旋回し二回三回と繰り返し攻撃して来た。三回目は小さな爆弾をそれぞれの飛行機から一発ずつ落として行つた。民家は燃えだした。よく乾燥した季節であり、木と竹で出来た家だからまことに燃えやすい。
飛行機が去ったことが確認できたのですぐに民家に引き返し、中に置いてきた装具や兵器、それに先程分配した米や塩等を、燃え始めた家の中からやっと取り出してきた。これもやっとのこと、二分も後なら火災が激しく取り出せないぐらい切羽(せっぱ)詰っていた。
飯盒炊事の方は、どうにか飯が炊けていた。だが、長代(ながしろ)上等兵の飯盒はぶち抜かれ、はね飛ばされていた。幸いに兵士に損傷はなく、必要な米や塩をとにかく入手することができた。焼けている部落を後にし、そそくさと荒野に出て行った。
あちらに一塊(かたまり)、こちらに一塊、落伍した者が一人二人三人と歩いている。皆イラワジ河の渡河地点を目指して歩いている。夜の行軍に疲れたのかどうか知らないが昼間もこうして歩いている。
小人数だから、敵機から逃れやすいし、昼の方が道が分かりやすいからであろう。
そこを、負傷し杖にすがりながら歩いている人がいる。よく見ると、先日敵陣地を攻撃したとき指揮を取ったあの歩兵の田中中尉である。元気のよかった彼も負傷したが、その傷の痛みと疲労ですっかり弱っていて、一歩一歩あえぐように歩いている。数日の間にこうも変わるものかと、驚くばかりである。足も傷ついているのだ、誠に歩きにくそうである。戦場で足をやられたら最後と思わなくてはならない。足は生命を支えるために絶対に必要なのに、気の毒な姿だ。私は一瞬靖国神社への道を歩いている姿であるように感じた。戦争に容赦はなく残酷非情(ざんこくひじょう)である。
◆瀬澤小隊長の戦死
とある林に差しかかったとき、他の経路を来た瀬澤小隊長ら二十名ばかりの一団と、運よく私達も一緒になった。合流して安心感も手伝い気分がよく元気になった。
小隊長は元気そうであった。玉古班長代理が手短かに、分かれて以後四、五日間の様子を報告した。再会を喜び小隊長を先頭に平地や森の中を進んだ。小休止があり、お互いに無事を確かめ情報を伝えあった。
更に林の間を行っている時、突如銃声一発、弾は一番前を進んでいた小隊長を直撃した。それも携帯していた手留弾に当たり爆発した。
一瞬にして腹が抉(えぐ)り取られ倒れた。即死である。温厚な丸顔はもう残っていなかった。壮烈な戦死である。その辺りを見回したが、それらしい曲者(くせもの)は見つからなかった。現地人による狙撃(そげき)と判断された。
巨星落つ。第二小隊の芯、大黒柱を失ってしまった。昭和十八年四月編成された金井塚中隊の小隊長として百二十名の部下を率い、温厚誠実な人柄で人望の厚かった方であったが、突如このようなことになろうとは思いもよらないことである。しかし、戦争は殺しあいの場であるから仕方のないことかも知れない。
私達は小隊長の右の親指を切り、遺品として拳銃と時計、万年筆を携行した。屍を埋葬するに道具もなく、疲れ果てた我々にはそれをする元気も無かった。それより私達は一刻も早く渡河地点にたどり着かなければならなかった。イラワジ渡河最後の乗船に間に合うように。残念無念の思いで、みんなで深々とお別れの拝礼をし、屍を残してそこを去った。皆、黙々と沈みながら歩いた。
ところで、私も瀬澤小隊長から信頼して頂き、タンガップの山中にいる時には将校当番を仰せつかった。充分なお仕(つか)えも出来ないのに、可愛がって頂いた関係の深い直属の上官である。
---私の軍隊生活、特にビルマ戦線で忘れられない大切なお方であり、尊敬する立派なお人柄であった。姫路市の出身だと聞いていたので、一度お墓にお参りしたいと思いつつも、年月が過ぎてしまった。せめてこの本に残すことで感謝と慰霊の心を捧げさせて頂きたい。
瀬澤小隊は前述の通り、クインガレからグワへの南アラカン山脈越えの輸送で虎との戦いもあったが、任務を完全に果たした。ベンガル湾タンガップ地区で約一年間、警戒警備、保守管理など苦闘の生活をする間に戦況は悪化した。昭和二十年二月からは更に激戦地のタマンド地区へ前進し海岸の警備をした。その時敵の砲鑑から激しい襲撃を受け、五月始めまで第二アラカン、シンゴンダインを最後尾部隊として守り通し、以後しんがりで転進を開始した。
イラワジ河の右岸で戦闘し敵陣地の攻撃等、瀬澤中尉指揮のもとで堂々と戦い、遺憾(いかん)なく任務を完遂し名声を挙げてきた。
小隊長戦死後、兵力が暫時(ざんじ)減少しながらも、中隊長の直接指揮下に入り、任務を遂行し、小隊の名誉を高からしめた。しかし、編成時百二十名の者が、終戦時には二十名少々になっていた。
悲痛、百名の勇士は帰らぬ人となってしまった。復員後五十年が過ぎ、今は数名になってしまった。以上が瀬澤小隊の戦史である。
ペグー山系辺りまでは誰かが、小隊長の遺骨や遺品を携行していたと思うが、皆が死んだり落伍したりして、その後どうなったのか私にはよく分からない。今は御冥福をお祈り申しあげ、合掌するのみである。