◇イラワジの大河を渡る

◆最後の渡し船
もうカマの渡河地点が近いと聞いて歩きに歩いた。それも工兵隊が渡してくれるのは今日限りで明日からはどうなるか分からないとのことである。やっと夜九時頃渡河点にたどり着いた。暗いから辺りの景色やたたずまいはよく分からない。舟着場近くの平坦地で約一時間程待つと「乗船せよ」の命令がきて、早速十トンぐらいと思える船に乗船した。思いのほか早く乗船できて運がよかった。
昼は船を河岸にある大きな木の下に遮蔽して敵機に発見されないようにし、夜陰に紛れて渡河行動を起こすのだが、その任務に当たる工兵隊の兵隊も大変なことと察する。それにぼろ船だから、兵隊の輸送の外に船の修理もしなければならない。
とにかく船に乗れた。闇の中で対岸は見えないが、河幅三〜四キロと言われている大きな河だ。
今は乾期の終わりで水嵩(みずかさ)も少ないが、雨期の最盛期には凄い水量だろう。船は木造の古いものだが、対岸に向かって案外スムーズに進み始めた。
夜中なので敵の襲撃もなく無事に大河イラワジを西から東へ渡ることができた。実に幸運、最後の渡し船にすれすれで間に合い有難いことだ。工兵隊の人達に感謝し、拝むような気持ちで「有難う」と言った。明日以後はどうなることか?
後で聞いたところでは、次の日の昼間に敵にひどくやられ、船で渡れたのかどうか判然とせず、それ以後カマの渡河地点に遅れて来た兵士達は置いてきぼりになり、自力で渡るより他に方法がなかったとのこと。乾期とはいえ大河で流れもあり、自力の筏(いかだ)で泳いで渡った人は極く僅かしか無かったようである。
◆渡河後
大河左岸の近くの山林に我が師団(兵兵団)主力は一週間程前から集結しており、我々が追いついてから後も更に五、六日間、後続の人が一人でも多く追及してくることを待っていた。私には自分の所属する輜重隊のこと、それも第一中隊の第二小隊辺りの小範囲のことしか目の前に見えないが、この山麓一帯に師団の大部隊が息を殺して待機していたのである。
復員後戦争史を読むと、我々がこうしてイラワジ河をやっと渡河した頃に、マンダレーやメイクテイラーで激戦が展開され、ビルマ方面軍総司令部は既にラングーンを放棄し東方のモールメンに退却しており、兵兵団のみが西地区に取り残された形になっていたのを知った。
ここに集結するまでは輜重聯隊(一◯一二◯部隊)も幾つかに分かれて行動していたため、瀬澤小隊以外の集団がどんな戦闘や苦労をしてきたか知る由もなかったが、ここで太田貞次郎聯隊長が五月十一日サンタギーの戦闘で、敵弾に当たり壮烈な戦死をされたのを聞いた。その時聯隊長の当番をしていた花田上等兵も同時に戦死した由。彼は私と一緒に二月召集で入隊した同年兵で、気持ちの良いにこにことした人で、入隊までは国鉄の職員をしていたと話していた。
またその頃の戦闘で、編成以来昨年十一月まで我々第一中隊の中隊長だった金井塚聯隊本部付き大尉も足を負傷され歩けなくなっているのだ、という暗いニュースも聞いた。更に戦況が大変悪いことも知らされ、その上誰々が行方不明になったとか、誰々が自決したのだというような話ばかりだった。
渡河の翌日午後、我々が昨夜乗船したカマの渡河点を遠望すると、敵の迫撃砲(はくげきほう)が射ち込まれたり、戦車砲も撃ってきているようだ。砲声が聞こえ砂塵が舞い上がっている様子が大河を隔てて遥かに見える。昨夜船に乗れなかった人達や、今日カマに到着したばかりの兵士達が撃たれているのだろう。どうやってこれを逃れ、どうやって船もなく筏で大河を渡ることができるのだろうか。気の毒に思い心配でたまらない。
翌々日の夜明けに四、五人の兵が渡ってきた。その人達の話によると、カマの部落は徹底的に飛行機と戦車でやられたが、どうにか昼間は山の茂みに隠れ、皆で筏を組み、夜になり裸でそれにつかまり命からがら泳ぎ着くことができた。大変な目に遭ったとのことだった。
今我々の部隊が集結している所はイラワジ河の東側(左岸)で、山が多く敵の支配が浸透しておらず、しかも大きな木に覆われた地点で絶好の隠れ場所であった。そのおかげで幸いに飛行機からも、地上部隊からも攻撃をされずに数日を過ごすことができた。

次の章に進む

TOPへ戻る