◆命がけの糧抹収集(りょうまつしゅうしゅう)
ペグー山系の中を苦難の転進をしている頃、我が第一中隊の主力は手島中隊長以下約七十名に減っていた。
内訳は私の所属する第二小隊では、瀬澤小隊長戦死後は誰が小隊長の代理をしていたかも、浜田分隊長戦死後は誰が分隊長代理をしていたかも明確でない。片岡邦夫軍曹が小隊長代理をし、若い森伍長が分隊長代理をしていたのかも知れない。次々に指揮者が戦死し、兵士達はぬかるみの中を息も絶え絶えに歩いている頃で、人事の任命も我々兵隊までには徹底して知らされる余裕もなく、指揮系統も明確でない状況であった。
第三小隊も当初の黒田小隊長の後任である岸本小隊長が戦死されており、各分隊長も次々に戦死され、その頃には片岡東一軍曹が小隊長代理を勤めるなど、指揮者が激減していた。
私には確かな記憶がないが第一小隊は福田中尉が指揮し、別の方面に転進していたのだろうと思う。
いずれにしても、これまでに第一中隊は、編成当初の半分以下に激減していたと思われる。七十名といえば一個分隊の人数より少し多いだけである。そして既に将校は手島中隊長のみで、溝口曹長が指揮班長として細部の命令を直接兵士達に伝達し取り仕切っていた。
第一中隊は手島中隊長以下で、この頃から師団司令部直轄(ちょっかつ)部隊として行動をすることになった。
ペグー山系に入ってから半月以上苦難の行軍を続け、山系中を流れるピュー河を渡り、山系の東に到達した。眼下にシッタン平野が見える。更に進み山を下り、平地に近い山麓の林が覆いかぶさる中に野宿することになった。これから折りを見て平原を突破しシッタン河に挑(いど)むのだろう、もうあの屍の塁々とした苦難の山系へ逆戻りして歩くことはないだろうと私達兵隊は思っていた。
師団司令部は山系の中程に宿営しているのだろうが、手島中隊に米を取って来るようにとの命令を下してきた。我々自身も米が無くなっているので、とにかく糧秣を収集することになった。
山裾の中隊がたむろしている場所から、シッタン平地に点在する現地人の部落へ取りに行くのだが、なかなか容易なことではない。
夜明け前に起き、山を出て平地にある部落を探し、払暁(ふっぎょう)に襲うのである。私達三人は斥候を命じられ、暗闇の中を一足先に部落の様子を探り、報告するために引き返していると、いきなり友軍が機関銃で撃ってきた。まだ夜が明けておらず、薄暗いので、私の方からも機関銃を構えているのが見えず、機関銃手の方からも私達三人の姿が見えなかったから、こんなことになったのだが、命令の不徹底があったためでもある。
私達三人の方向を目掛けて、いきなり薄暗い所から機関銃がダッ
ダッ ダッと火を吹いた、ちょうど七、八メートルの至近距離からである。私はびっくりして「友軍だ!友軍だ!」と叫び、仰天し横跳びに走った。他の二人はどう逃げたか知れないが銃口の前を飛び退いた。機関銃の銃口の高さは三十センチぐらいで私の股の間を弾が通ったと感じた。それも三発点射だから三発全部が股の間を通ることはない。どうなったのか知らないが足に当たらなかったのが奇跡的で不思議である。
機関銃は部落民を追い払うために威嚇射撃(いかくしゃげき)をしたのだが、我々斥候三人は撃ち殺されるか、重傷を負わされるところだった。当たるはずの関係位置であり、極めてタイミングもよく、当然撃ち抜かれているはずだが、当たらなかったのだ。その時足をやられたらもうおしまいだ。どうすることもできなくなり死ぬより他に手段のない戦況であった。神様は私を助けて下さったのだ。不思議だ。今思い出しても戦慄を覚えるし、復員後二、三回、夢でこの恐怖を見たことがある。
---この時の機関銃手であった光畑上等兵は、私と共に復員し現在も元気で活躍中である。戦友会で会う度に、「あの時はびっくりした、いきなり闇の中から大声で『オイ!オイ!』と絶叫し小田君が飛び出て来たので『撃ち殺した』『しまった』と一瞬血が逆流した」と話す。「当たらなくてよかった、当たったと思ったがほんとうに幸運だった」と当時を懐古するのである。当たっていれば、光畑君も一生重い心の負担を背負っていただろうから。両者にとり何事もなく誠に運がよかったのだ。