八 雨、飢餓、屍(しかばね)
◇ペグー山系の悲劇
◆屍から装具を失敬
やっと山系の西の入り口の部落まで到着した。我々は他の師団より一ヵ月も遅れており、更に同じ兵兵団の中でもしんがりであった。現地人は既に誰もいない。しかも、大きな部隊が通過した後なので、もう米も無く家はもぬけの殻で死体が散らばって残っているだけである。まだ死んで一日ぐらいだろうか、形が崩れていなく、蝿(はえ)が沢山集まっていた。黒い大きい蝿が一杯で気持ちが悪い。その死人の飯盒、水筒は既に取られて無い。もちろん背負い袋の中に米は無さそうである。死を見届けた後に誰かがもらっていったのだろう。この頃は、いろいろの事情から兵器は勿論、飯盒や水筒さえ紛失した兵隊が多く、こうして必要でなくなった死人の道具を譲り受けるのだ。
そんなある日、山岡伍長が戦場で飯盒を無くして困っていた。ちようど道端で死んだ兵隊が飯盒を手に持ったまま倒れており、息もしていないし足でちょっと蹴ってみたが動かないので伍長は飯盒を取り上げた。その瞬間「はんごうー」とやっと聞こえるかすかな声がした。死んでいると思っていた兵隊はまだ生きており、大切な大切な飯盒を取られたことだけは分かり必死で叫んだのだ。まだ生きていたのだ。そのうらめしい細い声がいつまでも耳に残り忘れられないと、彼は話していた。
人情は人情だが、臨終の人に飯盒はもう必要ではない。生きて歩いている人には、飯盒は片時も無くてはならない命の次に大切な物である。無残、憐れなことであるが、戦争とは絶体絶命どうしようもないこんなものである。
上着も軍袴(ぐんこ)(ズボン)も、自分のものが焼けたりボロボロになったり、無くなったりすれば死人のをもらう。自分が裸足なら死者の靴、それも大分くたびれているのでも脱がせて失敬することもある。
ペグー山系の悲劇がこのように始まるのである。
◆米を確保し、最後尾で山系に入る
ペグー山系に入る前、米を集めるために、今まで他の部隊が入ってなさそうな部落を探した。運よく現地人はおらず、籾と岩塩を手に入れ、たばこの葉と、置き残した鶏五羽、豚一頭を捕らえた。
長居は禁物、さっさと村落を引き揚げた。
ちょうど一日行程ばかり山系に入った所で、鉄帽に米を入れて搗いた。これからペグー山系の中に長い期間、滞在することになるらしい。しかも輜重聯隊は師団司令部の将兵の分も確保してこいとの命令を受け、もう一度引き返して部落に取りにいった。その部落はこれまでに日本軍の部隊が通過した形跡がなく、現地人の姿もなく、敵襲にも会わず、相当量の籾と木製の臼を持ち帰ることができた。二日をかけて山の中で皆で籾を搗いて白米にした。しかし、兵兵団の司令部や主力は四、五日先に山の中程へ前進しており、我々はしんがりで山の中を追及(ついきゅう)することになった。
ペグー山系はアラカン山脈のように高い山ではなく、標高二百メートルぐらいで、南北に約四百キロメートル、東西に約八十キロメートル伸びる山塊である。この広大な山系には殆ど民家はなく、行っても行っても山と谷、森林と竹薮の連続である。道といっても獣道(けものみち)を日本軍が最近急に歩けるように開いた山道で、細く柔らかく、ぬかるみ曲がった緩急の坂が混じったものであった。
坂を登り、下り、谷を越え、水に浸かって河川を渡り、ひどいぬかるみの所もあり、困難を極めた悪戦苦闘の道であった。臼で搗いた白米をそれぞれに分配し、五〜七キログラム程度を持ち山系の奥に入って行った。師団司令部へ渡す米を皆で分けて携行しているのだから、衰弱した体には堪え難く重い荷物で、肩に食い込んだ。
もう、完全に雨期に入っていて、雨の降らない日はなく、豪雨性の雨が降るかと思えば、しとしとと降り続く雨もある。よくもこんなに雨が降るものだ。よく降ると感心すればする程、なおさら降ってくる。しかし、我々は全くの野宿だ。雨に濡れながら歩き、雨に打たれて寝る。内地の乞食でも橋の下があり雨宿りできるが、我等にはそれさえもない。
今までに大部隊が何組も何組も通った後のため、赤土の山道は粘っており、田植えする田に入っているようである。いや、それよりもっと粘っこく、赤土で壁土を作っているのと同じような粘さであった。最初の二日は所々だったが、三日目からは、このぬかるみが延々と続くのである。一歩、歩いては、ズッポン、二歩、歩いてはズッポン、ズッポンと、膝までぬかるみに入り足を抜き出すにも力がいり大変である。
一日歩いても四キロぐらいしか進めない。泥濘膝を没すと聞いたことはあるが、まさしくその通りである。力尽きた兵隊が道のほとりにうずくまり息絶えている。息絶えているが小銃をここまで持ってきておる。立派なものだ。一歩ぬかるみ、次の一歩もまたぬかり込み、グッショ グッショ ビチー ビチーと粘り込んだ。粘った土の中に地下足袋はずるりと入る。その足を抜き出すにも力がいる。強く引き出さなければ抜けない。やっと抜いて、次の足を泥の中に突っ込んで進んだ。

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