どこを通っても泥だらけである。こんなひどい道を私は見たことも聞いたこともなかった。
例えが悪いかも知れないが、臼で搗いた餅の中を歩いているぐらいの粘さである。ここら辺りのビルマの土はきめの細かい赤土で、日本軍によって急いで造られたのでバラス等は全く入っていない。雨期でなければこんなひどいことにはならないが、雨期の最中、大部隊がニヤクリ、ニヤクリして通った後を、最後尾の我が部隊が進んでいるのだから、このようにねばい泥濘になっているのだ。
そんなある日のこと、私が泥濘の中を一歩一歩足を運んでいると、前方のぬかるみの中に兵隊が立って動こうとしない。追いついてよく見ると、自分と同じ班の三方(みかた)上等兵ではないか。動かないはず、息絶えているではないか。立ったまま死んでいるのだ。彼は丸々と頬の張った、ユーモラスな男であったが、その顔も痩せ垢と土に汚れている。しかし彼であることはすぐに分かった。小銃は持っていなかった。足がねばり込んで、抜けないで力尽き果て死んだのだ。重心がそのまま残り、立ったままの姿である。私は唖然とした。世にこんな死に方があるのだろうか?酷(むご)い!
その頃私の班の者は皆銘々勝手に散り散りバラバラに歩いていた。ここでなんと処置してよいか、判断も思考能力もなく弱り果てた。まごまごしていると自分も落伍してしまうことになる。困惑の極みのところへ運よく玉古班長代理と他に二名の兵隊がやって来た。
玉古兵長は「三方(みかた)か、酷(むご)いこと。立ったまま死んでいるのか?」「力が尽きたのか。みんなで道の縁(へり)に運んでやれ」とテキパキと指示した。四人がかりで、やっとぬかるみから引き出し道の縁に寝かせた。
「せめて右親指を切り取り、遺骨として持って行こう」と言った。誰かがビルマのダアー(斧)で指を切り取った。「お前持って行け」と私に指示された。その頃一枚の紙も無いので、私は木の葉に包みポケットに入れた。この遺骨が内地の三方家に届いたら、どんなに悲しまれるだろうか。しかし、考え方では、親指一本でも届けられれば、まだよい方である。今までにも行方不明になった人の遺骨等どんなになっただろうか?遺骨の無い人が大勢あるのだから。
瀬澤小隊長の親指の遺骨も本山上等兵が大切にして持っていたが、彼が行方不明となってしまったし、大西主計大尉や林兵長はコレラだったので屍に近寄れず、遺骨を持ち帰ることができなかったと聞いている。このように、遺骨のない人は大勢いるのだ。「三方君きっとお前の遺骨は郷里に届けてやるからな」と誓った。
その日も夕方までぬかるみの中を歩き露営した。飯盒炊事の時、その火の中で三方上等兵の親指を火葬にした。尊厳なはずの火葬と炊事が一緒で申し訳ないが、負け戦の最中はこんなことである。誰かが小さな布切れを持っていたのでそれに包み、背嚢の奥に遺骨を収めた。
自分のことだがその頃、私の地下足袋には土がべったりひっ付いて重いこと重いこと。
泥濘中の行軍が続き一日の行程が予定の三分の一にも達せず、全く遅れてしまい、ペグー山系横断に予想外の日数を要することになった。もう、靴を無くして裸足(はだし)で歩く人も大勢出てきた。私の地下足袋もこの泥道で急に傷み、ゴムと布との間が口を開けて、履くことができなくなり、裸足になった。
裸足のままでは頼りないので、ビルマ人のロンジの布端を引き裂き、足に巻きつけることにした。しかし、つるりと滑っては転び、滑っては転び、布にも土がべっとりとつき、数日のうちにそれも破れてしまい、いよいよ裸足の行軍が始まったのだ。幸いペグー山系の中では森林が多く敵機に見つからない。昼間の明るい間の行軍ができたので、地面がよく見え障害物を避けて進むことができた。
しかし、裸足でぬかるみを歩くのだから堪(たま)らない。水気で足はふやけて泥だらけ、木の株や竹の折れ端で足を痛めないように用心して歩いた。ここで足を痛めたら最後であり、命取りになるのだ。ひどいぬかるみだが、その中に石も砂もなく、粘土だから割合足を傷めないで歩くことができ助かった。
我々が平地より運び込んだ籾を白米にしたが、それを師団司令部に相当量渡し、残りをそれぞれが分けて持ち、山に入って来たが、日数を重ねるうちにだんだん少なくなり心細い。
蛙を捕まえて食べたこともあるが、めったにいるものではない。食物が無いので、誰かが「この木の実は食べられるぞ」というので、その実をちぎって食べたこともあるが、味もなくがさがさとしたもので、食べられるような物ではなかった。

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