◆シッタン河の悲劇
既にビルマの主要部分は敵の支配下に落ち、このシッタン平野も英印軍に制圧されていた。敵の勢力下にある地帯を突破する悲壮な作戦である。そのために突破梯団が組まれ、渡河区分も大きく五つに分かれ、渡河地点も三十キロにわたる長い展開であった。場所によって河幅も流れの速さも異なり、またペグー山系を下りた所からシッタン河までの距離も異なるし地形もマチマチ、敵の警戒度合いも場所により異なっていたが、どこも厳しいものであったことに違いはなかった。 シッタン河渡河は我が軍団にとり、最大の難関であり、決死の一大作戦であった。世界の戦史に末長く残る極めて稀な激しい渡河作戦であったといえる。
渡河した将兵の殆どは竹の筏に装具を乗せ四、五人で組になり筏に掴(つか)まり泳いで渡ったのである。それも夜の闇に紛れての行動である。人間の体力のみではどうにもなるものではない。流れは右に曲がり左に折れ怒涛(どとう)の如く荒れている。波も立ち、目線も筏につかまっているのだから低く、周囲の様子も分かりにくい最悪の条件である。それにみんな疲れ切っている。
対岸を目指して泳ぎ出したものの、浮かぶはずの筏はアッという間に沈み、乗せた兵器は流れ去り、筏は身軽になって再び浮き上がり、これに取り縋(すが)った兵士は急流に押し流され、多くの命が奪われた。濁流にほんろうされ、激流に呑まれ、泳いでいても筏から手がずるずると離れ激流の波を頭から被る。筏はぐるぐる回ったり、バラバラに分解したりして、「助けてくれ!」「助けてくれ!」と叫びながら多くの人が流されていく。やっと対岸に近づいたと思ったら、アレヨアレヨという間に沖に押し戻されてしまう。もう諦(あきら)めようとしながらも、また岸に向かって泳いで筏を押したという。
私は、渡河できた人からの話しか聞いていない。渡河できなくて流された人、即ち死んだ人の話を聞くことはできないが、その人達は下流へ流されている時どんな目に遭いどんなに悲痛な思いをしたことか。そのことを忘れるわけにはいかない。
私達の中隊に舟が無かったならば、私は筏で泳ぎ渡る体力はなく、急流に流され渦に巻き込まれ死んでいただろう。
元気な時には、二百メートルや三百メートル泳げる人も、水泳の選手でいくらでも泳げた人も、今は痩せ衰え極度の栄養失調で半病人、体が駄目になっているからこの流れを泳ぎ通すことは到底困難なことである。
次から次に「助けてくれ!」「助けてくれ!]と叫びながら流されていく声。「軍旗(ぐんき)を持っているのだ、助けてくれ!」と絶叫しながら流される、元気な旗手が腹に巻きつけて泳いだのだろうが、何分重い旗であり、しかも水に濡れれば重く体の自由がきかなくなったのかと想像する。後になって聞いたのだが、幸いにこの軍旗は渡河に成功し、終戦まで大切に守られてきた由である。

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