◆筍(たけのこ)で命を繋(つな)ぐ
ビルマの山には竹薮(たけやぶ)が多く、いろんな種類の竹が生えているが、ペグー山系に入った頃ちょうど筍の生える季節で幾らでも生えていた。これ幸いと筍の先の柔らかい部分のみを採ってきて、灰の汁であくを抜きゆがして食べた。お陰で空腹を満たしてくれた。
私は中学生の頃、筍を食べてジンマシンが体一杯に出て大変困り、医者へ行って注射してもらっことがあったので、筍を食うことに抵抗を感じていたが、腹が減るし米を節約しなければならないので用心しながら、少しずつ食べた。しかし、幸いにジンマシンは出ることもなく助かった。初めのうちは塩の手持ちがあったが、塩がなくなってからは、ゆでただけの筍を口にしたが、それは味がなくて食べられなかった。
誰かが「こんな物は栄養にならない」とか、「腹の中を通るだけだ」とも言ったが、食べる物が乏しいのでこれを食べた。沢山食べ過ぎ消化不良を起こした人もいた。中にはこれが原因で体調を崩し命を絶った人も出た。でも全体としては飢えを若干でも凌ぐことになったのではなかろうか。
私は筍のせいではないだろうが、毎日水に浸かり、冷えと体力の衰弱のためか、この頃また下痢が始まり回数が増え苦しい。どこにも下痢止めの薬などあろうはずがない。物知りの兵隊が炭を食べればよいと教えてくれていた。炭は吸湿性がある。内地にいる頃腹痛の時、黒い粉の薬を飲んだ覚えがある。それに燃やしたばかりの炭ならば黴菌(ばいきん)はないはずだ。「そうだ、これを食べよう」と決心した。
早速、飯盒で炊事した後、燃え残りの炭の奇麗そうなところを拾いあげ、ガシガシと噛んだ。甘味も辛味も何もない。燃えさしで炭になっていない部分は吐き出した。炭を口の中に入れてもなかなか喉を通らないが、このまま下痢を続けていると命取りになるから、治したい一心で、薬だと思いかなりの量を歯で砕いて粉にして食べた。確かに効いたようで次第に下痢が治り、ここでも命拾いをし本当に嬉しかった。炭のお陰である。
---ともあれ、ペグー山系の筍は忘れられない。私は、いまだに食卓に筍が出ると一瞬ペグー山系で食べた筍のことを必ず思い出す。複雑な感情で簡単には表現できないが、普通の野菜とは異なり、筍に対しては特別な心の動きをするのである。
◆次々と落伍してゆく
私と一緒に二月に召集を受け、同じようにこの野戦部隊の金井塚隊に転属してきた戦友の小林君や山田君が自決したとか、大井君がポウカン平野で敵弾に倒れたとの悲しい知らせが風の便りに次々に耳に入ってくる。あのしっかり者の小林君、あの機転のきく大井君。姫路に入隊した頃、美人の妹さんが大井君のもとへ面会に来ていたのを見たことがあるが、それももう昔の夢となってしまった。
しんみりと弔う時間も落ち着いて悲しむ余裕もなく、現実に直面して茫然とするのみである。敵弾と飢えと疲労に死にそうな日々が続く。自分の人間らしい温かい感情は薄れてしまったのだろうか。
ペグー山系の転進で、将校も下士官も兵隊も下痢を起こし衰弱し、またはアメーバー赤痢になり歩けなくなり置いてきぼりになる。自分から、「ほおっておいて行ってくれ」と言う者もある。みんな、元気になり病気が治れば、本隊に必ず追い着こうと思っているのだが、実際は一度皆から遅れ山の中に残ると、もう追いつくことはできない。「落伍してはいけない、必ず追及するのだ」と決心はするものの、体がどうにもならない。
僅かな米を持っていても数日分しかない。そこで飢え死にするか、ある時期に自決するかである。このようにして一人、二人、三人と落伍してゆく。彼等はその後どうなったか、実のところ分からない。殆どの人は、その地に朽ち果てたのではなかろうか。
取り残され、動けず、次第に無くなる一握りの米を眺め、自分に残された命の日数を数えることが、どんなに大変なことか。望郷の念耐えがたく、息を引き取って8c5cかれた将兵の心中やいかに。敢えて言うならば、最後に手榴弾を抱いて自決した人にしろ、次第劣りで自決する判断力すら失い、餓死した人にしろ、敵の弾丸に当たり一瞬にして死ぬのに比較すると、考える日にちや時間があり過ぎる程あったはずで、一層哀れである。
内地の土をもう一度踏みたい、父や母の顔を何回も何回も思い出し、一度でよいから会いたいと念じたことだろう。妻子のある人は、写真を出して頬摺(ほほず)りをして別れを惜しんだことだろう。残酷な時間が継続したのだ。あまりにもあわれで悲惨なことである。これが戦争で負け戦である。
私はこのようにして別れた多くの戦友のことがいつまでも忘れられない。同じ班だったかどうか覚えていないが、笠原上等兵は、私と一緒に馬の作業をし、わたしの輜重車が脱輪し引き上げるのに困った時助けてくれたことがあった。軍隊では共同作業が多く助け、助けられるのである。落伍する彼が最後に「小田、わしはもう動けない、少し休んで行くから」と寂しく弱々しい声で言って道端にうずくまってしまった。細い雨が降り雨霧が辺りの山々を包んでいた。彼の顔と山河の光景が網膜に焼き付いており、歳月は流れても忘れることのできない悲しく遠い日の出来事である。
---衣食足りた平和な今日では、到底想像もできないことであるが、日本の国を守り、民族と家族を守り、祖国の発展を祈りながらこのようにして多くの若い戦友が散っていったのである。半世紀を経過した今も、白骨は雨期の豪雨と乾期の炎熱にさらされたままペグー山系の山深くに朽ち残されており、痛恨の極みである。心よりご冥福をお祈りするばかりである。
二十一世紀の若人よ、祖国を守り日本国の発展を願いつつビルマに散っていった二十万人の霊魂が、無念の思いをしながら残っていることだけは、心に銘記しておいてもらいたい。

次の章に進む

TOPへ戻る