部落の一部が燃えだした。固唾(かたず)を飲んで様子をうかがい思わずお守りを握りしめていた。この空襲で隣の十一班の班長小田兵長と二階堂上等兵が機関砲の弾を頭に受け最期を遂げた由、苦労してここまで来たのに誠に残念で悲しいことだ。
このように、我々手島中隊は師団司令部と一緒に行動し戦火の被害を受けているが、その他の聯隊でも大変な犠牲者があり多くの血がこの平野に流されたのである。
英印軍(えいいんぐん)の優勢な力にシッタン河河畔に追い詰められた我々は、竹の筏につかまり泳いで渡河を決行するか、渡河を諦めここで最後まで戦いとおすか、自決するかの決断に迫られた。多くの者は渡河手段を選択したが、既に負傷したり、体力が衰弱した者は泳げないのでここに残らざるをえなかった。残った兵士は、以後数日間、敵弾にさらされ、生命を落とすこととなったかと思われる。
---終戦後に分かったことだが、傷つき意識不明となり、いつの間にか、現地人に助けられた者もあった。また、自決できないままやっと生きているところや、昏睡(こんすい)状態のところを、英印軍に拾われ捕虜になった者もあった。戦争中に、あるいは抑留(よくりゅう)期間中にビルマ人になった人が沢山あると当時から聞いていたが、このような状況の中で、いろいろの運命をたどらざるを得なかった。
余談になるが、竹山道雄の「ビルマの竪琴」とか、梶上英郎の「ビルマ曼陀羅」などの書籍にビルマ人になり生活している状況が書かれているが、多くの日本兵がビルマ人となってしまった。その経過はいろいろだろうが、辛く、悲しく、耐えがたい困難があったに違いない。私が想像するような単純なものではなく、大変な犠牲を被(こうむ)られた方々である。戦争のために、生きていながら日本に帰れず、人生が全く変わったのである。
---私は昭和五十八年一月、ビルマ慰霊の旅に行った際、トングーという町に泊まった。トングーは、我々がシッタン河を渡河した地点の近くで、多くの戦死者を出した所である。この町にはホテルが無いので、校長先生の家に泊まらせてもらった。朝市を見てぶらりと歩いていると、一人の中年の女性が私の傍に来て、「日本人か?」と尋ねる。「イエース」と答えた。すると、手真似とビルマ語でこちらに来てくれと誘う。女に誘われて行くのは危険かとも思ったが、普通の女であり朝市の買物帰りである。それにビルマ人だから日本人に好意を持っての話であり、悪だくみがあってでないことはすぐに分かった。その時私は一人であったので多少の警戒はしながらついて行った。
二百メートルばかり行くと、醤油屋のような大きな構えの家に案内された。家族で朝食をしている様子であったが、家の主人を紹介してくれた。この主人は英語で話かけてきた。「日本人ですか、ごくろうさん、ちょっと待ってください」と言って、十六、七歳の女の子を連れてきた。
「この子のお父さんは日本の兵隊さんです」「この子のお父さんは日本人です」と紹介してくれた。私の心はジーンと痺(しび)れた。この可愛らしい娘の中には日本人の血が流れているのかと思うと、いじらしく不憫(ふびん)に感じられた。彼女はもちろんビルマ語しか話せない。ビルマ人の多くは中国系で日本人と殆ど変わらない。見た目には普通のビルマ人であるが、とにかく日本の血を引いているのかと思うと胸にこたえ、戦争の落とし子の幸せを祈らずにはいられなかった。
「お父さんは今いますか?」と尋ねると、「二年程前に死にました」という答えが返ってきた。
お父さんは実際はまだ生きているのかも知れないが、何かの都合で出てこない方がよいので、死んでしまったことにしているのかもしれない。せんさくは無用である。戦争の影響の大きさとその深さを肌で感じさせられた。
この子のお父さんは、どのようなことで生き残り、ビルマ人にならざるをえなかったのか知る由もないが、あの戦争で生死の境をさまよっている間に、このような運命を歩むしかなかったのだろう。誠に気の毒なことである。私の心は疼(うず)いた。彼女はビルマ語、私の英語を主人が通訳して伝えてくれるもどかしさはあったが、宿に帰り日本から持ってきた土産物、日本製の布地、シャープペンシル、ライターなど沢山持ち出し彼女に渡し、「幸せにやりなさい」と祈り別れた。
これは、私が直面した一例であるが、ビルマに残った人の幸せと、日本ビルマ混血児の幸福を心から祈った。
話を本筋に戻そう。

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