◆落伍しながらもたどり着く
さきに象牙の印材と交換した二合の米を、少しずつ粥に炊いて、食い延ばしながら毎日歩いた。
しかしそれも無くなってしまった。みんな弱っていたが、少し元気な玉古班長代理と中島上等兵が先に行き、一人の兵隊と私が更に遅れてしまった。
とうとうその夜は二人きりになってしまい、マッチも火の気も持っておらず、炊くべき一粒の米も無いので、そのまま雨に濡れた地面に倒れるように横になり眠った。幸いその夜は雨が降らず夜が明けた。
朝になりトボトボと杖に縋(すが)りながら歩いて行くと、火を燃やした跡に僅かに火の気が残っていた。そこで一休みし、湯を沸かして飲んだ。少しでも食べていないと今夜が危ぶまれるが、食べる物がない。力なく二人で励まし合い歩いた。「もうあと五百メートル先が集結地点のようだ」と道端にごろりと寝ている兵隊が教えてくれた。そう言えば、その向うに大勢の人の気配を感じる。最後の力を出して歩き、やっとのことで師団司令部などの本隊に追いつくことができた。
決められた集結日の午前中にどうにか、輜重聯隊の手島中隊長配下の自分の班にたどりついてみると、私が遅れていたその十日程の間に、戦友達も途中で落伍して中隊の人数は更に減ってしまっていた。そこにいる者も悄然として衰弱しきっている。
午前中は筏(いかだ)にする竹を切り出すことになり、直径二十センチ長さ二メートル余りの太く大きな筒一本を各自切ってきた。シッタン河を渡るには竹を組んで筏を作り浮きにして、四人ぐらいが組になり筏に掴(つか)まって泳がなければならないので、竹の筒が是非必要である。疲労困憊(こんぱい)し食べるものがなく、足元はふらつき、弱い細い声しか出ないし汗も出ない状態であったが、その体に鞭打ち、やっと竹を取ってきて筒を準備した。
「夕方五時から下山行動開始」との連絡があった。山を下りて平野に出れば何か食う物があるだろう。それまでもう半日の辛抱だが、命が続くだろうか?
ひもじいひもじい、少しでも腹に入れておきたいが何もない。耳鳴りが一層激しくなるうえに、体は寒さを感じる。
たまたま、平井兵長が黒く煎(い)った籾を持っていた。私は彼にねだって、一握り足らずをもらった。これは、籾を飯盒の蓋に入れて、火にかけ煎(い)ったもので、殻(から)が黒く焦げたものである。
田舎育ちの私は、玄米の屑米(くずまい)を鍋に入れて煎り「焼き米」にしておやつの代わりに食べたことはあるが、焼いた籾を食べるのはこれが始めてで、普通では食べられるようなものではなかった。
しかし今は違う、焼けた籾の一粒一粒を噛み砕いてガシガシと食べた。籾の焼けた苦みが味となっていた。湿りがこない間はポロポロ砕けるが、湿ると砕けにくく、籾のガサガサした外の殻が喉に引っ掛かりそうだ。しかし、この黒く焼いた籾の百粒ばかりで、幾らかのエネルギーが蓄えられたように思われた。涙が出る程有難く平井兵長に感謝した。
考えてみると、十日間もの間、本隊から遅れながらも、一緒に行動したからこそ本隊に追い付くことができ、下山の日にどうにか間に合ったのだ。一人で落伍しておれば絶対に本隊に追い付くことが出来なかったはずである。もし出発時間に遅れて到着したらペグー山系の中に取り残されてしまっただろう。誠に奇跡的な幸運に恵まれたのだ。一緒に助け合って行動した戦友に感謝の言葉もない。