「助けてくれ!」という声は聞こえても暗黒の闇、どこを流されているのか分からない。よしんば声の所在が分かっても、長い棒やロープや浮き輪があるわけではなく、せいぜい「頑張れー」と声援するだけで、なすべき手段がない。その人自身の努力と運しかないのだ。流れの表面に沿って岸に近づくのを待つだけである。熱帯地方とはいえ夜の水の中、次第に手も足もしびれ、筏から離れ沈んでゆくのだ。心臓麻痺で死ぬ人もあろうし、流れて行く内に夜が明け敵に撃たれた兵士もあっただろう。私は後日、他の河の橋桁(はしげた)に白骨を乗せた筏が引っ掛かっていたのを見た。体は本人がロープで筏に括(くく)りつけたのだろうが、そのまま息が絶え、朽ち果てて骨のみが筏の上に残されているのだ。誠に哀れというより言葉がなかった。
筏につかまり流され、息絶えるまでの相当の時間、この戦友達は何を思い何を願っていたであろうか?故国を思い、父母妻子を懐かしみ、どんなに残念無念の思いをしながら死の時を待っただろうか。
流れる間に放心した者もあるかも知れない。また理性的に自決を覚悟した人もあっただろうが、装具の中から手榴弾を取り出すことも、流れる水の中ではままならず流れに身を任すだけとなり、死ぬに死ねず、最期を待ったのだろうが、こんなに酷(ひど)いことがこの世にあるだろうか?
不利な戦とは、こんなものである。歓呼の声に送られ、勇ましく征途についた将兵が無情にも、おびただしい数、こうしてシッタン河の藻屑(もくず)となってしまったのである。
終戦後の抑留期間中に、他の師団で当時シッタン河の下流に布陣していた兵士から聞いた話だが、「毎日毎日おびただしい屍が筏と共に流れてきて、禿鷹(はげたか)が舞い降りて屍の肉を食べその惨状は実に目を覆うものがあった」「河口付近は満潮で筏が海に流れず溜(た)まり、死者の腐臭(ふしゅう)が一帯に充満していた」と聞いたが悲惨の極みというほかはない。
シッタン河に流された確かな人数を把握していないが、英印軍の集計によると、六千の遺体が流されていたと記録されている。しかし沈みながら流れているものや、岸に引っ掛かった屍などを合わせると一万にも達するのではなかろうか。
これも後日聞いた話で、一例であるが、岡山の歩兵聯隊では、渡河前千人いたものが渡河直後五百人に半減していたとのことで、各聯隊共に似たような惨状であったことが想像される。
このおびただしい死体を河は飲み込み、大部分は流れて海に行ったのだろう。しかし途中に引っ掛かった屍の処理を現地人はどのようにしたのだろうか?これも大変な作業だったことと思う。
全世界のどこにこんな河があるだろうか。世界の戦争史の中で稀に見る悲劇である。永遠に流れるシッタンの流れよ、この河に散っていった日本兵士をいつまでも弔ってくれ。私達はシッタンの悲劇を永久に忘れてはならない。私の命ある限り無き戦友に哀悼の誠を捧げなければならない。
ペグー山系の餓死、シツタン河での水死、ここに数万人もの犠牲者をだしながら、撤退作戦は更に続けられた。