◆雨中の宿営
晴れの日もあるが、雨に濡れながら歩き、やっと日暮れになり宿る所を探す。なるべく先行部隊がたむろした所で、焚火をし火の気の残っている所、そして一メートル四方でも木の葉で覆いをした場所があればそこにもぐり込んで休むのだが、それは、運がよい場合である。
大抵の場合は地面にごろ寝である。雨が降っているときは竹を背丈ぐらいの長さに切り三、四本並べ、その上に寝転び直接濡れた地面が背中に当らないようにし、装具を枕にし破れかけた携帯テントを体にかけて横たわるのだ。雨が滲み込むので、野生の草や、木の葉で大きいものがあれば、それを携帯テントの上に置き覆うのである。
それでも激しい雨が夜中に降ると、体に巻き付けた携帯テントを通して雨が透つて濡れるし、下からは並べた竹の上まで水が流れてきて浸かり、背中が濡れてくるので起きないわけにはゆかない。熱帯地方といっても、真夜中に背中まで雨に濡れると寒い。
明りが一つもないので地面がどうなっているのか分からない。どんな降り方をしているのか知れないが頭から被った携帯テントを雨が叩き雫が頬を流れる。雨は瀕死(ひんし)の兵士に降りかかり、これでもかこれでもかと苦しめる。
前に通り過ぎた部隊が火の気を残している場合は稀で、大勢の部隊ならマッチを所持する者もいるが、四人や五人ではマツチはもう持っていない。器用な兵隊が布で縄(なわ)を編んで火縄を作り携行していた。それも雨にあい長くはもたなかった。
何とか発火する物を持っていても、燃やし始めになる紙一枚も無い。雨の山中ではグッショリ濡れた竹や木しかない。生の木や竹の密林である。小雨も降っている。
火を燃やし付けるのには困った。しかし窮すれば通じ、人間は考える。生きるために誰かが何かをやる。青い竹の表面の皮の部分を剥ぎ、これを擦って乾かし、細かく割って燃えつきやすい細さにする。竹の表面の皮は湿っていないし、いくらか油気があるので苦労はするが案外燃え始めやすい。だんだん大きい火にし水筒で湯を沸かし、煙に咽(むせ)びながら僅かな米を粥にする。
この頃、ひもじさを癒(いや)すに十分な物はなく飢餓の状態が続いた。私達四名は中隊主力より遅れ、半ば落伍しかかりながら、いよいよしんがりを行った。そんなある日そこらあたりに、馬の蹄(ひずめ)が二個転んでいた。先行した友軍が死んだ馬を心ならずも、処分したのだろう。食べられない蹄のみが捨てられてあった。日にちがたっていたが、蹄だから腐っておらず、何とか食べられないものかと、思案の末、時間をかけて刻んだり削ったりして飯盒に入れて煮た。更によく煮た。塩がなく味がなかったが、少しでも動物性蛋白源になればと思いガツガツと噛み砕いて食べた。そのために下痢が激しくなることはなかった。また、それを食べたためにどれだけ生き長らえたか、どれだけ体力の維持に役立ったかも分からないが・・・・
◆命を支えた二合の米
ペグー山系を行ったり引き返したりしているうちに、日にちの経過とともに、お粥で我慢していたのが、遂に一握りの米も無くなってしまった。夕方露営の地に着いたが、私には炊飯すべき米がない。他の兵隊達はそれぞれに持ち合わせに応じて米を加減し飯や粥を炊いた。私は、仕方なく筍と木の新芽を煮た。食事が始まると中島上等兵が「小田、米がないのか、これを食え」といって、二匙(さじ)、三匙のお粥をくれた。その後で、彼は「小田、米が無いのか、俺は少々持っているから、お前の持っている象牙(ぞうげ)の印材と物々交換しょうではないか?」と言いだした。元々彼は力持ちであり、最初から沢山の米を背負っており、実際「まだ二升ぐらいは持っているから大丈夫だ」と言った。
私のこの象牙は、昨年ラングーに無線技術教育を受けに行ったとき、財布をはたいて買った宝物で、米三十キロにも相当する値段で内地に凱旋する時に持って帰ろうと考えていた大切な物であった。しかし、命には替えられないと判断して、二合(三百グラム)の米と交換した。
彼は私を可哀相に思い、いくらか象牙に関心もあった。私は生きるために米が絶対に必要であったから、この交換ができた。受け取った米を背嚢にしまった。だが、腹が減っていたので、早速、少しを炊いて食べた。美味しかった。身体が暖まり息を吹き返した。この二合の米が二、三日間の命を繋いでくれた。この二合が無かったならどうなっていたか、生命をこの頃落としていただろう。米を沢山持っていた中島上等兵が一緒におり、私の命を助けてくれたのだ。これも誠に幸運である。
七月十九日までにペグー山系の最後の集結地に集まるように命令が出ていることを誰からともなく聞いていたので、一生懸命に歩いた。急がなくては間に合わない。我々四人は、いよいよ最後尾で中隊本部を追いかけて行った。白骨の道標に沿うて裸足で歩き続けた。