部落の入り口であることがすぐに分かった。部落だ、嬉しい、有難い。山間に小さい家があり、近づいて様子をうかがうと現地人の声だ。おかしい、確かに一行はここへ来ているに違いないのに?更に十軒ばかりの集落の奥の方の家に行き、耳を澄ますと、今度は日本人の声がする。
もし、五分間、日が暮れるのが早かったなら運命はどうなっていたか分からない。すべてを諦めていたかも知れないのに。
やっと追いついたのだ。転げるようにして家の中に飛び込んだ。八木兵長や他の者が「小田お前来たのか」
「びっくりした」 「よく来たのう、もう会えないかと思って心配していたのに、よう追いついたなあ」
「よかった、よかった」と皆で迎えてくれた。藤井中尉に追及できたことを報告した。
この頃は、一度落伍したら最後、追いつくことは殆どできないのに、それが二、三時間も遅れて追いついて来たのだから、皆がびっくりするのも無理がない。誠に幸運中の幸運であり、神霊の加護によるものであると思わざるを得ない。地面が軟らかかったのも、地獄の閻魔(えんま)さんが受付けてくれなかったからだ。それに私に人一倍粘り強いところがあったからかも知れない。
夜になっており、皆の炊事もできていた。誰かが煮物を分けてくれ、それを皆と一緒に食べた。
ご飯と芋蔓(いもづる)を煮た汁物、それにガピーが少しあった。
疲れた体で炊事をするのではなく、できあがった物を食べるのだから、大変助かった。焚火の明かりがチョロチョロと皆の顔を照らしていた。野宿でなく家の中で休めるのは何といっても有難かった。「疲れているだろうから、早く休めよ」と誰かが言った。疲労していたので間もなくぐったりとなって眠った。
次の日の朝、藤井中尉将校斥候長から「近道をしたので、目的地に早く行けそうだ。今日と明日はこのまま、ここで休むから十分休養しておけ」との指示があり、皆は大喜び。子豚を捕まえ料理してみんなで分けて食べ、体力回復に努めた。私もこの二日間の休みで幾らか元気になった。この休みが無くて続けて強行軍していたならば、再び落伍したかも知れないのに。
三日目の行軍にはどうにかついて行けた。四日目も五日目も楽な行軍で、中隊本部や師団本隊と合流した。本隊は毎日歩いたのに、私達は近道をしたので二日間十分休みながら悠々と到着できたのである。これも幸運だった。考えてみると、私が斥候に行かず、師団本隊と共に行動していたら、迂回路なので毎日歩き通しで、ついて行けなかったかもしれない。運とはこんなもので不思議である。
ここでも二重三重四重の幸運に恵まれ生死の境を乗り越え、斥候の任務を終えた。運命は分からないが、神霊の加護により、母の信心により、生かされたことを私は感謝しなければならない。
この辺りが、シヤン高原のユアガレという地名の付近であった。
◆戦友友田上等兵を残して
シヤン高原に入ってからは敵の地上部隊に追い回されず、空襲を警戒すればよい。食物も所々に小さな部落があるので、どうにか飢えを凌ぐことができた。
小さい部落さえないペグー山系の中よりましであった。大きい集団で行動することは山の中とはいえ、昼間は避けて夜しなければならなかった。昼は林の中に隠れ、煙を出さないように炊事をして休み、夜の行軍を続けた。
その日はよく晴れた月明かりの夜行軍であった。だが林のある所は暗かった。私と友田上等兵は、弱った者同志で一中隊主力部隊の最後尾を遅れながら、竹の杖をつきトボトボと歩いていた。
彼は割合元気で、数日前私がひどく弱っていた時に、私の装具を持って助けてくれたこともあったのに、ここ一両日でマラリヤにかかり弱っていた。
三叉路にさしかかった時、部隊は右に行ったのに私達二人は月明かりでよく見えなかったので左へ進んでしまった。
しばらく行った所で、友田上等兵は「もう歩けない」と言って座り込んでしまった。私は「元気を出して行こう」と声をかけたが「もう一歩も歩けない」と言って青い顔をしている。
「ここでくじけてはだめだ。苦労してここまで来たのだ、もう一ふんばりだ」と言って励ましたが動かない。私は持っていた竹の杖で彼の背中を一発殴った。「どうにもならない、体が動かないんだ、ほっといて行ってくれ」と彼は答えるだけであった。
「さあ、立て」問答が続いたがどうにもならない。お互いの頬に涙が光った。
「元気になったら後から行くから」と答えた。私は「じゃあ仕方がない、必ず後からついて来るんだぞ」と励ました。彼は「小田よ、気をつけて行けよ」と言った。「有難う、では行くぞ」と言い残し彼と別れた。