九 敵中突破
◇マンダレー街道と鉄道突破
◆闇夜の中を
夕方前に集結地を出発した。何千人何万人もの死体と落伍者を残し、地獄のペグー山系と別れた。
みんな、あまり装具も兵器も持っていなかった。私は三ヵ月にわたる死の行軍で、小銃も無くしており、持ち物は帯剣と自決用の手榴弾と、空の背嚢、その中に空の飯盒があり、水筒をぶらさげているだけであった。
筏を組むために用意した青竹はかなり重いが、それをかついで山を下った。平地に出た頃には日は暮れており一回小休止をした。
「間もなく街道と鉄道を横切るが、音を出さないように静かに素早く渡るのだぞ」と改めて注意がなされた。
闇夜の中を歩いた。平原の中、小川の中、田んぼの畔(あぜ)の上を滑り滑りよろめきながら歩いた。水が一面溜まった水田の中をも横切り歩いた。誰もものを言わないで、前の人に遅れると道が分からなくなるので一生懸命に歩いた。
なかなか道路も鉄道も現われてこない。原野の中の道無き道を、ひたすら西から東へ向かって歩き続けた。
どの部隊が、どのような順序で撤退しているのか分からないが、千人余りが私達と同じ梯団(ていだん)を組み師団司令部も一緒であった。
小川を渡る時は腰まで浸(つ)かり、畔(あぜ)を歩くと小さな刺(とげ)の草が裸足にチクチクと刺さり痛かったが、野いちごの刺のように固い物でなくて我慢できた。ぬるぬるの土の上は滑りやすく、暗闇の中に転んだ者もいた。しかし、軟らかい土の上を裸足で歩くのだから、多人数であっても足音を立てずに進むことができた。数時間も休みなく歩きに歩いた。
疲労衰弱した兵士達は喘(あえ)ぎ喘ぎ、ゴチャゴチヤになりながら歩いた。我々の中隊も一丁の重機関銃を銃身と脚に分解し、重いので交替しながら担(かつ)いで行った。私も銃身を担いだ。歩くことがやっとの自分には、五十キロもある銃身は大変な重さである。闇の中を一緒になったり、バラバラになったり取りはぐれたり、よろめきながら歩いた。
三メートル程の溝を渡り土手を上がると、そこに舗装した道路が横に伸びていて一気に横切った。幅約十メートルのマンダレー街道である。続いてマンダレー鉄道をも踏み越えた。感激の一瞬である。しかし立ち止まり感傷にふける時間はなかった。
一刻も早くその地点を離れる必要があった。この幹線は敵の支配下にあり敵が厳重に警備しているラインである。昼間は敵の機動部隊が頻繁に行き来しているので、我が軍は警備の薄い夜、闇に紛(まぎ)れ鼠(ねずみ)のように越えるしかないのである。後日、輜重隊の記録によると二十年七月二十一日午前二時と記されている。
横切り終わると一層速度を早め、田んぼの畔道を東へ東へと突き進んだ。真っ暗闇の中を、前の人に遅れまいとして歩いた。誰がどこを行っているのか全く分からない。直ぐ前を行く兵士の姿のみが頼りであった。
畔を歩いていると畑があった。暗いのでよく分からないが、どうやら砂糖きび畑らしい。急いで一本折ってみると砂糖きびだ。皮を剥(む)いて噛(か)むと甘い汁が口の中を潤してくれる。美味しい、むさぼるように汁を吸った。腹の空いた体に沁み通るようであった。二、三本食べた。重い竹の筒を持ち、歩き歩き食べるのだから、落ち着かないし前を行く人を見失ってはいけない。砂糖きび畑も終わった。
うねうねと曲がった畔を、小休止もせず歩き続けた。もうマンダレー街道を横断してから三〜四時間たっただろうか、夜が明けはじめた。それでも辛抱強く道無き道を東へ向かって進んだ。
こんもりと木の茂った部落に到着した。百軒程の村が田んぼの中にぽつんとあった。部落に入るや米と塩を探した。部落の現地人は驚いた様子で、全く予知しない出来事であったため、逃げるにも逃げられず、抵抗することは無駄であり、親切にしてよいものか、英印軍に知らすべきか否かと迷った様子であった。日本軍が直接ビルマ人に危害は与えないと分かっていても、ろうばいしていた。
その内、ビルマ人は部落の外に逃げて行った。我々は米を手に入れ、早速飯を炊き久し振りにご飯らしいものを食べた。私は玄米しか手に入れることができず、それをよく煮て食べた。玄米だから消化がよくないだろうと思い、よく咀嚼(そしゃく)して食べた。長い間飢えに苦しんでいたので、腹一杯食べた。やれやれ一眠りしようかなと思った時、敵が砲撃をしてきた。
これ以上部落内にいることは危険だと判断し野原に出た。大平原には大きい木もなく、遮蔽物がなかった。我が軍はクモの子を散らしたようにばらばらに散って逃げた。敵の射つ弾丸があちらこちらで炸裂した。しかし、大事に至らないうちに夜の帳(とばり)に包まれ、長い一日が終わった。
分かれ分かれになっていたが、いつとはなしに集まり、中隊はまとまった。昼間は行動ができないので、その日もまた夜道を歩き始めた。一晩中歩いたが夜が明けてみると、元の所に舞い戻っていた。「骨折り損のくたびれ儲(もう)け」といったところで、ビルマの荒野の中ではいろいろのことが起きる。ブツブツ言っても仕方がない。弱りきった体は余計に疲労するだけである。これも戦争だ。
またも下痢が始まった。玄米を食べたのがいけなかった。長い間ろくに食べていないのに、一気に米のご飯を食べたので、胃腸がついてゆけず下痢となった。下痢が以後も長く続き私を苦しめた。
今夜も夕方から行動を開始し、闇の中シッタン平野を東の方向に歩いた。夜明けに小さい農村にたどりついた。やれやれ大休止だと思い、地面に身体を横たえた。この部落よりシッタン河までは、後三日の行程らしいと聞いた。

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