光畑上等兵は戦争中元気で重い機関銃を常に持ち、部隊の先頭に立ち敵軍を懲(こ)らしめ、味方をよく守り、ある時は宮崎師団長閣下の直接護衛をするなど、輜重隊の名誉を高からしめる貢献をした勇者である。彼は終始マラリヤにもかからず、下痢にも悩まされず元気者で通してきた。こんな人は極めて珍らしい。
---戦後彼は私達と共にビルマへ数回慰霊団の一員として参拝して来ているが、今日では数少ない生存者の中で、私と親しい戦友の一人である。彼は敵に直面した回数も多く、激烈な戦闘の話をよくしており貴重な存在である。
話を元に戻すと、平野の中にある十戸ばかりの部落に入る前に、機関銃で威嚇射撃して部落民を追い出した。現地人は素早く反対方向に逃げだしたので、家に入り、米と塩そしてたばこの葉を取って帰った。その時一頭の牛を連れて引きあげた。成果は上々というところであった。この成功で師団司令部に渡す米も目標の三分の一程度と自分用が少し貯えられた。早速飯を炊き久し振りに腹が膨れるぐらい食べた。塩と米だけでも美味しかった。
翌日は昼、斥候に出ることになった。中村伍長と古角上等兵と私の三人が一組の斥候となり、どこに部落があるか道順はどうか等を調べ、明日の未明に糧秣を失敬に行く部落の様子を偵察するためであった。
三人は山麓の隠れ場所を離れ、平地に通じる約二メートル幅の道に出た。そこに西岡軍曹と小谷上等兵、富田上等兵の三人で一組の斥候が道端に休んでいた。私達の中村国男組は先に行くからと言って追い越して前にどんどん進んだ。
三百メートルぐらい先に行った時、敏感な中村伍長が「自動車の音がする」「おかしい、自動車のエンジン音だ、隠れよう」と言って、道の縁(へり)に沿った川の茂みの方へ下り隠れた。隠れるや否や敵のトラックが、英印軍の黒人で頭にターバンを巻いた兵隊十人ばかりを乗せて、目の前を通り過ぎて行った。私達は川の中から見上げた。三メートルも離れていない至近距離だ。気味の悪いこと、見つかればそれまでだ。エンジンの音が軽いのによくも中村伍長は感じたものだと感謝した。西岡組はどうなるだろうかと心配していたら、銃声がパン、パンとし、何発もの射撃音が続いた。見つかったのだ。やがて銃声は聞こえなくなったが、どうもやられたようである。
私達中村組は、もう前進して行く元気もなくなり、さりとて後方に敵がいるのだから、この道を後退するわけにはゆかない。道から直角の方向に離れ、雑木林を横切り大回りして、中隊がたむろしている山麓にやっと帰った。しばらくして西岡軍曹が一人で帰ってきた。「小谷上等兵と富田上等兵は二人ともあそこでやられてしまった。敵は自動車から降りてまでは追って来なかったので、自分は助かったが、二人やられてしまった。残念でならない」とのこと。さすが下士官、激しい攻撃を今受けたばかりなのに、慌(あわ)てず焦らず泰然(たいぜん)とした態度であった。
翌日の夜明けに二人の死体収容に行った。現地人に服を剥ぎ取られており痛ましい姿になっている。誰かが二人の親指を切り取り持ち帰った。たいした弔(とむら)いもできないが許してくれと合掌し、皆で別れを惜しんだ。その日は米の収集はしなかった。
---小谷君は私と同じ二月に召集を受け、後に私と一緒に金井塚隊に転属になってきた兵隊なので縁が深かった。岡山県御津郡(みつぐん)馬屋村(まやそん)の出身だと聞いていたが、こまめによく動き、さわやかな感じの青年であった。小谷お前も死んだのか!小柄でやや角張り気味で少し日焼けした顔が、何故か五十二年前のタイムカプセルを通して現われてくる。
もっと米を集めなければならないので、次の日に、ある部落を目指して五十人ぐらいで徴発(ちょうはつ)に行った。小さな小川があり冷たい砂と水を踏むと気持ちがよい。砂もきめが細かく足ざわりもよかった。靴を履いている兵隊はほんの一部で、私を含め多くの兵士は裸足であった。その時はなんともなかったが、これが後に大変なことになろうとは誰も予測しなかった。
それはさておき、目指す農家は二十軒ばかりの集落である。その部落は約二十メートル幅の川を隔てて向う岸の小高い所にあり、未明の薄暗い中に静かにたたずんでいた。
手前の川岸から機関銃で威嚇射撃をした。それに呼応して、皆一斉にザブザブと腰の上まで水に浸かりながら、川を渡り部落に入った。その時誰もいないと思っていた民家の中から、小銃で撃ってきた。現地人は兵器を持っていたのだ。一昨日のことがあり部落を守るために武器の用意をしたのだろうか、パン
パン パンと音が交錯した。変だなと一瞬感じたが、私はかまわず家の中に入って行った。そして約一斗(十五キロ)の米を袋に入れた。かなりの量が取れたので、それ以上は何も捜さなかった。外では銃声が響き犬が気が狂ったように吠えている。中隊の皆も活動が鈍いようだし、家の中に入って来ない。おかしい気配を感じた。