◆輜重隊の活躍
私は一兵隊だから全体のことはよく分からないが、当時第一中隊は手島中隊長の指揮の下で、私達の第二小隊と、片岡東一軍曹や光畑上等兵等の第三小隊、及び溝口指揮班長や志水衛生軍曹等の本部指揮班の総勢約七十名が固まって行動していたと思う。中隊長以外の将校は既に戦死されていたので、指揮班長の溝口准尉が細部の指示を与えていた。戦力が貧弱になっており、これが第一中隊の主力であった。
こうして、第一中隊即ち、手島中隊長以下の主力は師団司令部と一緒に行動をし、師団長の直接警護をしたり司令部の食糧を調達したりしていた。
シッタン河渡河の折も、我が中隊の光畑機関銃手が師団長の舟に乗り、直接身辺をお守りした。
師団司令部の参謀達を小舟で渡したのも我が中隊の兵士であり、そんなことで師団参謀を近くで見る機会も多かった。
前にも述べたが、編成最初からの太田聯隊長は二十年五月十一日戦死され、金井塚聯隊付き大尉も負傷され、その後は植田中尉が聯隊長代理をされていた。
我々がペグー山系に入った頃、畑聯隊長が着任されていたが、聯隊や中隊は分散し転進していたので、我々は直接拝顔することなしに、指揮命令を受けていた。内地にいる時とか一ヵ所に集結している時であれば、聯隊長の着任は全員揃って厳粛(げんしゅく)にされただろうが、こんな戦闘中で特に状況の悪い最中では、末端には徹底されなかったが、仕方のないことであった。ともあれ、我々は畑聯隊長の指揮下で、後半の転進作戦を実行したのである。
手島中隊長は、頑強な身体の持ち主で鳥取県出身の方であった。中隊がタンガップ方面の警備に当たっていた頃の昭和十九年十一月中旬、聯隊本部付きから当第一中隊へ着任され、以後一番苦しい時に中隊を掌握し転進作戦を指揮されたが、途中、敵弾で片腕を負傷し、三角布で吊しながらも、常に勇敢に陣頭に立ち、中隊を終戦まで率い大任を果されたのである。武士の魂を立派に備えた方のようにお見受けしていた。無事復員をされたが残念なことに昭和二十六年頃逝去された。もっと長生きされ、日本の発展を見守って頂き、輜重隊戦友会にも来席して頂きたかった。堂々とした体躯で先頭指揮されていた当時の雄姿が懐かしく今も目蓋(まぶた)に浮かぶ。合掌
◆生と死の境
その頃、師団司令部の藤井中尉を長とする将校斥候(せっこう)が編成され十名が選ばれ、五名が輜重隊から、他の隊から五名が選ばれた。重要な斥候であることが想像された。
この将校斥候は、師団司令部及び輜重第一中隊等は迂回ルートを行くが、それと分かれて近道が行けるかどうかを、偵察するのが任務であったようである。
約一週間の予定で別行動をするのだが、この道は後続する者が来ないルートであると聞かされていた。溝口指揮班長より「小田
この斥候に行け」と命令された。
私は長い間下痢が続いて衰弱し、その上悪性マラリヤではないが三十八度の熱が引き続いていたので、斥候に出て行くと、途中で落伍してしまうような気がしてならなかった。命令を断わることは軍隊では出来ないこととよく知ってはいたが、以前から溝口指揮班長に可愛がってもらっていた甘えもあり、体の不調を訴え「自分には出来そうにない」と懇願した。しかし「弱っているのは皆だ」「行ってくれなくてはいけない。他に行ける者はいないのだ」とガンとして断られた。いくら可愛い部下であっても、発令者の立場からいえば当然のことであり、ここは一刻を争う戦場なのだ。「ああそうか、そうか」と聞いていたのでは節度がつかない。
溝口指揮班長を恨む気持ちは全くなかった。命令に従うのは当然だと思った。しかし大変なことになった。任務が果たせるだろうかと心配になった。途中で皆に迷惑をかけてはいけない、石にかじりついても斥候の任務を果たすのだと改めて自分に言い聞かせた。
藤井中尉の指揮下に入り出発した。私は機関銃の弾薬を携行する役となった。シヤン高原の山の中を登り、谷を渡り水に浸かり細い道を進んだ。
時々中尉はセルロイドのファイルに入れてある地図を出して見ておられたが、大分くたびれたものだった。磁石と照らし合わせていたが、こんな地図では今我々が歩いているような細い道は無いはずなのに、どんなにして進路を間違いなく定めているのだろうか?師団司令部のこの中尉の才覚と方向感覚に頼る外はない。
小川を日に何回も渡るので、下半身はいつも濡れて冷えが起き小休止の度毎(たびごと)に下痢をしに走った。便の量は少しだが腹が絞(しぼ)るような感じで粘液のようなものが出るだけである。ここ数日が特によくない。
将校斥候に出て二日目の午後は小さな雨が降っていた。私はついて歩けなくなった。激しい熱に襲われ、足に力がなくなり体を支えることができなくなった。戦友が「頑張れ」と勇気づけてくれたがどうにもならない。