平成五年十一月に私は二回目のビルマ慰霊の旅をして、世界で三つの指に数えられるビルマで有名な古代仏教遺蹟パガンを訪ねた。その霊地の原野から拾ってきた握りこぶし大の化石が家にあったので、この時それを持参して差し上げお供えした。それは、彼の遺骨は無く、戦後家族のもとに届けられた英霊の木箱の中には、ビルマのものかどうかも分からない砂が入っていたと聞いていたからである。遅きに失したが遺骨の代わりにでもして頂けたらと思い持参した。また彼が最期の日にバナナが欲しい、バナナなら食べられるかもしれないと言っていたことが脳裏に焼きついていたのでバナナをお供えした。
またこの二回目のビルマのイラワジ河の中洲で慰霊祭をした時に、慰霊文を捧げたが、それと同じものを朗読して供養申し上げた。それから、梶雄さんの立派な人となりや戦地での勤務振りをお伝えした。戦地で私と共に内地を懐かしみ、私に写真を見せてくれながら妻子のことを話されていたことをお伝えした。五十一年経過していても、思い出話をしているとしばしば涙がにじんできた。彼は私の心の中に生きているのだ。
いずれにしても父戦死の後、母と子は懸命に生き、このように成功されているが幼少年期は涙の出るような日々であったことだろう。今もなお、その後遺症が残っていないとは言えない。その傷跡が深く残った家庭、幾らか時の流れとともに癒されたかもしれないが、遺家族の人生はどんなに大きく左右されたことだろう。全国で幾十万幾百万の方々が遺族としていかなる苦痛に耐えてこられたかを心しなければならない。
ここに橋本さんのことを詳しく書いたが、これは私が直面した一事例である。私が特にお世話になった上官や親しかった戦友達、多くの方々のお墓参りを逐一すべきところを、身勝手ながら彼を私の心の中で代表とし参拝させて頂いたようなことであり、お許し願いたいと思う。
◆編上靴(へんじょうか)は破れ服も傷む
敵の監視偵察が厳しいので、我が軍が平地で遮蔽物の無い所を転進する時は夜間行動をせざるを得なかった。実際は退却であるが退却という言葉を避け、少しでも勇気を出すように奮起を促し転進と称したのである。山の中で大きな樹木や林に覆われていて、敵の偵察機から見えない所を進むのならば昼でもよいが、それでも敵は我が軍の行動を不思議によく知っていた。偵察機以外にも、日本軍が及びもつかない観測計器や電波兵器を持っていたのではなかろうか。
ともあれ毎夜の行軍が続き、ポウカン平野を西から東へ、曲りくねった道を横断するのだ。長い期間の行軍のため、履いていた編上靴(へんじょうか)もついに口を空けてしまった。修理できるような状態ではないので捨て、取っておきの地下足袋(じかたび)に履き替えた。この地下足袋が最後の履物だ。長くはもたないかも知れないが、大切に履かなければならない。これが駄目になれば、もう行軍にはついて行けない。これこそ生命の綱である。
各人は持ち物をだんだん捨ててしまい、背負い袋の中には、携帯テント一枚、上衣一枚、貴重品若干、靴下に入れた米、小さな缶に入れたガピーか塩を持ち、背負い袋の外には飯盒をくくりつけ、肩に水筒を掛けていた。ガピーとは小魚と味噌状の物を煮詰めた日本では塩辛のようなビルマの食物である。着ている物は肌着の襦袢(じゅばん)か七部袖のシャツ、ふんどし、袴下(こした)(ズボン)、帽子、地下足袋で、どれも垢と土に汚れた破れかけの物ばかりであった。帯革(たいかく)(バンド)には帯剣(たいけん)と手榴弾をぶらさげていた。小銃を持っていない兵隊もぼつぼつ増え始めていた。
元気な兵士は軽機関銃を担いでおり、軽機関銃用の弾薬を携行している兵隊もいたが、人員も減少し兵器も少なくなり戦闘能力は当初の三分の二ぐらいになっていたと思われる。
聯隊長戦死の後は、足を負傷しているが金井塚大尉が聯隊の中の最右翼で聯隊本部に所属しているので、とりあえず一時指揮をする形となっていた。担架に乗せられての行軍は歩く者以上に苦しいものがあったと思われる。平坦な幅広い道でないので、担架は前後左右に揺れ滑り落ちそうになったことだろう。でも担いでもらっているので文句も言えず、辛抱するより仕方がない。気丈夫な現役軍人の誇りと責任感で、担架の上から配下兵士に大きな声で命令と激励をされていた。間もなく植田大尉が聯隊長代理となって采配(さいはい)を揮(ふる)われたのである。