◆血に染まったシッタン平野
重機関銃収容に行った私達四人は田んぼの中で敵に射たれた時に、筏にする竹の筒を無くしたので、それに替わる物を作らなければならなかった。
それがなければシッタン河は渡れないのだ。この辺りには竹薮がないので、ビルマ人の家を壊しその材料の竹を取り出し何本かまとめて筏を作るのだが、古い竹で割れたのもあり細くて頼りないものだった。それを縛る紐がないのであれこれ算段して、苦心して作るのに一日かかった。
夜になり河を偵察に行ってみた、なるほど凄い。星明かりで対岸はよく見えないが二百メートル以上はありそうだ。その土手一杯に盛り上がるように黒々と水が流れている。岸の近くでも流れは早く、中程では渦を巻いているとのことである。雨期の最盛期で大変な河だ。
これを見て、よほどしっかりした筏でないと駄目だと思った。それに疲労困憊した今の体では耐えられないだろうと思った。そこで筏の組み替えを考えた。「バナナの太い軸が浮力があるのだ」とも聞いたが実行はむずかしい。
ペグー山系を出発してから、シッタン河に差しかかるまでに、我々の梯団(ていだん)は約一週間を要したが、その間にも多くの犠牲者を出した。飛行機の銃撃に倒れる者、落伍してしまい行方不明になった者、弱り果て自決する者等いろいろである。確実に兵士の数が減少している。
今日も、マラリヤで苦しんでいた北浜上等兵が遂に死を選んだ。一軒のボロ家に長代上等兵達四、五人が休んでいた。彼は仲の良かった長代上等兵へ「お世話になったが、わしはゆく」と小さな声で伝え外に出て行った。みんな弱っており、もう誰も止める者もいなかった。止めたところでどうなるものでもない。
彼は死期が近いと覚悟したからだろう。可哀相にと思ってもどうする術(すべ)もなかった。お互いにみんな重病人であり自分の命を支えるのに精一杯、お互いに死に直面しており、冷静に考えるゆとりもなかった。私自身もそうであったが、死んだ方が楽だとさえ思ったことがある。
二十五歳の青年北浜上等兵。目元の美しい彼も、長い敗走の間に髪は伸び放題、髭(ひげ)は顔を覆い今は見る影もなく痩せ衰え、垢に汚れ黄色くなった顔、おそらく高熱に冒されていたのだろう。
彼が外に出て行ってからしばらくして「ドガン!」という手榴弾の破裂音がした。彼は自ら命を絶ったのだ。こんなことが随所に起りシツタン平野は阿修羅(あしゅら)の巷(ちまた)となった。
今晩渡河予定だったが、予定変更となった。近くに舟があるのを見つけたのでそれを取りに行くことになり、私もその一員となった。シッタン河に沿って四キロばかり上流に行った所に民家がありその軒先に舟があった。十人ばかりで担いだり田んぼの水の上を引いたりして持ち帰り、その夜は数名で舟の整備をした。『舟で渡れるぞ』と喜びゆっくり休んだ。
ここ三、四日は不思議と天気が続き、今日も朝からよく晴れている。いよいよ今晩は渡河だと思うと、大きな期待と恐怖が入り交じってくる。
ところが、日本軍の作戦を知った敵は空陸一体となって攻撃してくる。シッタン河に沿った部落を何回も空襲し、機関砲を射ち、小型爆弾を落としてゆく。我々は家の床下に隠れたり、部落外の田んぼの間にある木の影に隠れたりした。
私は背丈ぐらいある竹で編んだ大きな籾の槽(おけ)の間にうずくまり、一日中そこにいた。敵のするがままで他に良い方法はない。嵐のような機関砲の弾、耳をつんざく爆弾の破裂音、逃げたとてどうしょうもない。弾が当たれば当たれだ、当たるなら即死するように当たれとさえ思う。
ふと母からの手紙を思いだした。母が金光教(こんこうきょう)を一心に信心してくれているから大丈夫だ、敵弾は当たるものかと信じると妙に心が落ち着いた。また、西澤とよ子さんから来た手紙の一節「米沢のさくらんぼが待っています」を思い出し、私は死なないと予言してみるのである。

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