◆雨期のはしり
その二日ばかり後の夜中に大雨が降ってきた。五月中旬だが半年の乾期から雨期に入りかけたのであろう。雨足は凄く真っ暗闇の中だから、どれだけ、どのような降り方をしているのかよく分からないが、とにかく物凄い降り方である。「バケツの水をひっくりかえす」どころではなく、風呂の底が抜けたようで息もできないぐらいだ。それに我々は全くの露天である。
夕方までは、夜中に大雨が降ることなど全然警戒していなかったので、大雨の襲来に対し、あわてて携帯テントを頭から被り装具を中に入れ、じっと小さく縮んでいるだけである。携帯テントは約百二十センチ四角の布で防水も悪くなっており、雨が浸み込んでくる。身にまとった一枚のこの布にバサバサ、バリバリと雨の固まりが打ちつけてくる。雨の固まりは体をゆさぶるようである。南国とはいっても夜中の豪雨は体温を奪い寒気がしてくる。
私は岩の上に場所を取り眠っていたが、その岩にしがみついてこらえた。そこは周囲より少し高かったので幸い水びたしにはならなかった。しかし米を入れた雑嚢が携帯テントの外にはみ出ていたので、中の米が濡れてしまった。暗闇の中、どこがどうなっているのか分からない。以後腐った米を食わねばならぬ羽目になったのだ。
篠(しの)つくような雨は二、三時間も続いただろうか。動けば濡れるだけであり、携帯テントを体に巻き着け、固い貝のようになって長い時間辛抱した。その間誰も何も言わない。声を出しても雨の音で聞こえない。真暗闇の中であり、どこが高い所かどこが低い所か、どんな傾斜になっていて、どこが谷で水がひどく流れているのか見当がつかない。装具をしっかり体に着けていなかったり、少し低い所や谷がかった所にいた兵隊の中には、米も飯盒も装具までも大雨による激流に押し流されてしまった者もいた。
我々と行動を共にしていた衛生兵は、闇夜の鉄砲水で衛生用具や薬を入れた包帯嚢(ほうたいのう)を流されてしまい、夜が明けてから幾ら探しても何も無く茫然(ぼうぜん)としていた。
幸い我々兵士は一人も流されずにすんだが、とにかく大変な被害を被った。どうすることもできない程物凄く激しい雨であった。
夜が明け、昼過ぎてから炊事をするための水を汲みにイラワジ河の岸に行ってみると、濁り水が河一杯になり流れていた。昨日までは筏で泳いで渡ってきた人が僅かでもあったが、この水量ではもうどうすることもできない。何にしても私達はギリギリの最後の日に船で渡ることができたのだ。誠に幸運というほかはない。
ふと見ると、河岸に近い所をビルマ人の死体が流されていた。後手に縛られ、大きく風船のように膨れあがってプカプカと浮いて流れている。水死した場合男はうつぶせになり、女は仰向けになると聞いていたが、その通りにこの男もうつぶせになって流れていた。英国軍に協力したためなのか、日本軍に協力したためか知る由もないが、いずれにしてもビルマが戦場になって戦いに巻き込まれ、こんな憐れな姿になり、上流から流され全く可哀相なことである。
誰に罪があるのだろうか?後手に縛られたうえ、河に流されなければならない時の心境やいかに。彼も一個の人格を持つ人間だ。すべてを覚悟したとはいえ、生への執着は強くあったであろうに。仏教国であり、仏心の強い人達だろうが、どう思いどう諦めたのだろうか?戦争という名のもとにこんな悲劇が繰り返されてよいのだろうか。
集結待ちの時限がきたのか?それとも大河の増水で落伍者の渡河の可能性が無くなりもうこれまでと判断したのか、この集結地を離れて夜間行軍が始まった。
◆ポウカン平野を東へ転進
この平野は大河イラワジの東に沿い南北におよそ三百キロ、東西におよそ六十キロ幅でペグー山系までに広がる大平野である。その間を南北に幹線道路のプローム街道が貫き、ラングーンからプロームそして更に北へ延びマグエからエナンジョン方面に延びている。我々はそれを横断して東へ進むのだ。
初日は夕方からの出発だった。薄暗くなったと・ば・り・の中を、木立の間や草原を縫うように進んだ。谷や小川を渡り、山道を登ったり下ったり、うねうねと曲がった道無き道を、前を行く人の姿を頼りに歩いた。二時間ばかり歩いたところで、行軍は止まってしまった。今日はもう前進しないとのことだが、その理由は分からない。前方に敵が現われて進めないのか?それとも道が分からなくなったのだろうか。
その翌日は林の中をドンドン東の方向に進んだ。多くの兵士が、一列縦隊になっているのだから三978e四キロにもなっているのだろう。前方で何が起きていても分からない。時折パンパンと銃声がして曳光弾(えいこうだん)が飛んでゆく。この辺りは木が生えていない緩い起伏の草原である。星明かりで岡の稜線が見通せる程度であった。こんな隠れる場所のない所なので夜間しか動けないのである。
幾晩か歩いたある夜の行軍中、「陶山(すやま)大隊前へ」「陶山大隊早く来い」との命令が、取継がれ前から後方へ向かって伝達されてきた。最後尾を守っている陶山大隊は、早く先端へ来て任務に着けということらしいが、最前線と最後尾では数キロも離れていて、闇夜の細い道を進んでいるのだから、そう簡単に最前部の発令者の所へ追いつけないだろう。大変だなあと感じ、印象に残った。
後日聞いたのだが、陶山大隊は岡山歩兵聯隊の第一大隊であり、このように我々輜重隊は他の部隊と相前後して、転進していたのである。

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