫が出来ているのかも知れない。
それに、苦しく弱りながらもどうにか皆について歩いている。ここで落伍すればもうそれまでで、山の中には何も無い。後から来る部隊はもちろん、ただの一人もいない。あるのは死のみである。ついてゆくより仕方がない。泣くこともできない。汗が出ればよいのに全然出てこない。
頂上を過ぎ二、三日坂道をどんどん下ってくると、遥かに平地が見えはじめた。後一日行程で平地に出られそうだ。小休止をした時、荷物を軽くするために鉄帽を装具から外し竹薮(たけやぶ)の中に捨てた。今後の戦闘で鉄帽が必要なことがあるとしても、今の苦しさには耐えられないのだ。瀬澤小隊長がこれを見ていたが、「内地の工場で心を込めて製造してくれた物だが、仕方がないのう」と私の行為を認めてくださった。軍隊で兵器は最も大切なものなのだ。鉄砲と剣が一番ランクが高い。鉄帽はその次のランクだろうか。
そこを出発し山を下って行くと目指す平地では戦闘が展開されているではないか。大砲のドカン、ドガンという音が聞こえ、砂塵(さじん)が濛々(もうもう)と起っている。我々を、アラカン道からの出口であるパダンの交差点で待ってくれている部隊が、戦っているのだ。やがて日が暮れたが、その夜は徹夜で歩いた。肝心のパダンの出口を敵に押さえられていたので山裾(やますそ)の細いかわせ道を進んだのであろう。自分にはよく分らないが人の後を取りはぐれないよう夜道を懸命に歩くだけである。夜の間に少しでも敵から離れた所まで逃げておかなくてはならないのだ。
喉が乾く。水筒の水はとっくに空になっている。マラリヤの熱は依然として自分を苦しめ続けている。苦しく、きつく、ふらふらになりながらも歩きとおした。小休止もなく、荒野の細道を南へ南へと逃れていった。夜が明けたが行軍は続いた。
昨日の朝から二十時間も殆ど休みなく歩きとおしである。この時、小隊長の命令で私達特に弱った者数人に、ビタカン注射をしてくれることになった。たいした薬ではないと思ったが、幾らか元気が出た。これも私には誠に幸運だった。もし、この注射をしてもらっていなかったら、私はここで落伍していたかも知れない。それ程弱っていた。やはりビタカンが効いたので歩けたのだ。
そうしているうちに、敵の戦車が後から追っかけてきた。地響きが聞こえる。小走りに逃げた。
どこをどう走ったか分からないが、いつの間にか、敵戦車は我々と離れたようだ。他の方向に行ったのだ。ああ、助かった。
まだまだ歩き続けた、もう午後二時ぐらいだろう、暑い暑い、喉が乾きカラカラだ。私はマラリヤで特別苦しく汗も出ない。もう、二十時間も歩きとおし、枯れかけた灌木が少し生えている荒涼(こうりょう)とした場所で大休止することになった。
とはいえ、そこは水がない原野の真っただ中である。ふと見ると柿の実が落ちている。小さな実であるが、拾って食べた。なんと、これが少し甘くて食べられた。マラリヤの熱があるのに不思議に食べられた。木の枝にも実が着いていたが、それを取って食べる程の体力はなかった。
小さな柿を二個ばかり食べたので、いくらか元気が出て、水を探してみようとなだらかな起伏のある所を、低い方へ低い方へと下りてみた。すると一番低い所に一メートル四方に水溜りが残っていた。ぼうふらがわいていたが、水を見つけられたのは幸運だった。

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