◆担架(たんか)搬送と耳鳴り
担架と言っても竹で応急にこしらえたお粗末なもので、担ぎにくいものであった。乗っている方も決して乗り心地のよい代物ではなかっただろう。その頃戦闘で歩けなくなった兵士は第一中隊でも五、六人もいたと思うが、見捨てて行くに忍びず担架で搬送するのだが一人を四人で担架に乗せ運んでいた。交替要員も必要であり、その人の小銃等の兵器を代わりに携行しなければならないので、都合直接十人の兵隊に負担がかかった。それでいて乗せられている者も楽ではなく不自由で、大変な気の遣いようであったと思われる。あるいはいっそ死んだ方がましだと思ったかも知れない。
私も毎日毎晩担架を担いだ。それまでに体力の弱っている体で担架を担ぐことは、大変な苦痛であった。こちらが担架に乗せてもらいたいぐらい疲労しているのに、担がねばならないとは辛いが、でも仕方がない。
この頃から私は耳鳴りが始まった。担架を担いでいると耳がガンガンと鳴る。今までに経験したことのない現象で気持ちが悪く、脈拍と同じ間隔でガンガンと継続して耳が鳴っている。えらいことになってしまった。自分の声も耳に響いてくる。しかし、小休止となり地面に横になり転がると止まるのである。起きて歩きだすとすぐにまたガンガンと耳に響いてくる。栄養失調と貧血からくるのだろうと思うが、この耳鳴りはだんだんひどくなり聴力も衰えたように感じた。この苦しさ、耐えがたさは本人でないと分からないと思う。
耳鳴りがする。そんなに弱った自分の体、だが、担架は担がねばならない。一人の負傷者の生命を助けるために、多くの人の労力が提供されたが、気がつくと、担架を担いでいる人が次々に衰弱し落伍したり、動けなくなりだしていた。このようにして私の班や隣の班の田中上等兵、松下上等兵、山本上等兵が行軍から脱落していった。
担架を担ぐために自分の方が先に弱り落伍して、死ぬ羽目になり犠牲になった兵は、どんな気持ちがしたであろうか。担架に乗せられている人も耐えられない思いであったことだろう。だんだん担架を担ぐ人の心もすさみ、戦友である担架に乗っている人を罵(のの)しり手荒く扱うようになってきた。
私も落伍し隊列から離れてしまえば、担架を担がなくてすむと思った。でも落伍したらもう道が分らなくなり、結局は自分自身が本当に行方不明者になり死を選ぶこととなるのが目に見えている。十日ばかりこのような形での夜の行軍が続いた。知らない土地をぐるぐる曲がり、細い道をたどり、岡を越え林を潜り、東へ向かって転進した。広いポウカン平野の間を道なき道が、勝手に作られ、勝手に消えながら部落間を繋いでいる。
その頃のある日、一晩中歩き小休止も何回かした。夜が明けてみると、前夜出発した部落に、回り回って帰ってきているのである。先導者が悪いのか、それとも敵の警備を避けているうちにそうなったのか知れないが、ビルマの道はそれ程までに分かりにくい。夜の闇の中のこととはいえ、不思議なことが起きるもので滑稽でもあり、全くの骨折り損であった。
ポウカン平野の中程、ポウカンという部落らしい所に集結した。そこには、我々より早く来ていた部隊も待っており、また、同じ輜重隊でも第一アラカンからイラワジ河をパトン方面で渡河し、他の経路を通って来た中隊本部や第三小隊等もおり合流した。久し振りに会う戦友達も以前の張り切った姿はなく、疲労し悄然(しょうぜん)としており垢にまみれていた。それに、上官や古年兵や同年兵が負傷したとか戦死したとかいうような暗い話ばかりであった。
とにかく、ここポウカンにはかなり大きな兵力が集まったことになった。その部落に四、五日滞在し、食料等を収集することにしたが、もう軍票は役に立たない。日本軍が負けているから軍票が役立たないことを現地人はよく知っている。従って部落民の米等を失敬するより他に生きる道がない。もちろん部落民は逃げており米と塩を捜した。椰子の実やマンゴーの実をもぎ取り、鶏を捕まえ豚を殺して食べた。「ビルマ人よ許してくれ、我々はもうどうすることもできないのだ、飢え死にしそうなんだ」と心の中でつぶやきつつ。
兵兵団も内地を出発した時は一万六千人だったが、この時点で約八千人に減っていたようだ。それにしてもこんなに大勢がこんな部落に集結したのだから、この土地の現地人には気の毒で大変迷惑なことである。米を取られ塩を取られすべてを失った上に、日本軍が通り過ぎた後には、沢山の屍と動けない瀕死の兵隊が残されているだけであった。