◇シャン高原での戦い
◆シッタン平地からシャン高原へ
渡河後昼はバナナ畑に退避、夜は民家に入り食糧を集め、飯盒炊事をしてどうにか飢えを凌ぐことができた。三日ばかり集結のためその辺りに止まった。幸いに敵の攻撃は河のこちら側には及んでこなかった。
渡河により各梯団とも人数が激減していた。またしても夜間の行軍が始まった。目指すはビルマの東南のモールメン地区で、ビルマ方面軍司令部は既にその地区へ後退していた。そこまでの道程はまだまだ遠く二百キロも先であった。シヤン高原の道はくねくねと曲がり細くなったり太くなったりしていた。平地を過ぎ森林部を抜け、なだらかな山間部へと、毎日夜間の行軍が続いた。敵の地上部隊はまだここまでは来ていなかったが、飛行機による追跡と機銃掃射は続いた。
また、いたる所に地雷が仕掛けられていた。我々より先行していた兵士が地雷にやられ倒れており、死体があちらこちらに散らばっていた。
ある日のことである。道の真ん中に将校が座っている。なんで端に座らないで真ん中にいるのかと不審に思い近づいて見ると、地雷にやられ上半身のみが路面にドッカリと倒れずに立っている。下半身は吹き飛んでいるのだ。また、ペグー山系程ではないが、シヤン高原の道端にも、体力が尽き果て自決した兵士の屍がいたる所に残され惨状を呈していた。
終戦後、秋田衛生下士官から聞いた話だが、彼も落伍しないように一生懸命に歩いていた。路傍に屍が点々とあるのは当時としては珍しいことではなかった。
彼がふと見ると、仰向けの死体の口の中から芽が青く出ている。よく見ると、生の籾を食べようとして口の中に入れたが、そのまま息を引き取った姿だ。死体の兵隊は米が無くなり、やっと籾(もみ)を現地人の家から取ることができたが、これを白米にする力も無く、火に掛けて焼いて食べることもできないまま体力が衰え、籾のままを食べようとして口に入れたが、そのまま息絶えているのだ。そこへ雨期の雨が適当に口の中に降り注ぎ、籾から芽が出て青く育っているのである。屍の口の中で籾が発芽して青い芽が育つ、そんなことがこの世にあってよいのだろうかと思ったとのこと。
我々はコウモリのように夜歩き、夜明けと共にあばら家でもあれば潜り込み、敵の飛行機に見つからないようにして、東南モールメンの方向に転進を続けた。しかし、敵英印軍は日本軍の動向をよく偵察しており、飛行機で山林の上空にも飛来し機関砲で撃ってくる。
シャン高原はアラカン山脈のように高くはないが起伏が連続しており、雨期で谷川は、増水し激流となっている。幅十メートル程の川でも、岩を咬(か)み飛沫をあげて滝の如く流れており、歩いてこの川を渡ることはできず行き止まりである。
幸いなことに、先行の工兵隊だろうか、上手(じょうず)に大木を川の上に切り倒し、向う側からも大木を切り倒し、川の中程で交叉させて曲がったり上下しているが、とにかく橋をこしらえてくれていたので、難なく川を越えることができた。でも、丸木で先の方は細く、他部隊の将校は滑り落ち死んだとも聞いた。そんなことをして激流を越えたこともあるが、激流でなく腰までつかって歩いて渡れる所が多かった。
ここの道は、ぬかるみはなく歩きやすかった。しかし、相変わらず裸足で竹の杖に縋(すが)りながらの後退である。

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