次の日は朝から本隊に追いつくべく東に向かって歩いた。だが、本隊は既に東へ移動し、シッタン河手前二キロの地点に行っていた。月明りの夜遅く師団がたむろしている付近まで追い付いた。これでやれやれひとまず安心だ。シッタン河の手前に取り残されることはないと思った。
翌朝中隊長に重機収容ができないまま復帰したことを告げた。叱られはしなかった。この責任を負わされた伊多軍曹は、それまでに、ペグー山系で迫撃砲弾で頭を負傷し包帯をしていたのに、重い任務を果さなければならない心境はいかがだっただろうか。一兵卒の私とは責任の度合いが違うが、よく判断され、的確な措置を取られたことと感心した。さすが優秀な下士官だと思った。
その後、私は自分の十二班に帰った。帰るといっても散り散りばらばらで誰もいなく、道端で力なくたたずんでいた。
◆玉古班長との別れ
そこへ溝口指揮班長が来て「あそこで玉古(たまご)班長が死んでいるから行ってみよ」と指示された。
遺骨を収拾して葬ってやれとの意味である。
玉古兵長は貧しい民家の中、その片隅の押入れのような所で壁にもたれかかるようにして死んでいた。触ってみるとまだ温もりが残っていた。一週間程前には私は彼と一緒に四人で行動し、彼が引っ張ってくれたからこそ私はペグー山系を歩き通せ助かったのに。私にとって命の恩人がこんなことになってしまった!
思い返せば、私が青野ヵ原に転属した時から「小田よ」
「小田よ」と言って可愛がってくれ、何かと感化を受けていたのに。軍隊では先任の古年兵に好意を持ってもらえることは、特に嬉しく有難いことだった。思い出は尽きないが、今は感傷にふける間はなく、何とかしなければならなかった。
自分もヘトヘトだったが私一人だけである。農家に鍬(くわ)があったので庭先に穴を掘った。土は黒い色をしており雨期でもあり、軟らかくて掘り易かったが、体力が無いので深くは掘れなかった。穴を堀り終えると家に入り彼を抱きかかえ自分の背中に背負った。薄い肌着を通して彼の冷たくなりかけた体が、私の背中にべったりと覆いかぶさってきた。
死人を背負うのはむずかしい。死人は手を貸してくれないから背負いにくかったが、彼は小柄で痩せていたので、どうにか背負って外に出て穴まで運んだ。できるだけ大切にし滑らかに優しく穴に入れようとしたが、私に力が無いので、ぎこちなくドタリと音がして穴に入った。生きた人ならこんな落ち方はしないが、もう一つの物体なのである。丁寧に土を被(かぶ)せて合掌した。疲労しきった自分にはそれだけのことしかできなかったが、悔いは残らなかった。
---その時のことは、今でも鮮明に脳裏に焼きついており忘れられない。私と関係の深かった玉古源吉班長の最期のお世話ができ、いささかでも御恩に報いることができたと思って御冥福を心よりお祈りする。この文章を書いている今も、玉古班長が機敏に動かれていた姿や、額(ひたい)が広く、冴えた目元の顔が思い出されてならない。また彼は大工さんで、頭もきれるタイプで、我々の住む小屋を建てる時にも大いに活躍し、機関銃手としてもよく任務を果たされ、我が班で無くてはならない重要な人であったことを思いだす。
私の属する十二班の歴代班長がこのように次々に去ってゆかれ悲しく、残念至極である。