私は本隊に追いつこうと歩いた。その頃は夜が明け朝になっていた。三、四百メートル程行くと道が消えるように無くなってしまい途方に暮れた。これはどこかで道を間違えたのだと初めて感じた。山の中で方向が分からなくなり迷いそうになったが、やっと引き返して来ると友田上等兵がいる。
「道を間違えた、逆戻りしているのだ。一緒に行こう」と誘った。しかし、彼は首を横に振るだけである。もう一度「友田、行こう、元気をだして行こう」と励ましたが、彼は「小田よ、ビルマの道は分からないから、気をつけてゆけよ」と注意してくれただけで、立とうとはしなかった。「では、行くぞ。元気になったら着いて来るんだぞ。では先に行くぞ」と言った。それが最後に交わした言葉であった。嗚呼(ああ)!
もと来た道を引き返していると、滅多に人に会うことがない山の中なのに現地人二人が向こうからやってくる。山男のような格好をしていた。細い道だからどちらかが、縁(へり)に寄らなければ通れない。私は武器としては手榴弾一個しか持っていなく、しかも弱った体であるが、まだ日本人のプライドがある。こちらが縁(へり)に避けることはない。もし彼等が危害を加えてくればそれまでだと覚悟を決め、にらみつけながら道の真ん中を進んで行った。相手が避け道を空けてくれた。
ビルマ人の中には日本人に対し好意を持った者が多いが、いろいろの事情から反感を持っている者もいた。戦況が日本に不利な現在では、おかしくなりかけてきたが、普通は積極的に日本兵に危害を与えなかった。この二人は彼の所を直後に通ることになると、私は気になったが、どうなったか分らない。私の想像ではビルマ人は友田上等兵を無視して通り過ぎたであろうと思う。
---その後、彼は自決しただろうか、すべて分からない。私が彼と別れた最後の戦友だったので、復員後早い時期にお墓にお参りしたいと思いながら、機会を逸してしまい、心残りとなっている。
あれから五十二年が経った今も、あの別れた悲しい場面が思い出されて仕方がない。ひたすら友田勇喜雄戦友の御冥福をお祈りするのみである。
更に引き返すと三叉路があった。ここを間違えたのだと分かった。部隊は右に行ったのに我々二人は気がつかず左へ行ってしまい、こんなことになってしまったのだ。あれこれしている間に部隊より約一時間余り遅れたことになり、追いつこうと懸命に歩いた。
午後遅く、やっと本隊へ追いついた。本隊は大休止をしていた。戦友達は「小田、よく追いついて来たなあ。一度遅れると殆ど駄目なのだが、お前はよく頑張るからなあ」
「頑張り屋だ」と言って迎えてくれた。しかし、そんなことより、彼のことを早速上官に報告した。
友田上等兵を残したのは、私の責任のような気がしてならない。彼は隣の班であるが私と親しい戦友で、玉島市近辺の出身で、銀行員であったと記憶している。良き戦友を失い残念でならない。いつまでもいつまでも心に残る辛い別れだった。
◆旧友との再会
シャン高原に入り半月ぐらい経った頃だろうか、敵機が飛んで来るが爆撃も銃撃もしなくなった。
「おかしいぞ」と誰かが言い出した。「そう言えば、敵の飛行機が撃ってこないぞ。もしかしたらソビエットが仲裁に入り、戦争が終わったのではないか?」と誰ともなく言いだした。これだけ戦況が悪くても負けたとは考えられないし、負けたと思いたくないのだ。
日本が勝つことはむずかしいが、負けることはないと信じて戦っているのだ。「講和が出来たのかも知れないぞ」その頃から大きい部隊でも、昼間の行軍に切り替え、いろいろの部隊が相前後して歩いている。岡山の歩兵聯隊も三々五々といった形で東に向かって歩いていた。
その時、中学(旧制)同級生の内田有方君に会った。五ヵ月前に第二アラカン山脈の中で奇遇して以来、これで二回目である。岡山の歩兵聯隊に所属しており、今度も偶然の出会いであった。この前は元気でたくましい将校姿であったが、今度は力なくひょろひょろと歩いている。服は着ているが装具は何も着けていない。丸腰といった姿。マラリヤの高熱に侵され、夢遊病者のようにふらふらしている。
すぐにお互いが分かり視線が合った。直ぐに彼の所に近寄り「おい、内田か」「小田よ、元気かい」「この前アラカンで会って以来久しぶりだが元気かい」と懐かしく声をかけあった。
元気かいと声をかけたが、お互いに痩せ衰え元気でないことは分かる。哀れな姿でお互いに手を握り頑張ろうと励ましあった。彼の手は高熱で熱く、目は黄色く濁り光がなかった。私は、彼はこんなに弱っているが悪性マラリヤではないか。大丈夫だろうかと心配した。彼もまた、小田はあんなに骨皮になっているのに、持ちこたえることができるだろうか、と心配した様子。でも、彼に会ったことが大きな気力の支えになった。
---そのように疲労衰弱していたが、不思議に二人共幸運に恵まれ、九死に一生を得て終戦を迎え、更に二年間の抑留生活を別々の地方でしたので会うことはなかったが、昭和二十二年七月にそれぞれ無事復員した。復員後しばらくして中学の同窓会で会い、お互いの無事を喜び合った。