◇シツタン河の渡河作戦
◆小舟で渡れる
我々手島中隊の者は舟でシッタン河を渡ることになった。昨夜舟を収拾(しゅうしゅう)してきた苦労が報われた訳だ。
私はその時、日にちの感覚は明確でないが、輜重兵ビルマ戦線回顧録(かいころく)によると、シッタン河は五つの作戦区分に分かれ渡河したが、第一中隊は師団司令部等と同じ右縦隊中央突破縦隊に属しており、渡河した日は二十年七月二十六日と記されている。
日が暮れると行動が開始された。渡河地点まで約一キロを歩いて行った。部隊ごとに順序よく並ぶ。舟は小さいので四人しか乗れない。漕ぐ人が別に二人乗り計六人である。この突破縦隊は何百人もおり、一晩では渡りきれない。この地点に、もっと部隊がいたのか、他にもう一艘あったのかも、私にはよく分からない。私達は三時間程待つ内に順番がきたので河岸に行き、装具を持って舟に乗った。暗闇の中に水は岸に溢れんばかりにと・う・と・う・と流れていた。水はどれ程濁っているか分からないが黒いうねりのように見え、大変な水量で圧倒されそうである。流れの速さも凄く目測で毎秒三メートルと記録されている。
岸を離れ兵隊二人が一生懸命に漕いでいる。我々は兵隊の指示どおりに飯盒で舟の底に溜まる水を汲み出した。舟の整備もしたのだろうが、かなり浸水しているようである。みんな祈るような気持ちで乗っていると、舳先(へさき)を上流に向けて漕いでいるのに、流され流されしている。暗いのでよく分からないが流れは渦を巻いたり、わき上がるような所もあった。
河の中程を過ぎると、対岸が黒ずんで薄く見えだした。次第に近づく。もう直ぐだ。舟が岸に着いた!岸にしがみつき草の根を固く握りながら這(は)い上がった。三、四メートルも土手をよじ登った。こちらの平地の方が水面に比べ大分高いようだ。とにかくシッタン河を無事に渡ったのだ。筏を押して泳いで渡るのではなく、舟に乗り労せずして渡れたのだ。
漕手の兵士に心から「有難う、有難う」と感謝のお礼を言った。まさに「生」への喜びの一瞬である。
小舟は次の人を迎えるために帰っていった。舟の着く位置も多少異なるし、暗闇の中では先行した人がどこにいるか分からない。岸の小高い草むらに腰を下ろして暗黒の流れを振り返り眺めていると、私達は非常な幸運に恵まれ、小舟のお陰で渡れたのだと感激一入であった。
誰が漕手をしたのか知らないが、その兵隊だって弱っていたはずである。もともと漁師か何かで舟を漕ぐことに慣れていたのかも知れないが、大変な仕事だったと思う。その漕手で、皆を渡してくれた人は、果たして最後まで転進をし内地に帰ったのだろうか?幸運に私達の第一中隊主力は夜明けまでに渡河を完了したようだ。
---最近本誌の執筆に当たり、当時指揮班長をされこの渡河についても細部の取り仕切りをされていた溝口登元准尉に聞いたところ、その時の漕手は堀、三枝、山崎の各上等兵で、この人達がよくやってくれたので、みんな渡河できたと感慨を込めて教えて下さった。
他の部隊の一部は、夜が明けてしまい渡河できずそこに残ったままと思われる。昼は敵の飛行機が偵察し、流れている日本軍兵士がいると機関銃で撃ってくるし、下流の岸からは敵や現地人が撃ってくるので、舟であろうと、筏であろうと渡河は不可能である。それに長時間水の中にいると、弱り果て筏から手が離れ溺死してしまうのである。
私は、渡河地点近くに民家があったがそこには入らず、バナナ畑に入って休んだ。日が高くなった頃敵機が数機飛来して、昨日まで我々がいた対岸の部落を目がけて銃撃し始めた。ここから見ると約千五百メートル離れた所であるが、こちらが高台なので手に取るように見える。小型爆弾の炸裂する音や、機関砲の音も聞こえてくる。やがて、火の手が上がり煙と炎が遠望される。まさに地獄絵図さながらである。あれ程やられると全滅したのではないかと思われた。よくぞ昨夜、十時間前に渡河していたものだ。一日遅れていたらあの硝煙の中にいるのだ、と思うと何とも言えない戦慄(せんりつ)をおぼえた。
敵は、我々が渡河点前に集結していると思い、徹底的に攻撃をしているのだ。またまた、シッタン平野に多くの若い血が流されているのだ。敵の攻撃を受け傷つきながらも、運のある人はその夜、筏にすがり渡河してきた。だが多くの人は濁流の藻屑(もくず)と消えた。
その夜渡ってきた人に聞いたところによると、その日の攻撃は物凄く、大変な犠牲者が出て、屍が累々として重なり、渡河も各人の筏で銘々(めいめい)に泳いできたので、多くの人が流された、とのことであった。

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