山の間を細い道に沿って行くと、時に山間民族チン族の部落が十軒〜十五軒点在していた。住民は我々が行く前に素早く逃げており、顔を合わすことはなく、豚や鶏はそのまま置いてきぼりになされていた。辺りには水田もなく家の中には米は無かったが、部落には椰子の木が何本かあり、バナナが何本かあった。我々は当時大部隊としてではなく分散して行動をしていたので、案外食物にありつくことができた。
吹けば飛ぶような竹細工のあばら家でも、雨に打たれて地面にごろ寝するより、家の中は、はるかに有難かった。ある部落で、柵の中にいる子豚に目をつけ、兵隊三人で追いかけたが、豚は必死に逃げるので捕まらない。仕方なく小銃で仕留めた。豚の料理も荒いことだが、肉を裂き薄切れにし肉汁や焼肉にした。
椰子の実がなっているが高い木を登るのにも技術がいる。それに弱った体では登れない。たまたま大きい鋸(のこぎり)があったので、引き倒した。その方が労力がいらなかったので悪いと思ったがそうした。高い木がバタリと音をたてて倒れた。椰子の実がたくさん着いており、皆で分けて食べた。長い間果物らしいものも食べていないので、たまらなく美味しい。現地人に対しては椰子の木を切り倒してすまないと思ったが、許してほしい、我々は今命を繋ぐのに一生懸命であり、食べなければ死ぬのだ。
一度や二度、豚や鶏を食べたとて急に元気になるものでもない。人によっては急に食べたので、体が腫(は)れたり下痢を始めるものもいた。こうして我々が通った後は、部落は荒らされ、食物は無くなり、家の一部は焚火に燃やされ、後には日本兵の屍が残され、あるいは瀕死(ひんし)の兵隊がそのまま残っているだけであった。
こんなことは不本意なことであり、現地人に対し誠に気の毒なことである。しかし我々は戦いに破れ敵に追われ、食物がなく毎日をやっと生きているのだ。
雨期の最盛期は過ぎたが、まだまだ雨は激しく降る。ボロボロの携帯テントにくるまりながら、とぼとぼと歩いて行くだけである。雨の中で地面に竹を敷き、体の上に木の葉を覆い寝るのだ。時には焚火で被服を乾かすこともあるが、濡れたまま寝る場合が多い。疲れきっているのでそれでも眠れる。
恨めしい雨は小降りになったが、まだ続いていた。その頃はシャン高原の中程ユアガレという部落を目指して歩いていたと思う。
私達第一中隊本部に有吉(ありよし)獣医下士官がいた。敵弾に右足下腿をひどくやられ、太い木を松葉杖のようにして、体の半分の重さを乗せ片足で歩いていた。傍にマウンテンという青年がつき添い装具等を持ち手助けをしていた。この人はビルマの獣医で、ずっと以前から有吉軍曹を慕い気が合い、日本軍に協力し転進中も苦労を共にしていた。この青年の並々ならぬ援助のお陰もあり、普通なら重傷でついて行けるような状態でないのに、毎日早めに出発し途中の小休止もしないで歩きぬかれており、その精神力、その忍耐強さに敬服した。私は、転進中の長い期間気の毒な姿を見ていたが、本当によく辛抱(しんぼう)されたものであると驚いた。負傷していない私がヘトヘトなのに、足に重傷を負いながら、よくぞ歩かれたものだと感心した。
---彼の若い奥さんが、青野ヵ原から姫路までの最後の行軍の時、和服姿で彼の傍を離れないようにして見送りされていた。六月下旬の暑い日で軍馬車両が濛々(もうもう)と砂塵をたてて進む中を一生懸命歩いておられた姿が目に浮かんできた。
その真心が通じあったのではなかろうか。その後無事復員され、元気で今日を迎えておられる。
今だに、歩き方に後遺症が残っているようだが、有吉獣医軍曹の忍耐強さを尊敬し、簡単にここに記す。
---有吉義夫氏は、最近私宛に、あの重傷で転進中マウンテン君に助けてもらったのに、何のお礼をすることも出来ないままになっており心残りだ。恩人マウンテンさんに感謝のお礼を、ビルマの人達に心からお礼を申し上げたいと、切々とした手紙を送ってこられた。ここに明記しておく。

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