私は最も仲良しの戦友を失ってしまった。これまでにも何回か落伍しそうになった彼を浜田分隊長が激励し、皆で支え合い、彼もよくここまで頑張ってきたのに、とうとうこんなことになってしまった。惜しい人を亡くしてしまったが、どうすることもできない。嗚呼(ああ)!
◆遺家族に思いを寄せて
私は終戦後、満二年間そのままビルマに抑留され、昭和二十二年七月に復員して郷里に帰った。
早い内に橋本君の御家族へ戦死された時の状況をお知らせしたいと思っていた。しかし私のみが生還し、彼は帰っていないのだから、御家族にしてみればどのように思われるか分からず、自分としては何も後ろめたいことがあるわけではないが、なかなか足が重く、また余計に悲しませることになるのではないか等と考え込み、お訪ねすることを躊躇(ちゅうちょ)していた。
そのうえ、戦後の混乱期であり、自分の仕事のことや、我が家の再建に追われてもいた。昭和二十四年頃になり思いきって、御魂へのお祈りと御家族への報告を兼ねて訪問した。私は小学生の頃、高梁(たかはし)に住んでいたので土地勘(とちかん)があり、それに彼からも高梁の商店街や彼の家の在る場所までも聞いていたのですぐに分かった。
亡き戦友橋本梶雄君のお父さん、お母さん、奥さん、小学二年生ぐらいの男の子がおられた。内地を出る前に姫路の貨物駅に見送りに来ておられたこの四人のお姿を私はよく覚えていたので、特別に気の毒でならなかった。見送りに来ていた時この男の子は、やっと歩けるぐらいであったと記憶していたが、この六年の間に大きくなっていた。橋本君が健在で復員されているならよいのに、一番大切な主人、大黒柱が欠けている家庭は何と言ってもひっそりと淋しく見受けられる。彼は仏壇に祀られているのである。
特に、ご両親は、私の父や母に比べると十二、三才も老いておられ、六十七、八歳だろうか働くこともできず、一層いとおしく感じた。奥様は彼の年から推測して私より六、七才上で三十二、三才だろうか、専売局に勤務されている由であったが、女一人で家族を養っていかねばならないし、大変なことだと思った。彼が召集を受けるまでは大阪で大会社の若手エリートとして社宅に住み、何不自由のない生活をされていたのだろう。いつの頃からか郷里の高梁に帰って生活し銃後(じゅうご)を守っていたが、彼の戦死公報が届いてからは一家の柱とならざるをえず、働きに出られたのだろうと想像する。一家の主人を失った遺族の家がどんなに苦しいか、淋しくどんなに困られているか、他人からは想像するだけで到底測り知れず、私自身ここに書きながらも、想像の範囲に過ぎず真実は分からない。
戦争はこのように寂しく悲しい家庭を数限りなく作ったのである。為政者は大きな罪を作ったのではなかろうか。
誰がその苦痛を償うことができるか。国は後年僅(わず)かばかりの年金を支払うようにしたが、それで遺家族の測り知れない悲しみや苦痛を癒(いや)せるものではない。
私は仏前に合掌して在りし日を偲んでいると、涙がにじみ出て仕方がなかった。彼と私との親密な戦友としての当時のことを御家族にお話をし、梶雄君が立派な兵士であったことや、素晴らしい人間性を見せていただいたことをお伝えし、最後の決別のことを率直にお話した。
御家族にしてみれば、そんな話は聞いた方がよいのか、聞かない方がよいのか分からない。聞けば余計に辛くなり、聞いたとて生きて帰るわけでもないのだが、私としては自分の心の中にいつまでも残して置くよりは真実をお伝えした方がよいと思いお話をした。子供さんにはまだよく分からなかったかも知れないが、ご両親様や奥様は我が子を我が夫を偲び涙されたことだろう。
その当時何回かお訪ねし心からお慰め申し上げていたが、次第にご無沙汰するようになり、歳月も過ぎた。その間一粒種の息子さんも優秀なお父さんの血を受け継がれ、お母さんの慈愛に満ちた訓育を受け、阪大を卒業され大手銀行に就職されていると聞いていた。更に歳月が二十年三十年と過ぎるうちに、失礼なことだが忘れかけていた。
平成七年秋、終戦後五十年に当たり私は戦争についての思い出の作文をある本の中に載せて頂いた。その作文の中に橋本上等兵のことを書いたので、昔を思い出し、その本を御家族の橋本家へお送りした。
それを機に奥様と二、三回電話でお話し、お墓参りを約束し平成八年春の連休に高梁のお家へ久々にお邪魔した。故人梶雄さんの息子さんは大阪方面の自宅から、郷里の高梁にわざわざ、若奥さん同伴で私に会うために帰ってきておられ、梶雄さんの弟さんも津山からわざわざ来て待っておられた。全く久し振りにお目にかかった奥様も年を召されていたが元気で迎えてくださった。息子さんは五十歳半ば前かとお見受けしたが、それこそ立派な紳士となっておられた。全く世代は交替していた。私も七十四歳、時は大きく流れていた。

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