一 青春の分岐点
◇召集令状
◆電報
電車が京浜線田町駅に止まり自動扉が開いた。私は反射的に読んでいた夕刊を折って上着のポケットに入れ、ホームに降りた。もう一年一ヵ月もこの駅で乗り降りしている。いつものように改札口を出て明治製菓の前を通り、箏曲の家元である女優高峰三枝子さんの邸宅の横の道を通り抜け、下宿屋宮木館へ帰った。今日は会社で残業をしたので、帰ったのは八時過ぎだった。
玄関を開けた瞬間、女中のおなみさんが出てきて、「小田さん電報よ。今少し前に受け取ったのよ」と言って差し出した。電報!デンポウ、私はもしかと胸が高鳴った。早速開けて見ると、「コウヨウ キタ 十五ヒ ハイル アトフミ」(公用 来た 十五日入る 後 文)ついに来るものが来たと一瞬思った。召集令状が家に来たことを、父が、東京に住んでいる私に、急いで電報で知らせてくれたのである。二月十五日に入隊せよとの召集令状は、速達で後から送るという意味である。
満二十一歳の誕生日を二月四日に迎えた翌々日、昭和十八年二月六日のことであった。この時勢に、兵隊に入れないのは病弱か、体のどこかに欠陥があるか何かで、使いものにならない男だと一般に言われるような時代であった。だから、私は誇らしいような気がする。しかし、その反面、重くのしかかる現実が待ち受けていることを感じ、その心境は微妙で、表向きは入営したい気持ちであるが、内面は行かずにすむなら行きたくないという気持ちがどこかにあった。
早速、内田富士雄君に電話した。彼とは学生時代からの親友で、学生の頃は同じ下宿の同じ部屋に泊まり共に学び共に遊んだ仲だった。社会に出てから現在彼は浦和の自宅から東京へ通勤していた。私がその時住んでいた宮木館も、区役所に勤めておられる彼のお父さんが見付けて下さったという程の親しい間柄であった。従って、何か事があると気心のよく通じる彼に相談していた。電話をかけた私の言葉はうわずっており、自分の言っていることがよく聞き取れないのではないかと思った。しかし、彼はすぐ「おめでとう、大いに張り切ってやれよ」と言い、「明日夕方勤めの帰りに寄るよ、元気をだして待っておれ」と励ましてくれた。
黒沢茂治君にも電話した。彼も同じく学生時代からの親しい友達で東京へ勤めるようになってからも、よく電話したり、お互いの下宿へ行ったり来たりし、勤務の状況、将来のこと、戦況などを語り合う仲であった。彼は「僕より君のほうが早かったね。一歩遅れてしもうた」などと冗談を言い、「元気でやれよ、送別会を同志でやろうぜ」と勇気づけてくれた。電話のある廊下から自分の部屋に戻ったが、今は何をしてよいのか分からない。
そのうち、女中が夕食を運んで来てくれた。下宿で、しかも食物も配給制で乏しい時節であったが、特に今日はお頭付(かしらつ)きの小さな赤鯛が別に一皿付けてあった。しかし、気持ちが高ぶっており、いつもとは味が違いザラザラとして喉を通りにくい。お汁で流し込むようにして食べた。
やがて、女中のおなみさんとさつきさんが、二人揃ってお膳を下げに来て、「おめでとう」と言って慰めてくれたり、元気づけたりしてくれた。
うつろな下宿の部屋の中は余計にうつろで、何をしてよいか分からない。考えるでもなく考えないでもなく、立ち、また座り、机の上にふんぞりかえってもみた。
町へ出て、慶応大学前の電車通りをしばらく歩いた。もう人通りも少なくなっていた。その内、急に甘いお菓子が食べたくなったので、小さな喫茶店に入りコーヒーとケーキを注文した。軍隊に入ればこのように落ち着いて静かな時を楽しむこともできないだろうと、しばし瞑想にふけった。外に出ると霧が出ていて街灯が乳色ににじんでいた。この景色をいつまた見ることになるだろうかと、感傷的になった。俺は行くのだ兵隊にと、手を握りしめた。
宮木館に帰り、再び机の上の電報を見直した。「醜(しこ)の御盾(みたて)となるのだ」と、力強く一人で言ってみた。
しばらくして階段を上がって来る足音がして、私の部屋の前で止まった。その足音で誰であるかすぐに分かった。この下宿屋の主人である。外から「小田さん」と声がかかる。「どうぞ」と言うと、戸を開けて主人が入って来た。平素からこまめによく働く人でなかなか愛想もよく、小柄だがすっきりとした感じのよい方である。
主人はいつもとは少し改まって「お邪魔します」と言ってきちんと正座し、「小田さん、この度は召集令状が参ったそうで、誠におめでとうございます。今時の人は、兵隊に行かないようではつまらんです。どうせ行くなら早い方がよいですよ。私なんかどうも」と言い、その後「小田さんなんか学校を出ておられるんだから、すぐに幹部候補生で見習士官になるんだ。しっかりやって下さい。いや日本は勝ちますよ、きっと。今日もニュースで米国の航空母艦一艘と駆逐艦二艘やっつけていましたよ」と勇気づけてくれた。
私も、戦争は次第に苛烈の度を増していて、ここで我が国民みんなが頑張らねばいけないのだと強く思っていたので、「入隊したら元気でやりますよ」と言った。そうは言ったものの、軍隊生活は並々ならぬものがあると聞いていたから、これから先の不安が私の心の大半を占めていた。
「それで、お勤めの会社の方は?」と主人は尋ねた。私は、「今までの人がみんな応召(おうしょう)中は給料がもらえているので、もらえるはずですが、明日会社に行ってみないとはっきりしたことは分かりません」と答えた。
「郷里は岡山でしたね、いつこちらをたたれますか?」さすが主人、私の郷里も覚えているし、下宿代の関係、配給米のこともあり、細々(こまごま)と尋ねた。私はまだぼんやりしたままで、そんなことを決めるまで頭の中が回っていなかった。
「そうですね、まだはっきりしないのですが、四、五日先になると思います。会社関係の仕事の整理、いろいろの手続きやゴタゴタとした片付けもありますし、送別会もあるでしょうから…・」と話しているうちに、しておかなければならないことが頭に浮かんでくるようになった。
主人は要点を話し終えると、「どうかゆっくりお休み下さい」と丁寧に挨拶をして出ていった。
もう十一時を過ぎていたので寝床に就いた。
私は徴兵検査(ちょうへいけんさ)の結果第二乙で輜重兵(しちょうへい)と決まっていた。軍隊に入るランクは体格により甲種・第一乙・第二乙の順である。当時甲種と第一乙は現役として四月に入隊し、第二乙は現役ではなくそのうち召集されるのである。
輜重兵は弾薬や食料や戦争に必要な物資を輸送運搬する兵科で、馬によるのと、自動車によるのと二種類あると聞いていた。馬によるのは輓馬(ばんば)と言って荷物を載せた車を馬に輓(ひ)かせるのと、駄馬(だば)と言って車の行かない細い山道を馬の背中に荷物を載せて運ぶやり方とがある。馬を扱うより自動車の方がよいと思い、暇をみてはこの一月から自動車教習所へ通い始めていたが、まだ三、四回しか行っていなかった。こんなに早く召集令状が来るのであれば、もっと早くから習っておけばよかったと思ったが、後の祭りであった。姫路の輜重(しちょう)聯隊(れんたい)に入るのだろうが、手紙が来なければ、はっきりしたことは分からない。それに馬の方になるか自動車の方になるかは入隊してからでないと分からないことで、二月十五日の入隊の日を待つだけである。
ここで参考までに、同じ専攻学科の同級生三十三名のことを言うと、大多数の者は昭和十六年十二月初めには、既に満年令で兵役適齢である二十歳になっていたので、十二月下旬の繰り上げ卒業直前の在学中に学校で一括して徴兵検査を受け、十七年二月には既に大部分の人は入隊しており、一年が経過して、ぼつぼつ見習士官になり始めていた。
しかし私や内田君、黒沢君、中村君達三、四名の者は、俗にいう七つ上りで、その時まだ兵役適齢に達していなかったので、検査もなく、卒業と同時に東京辺りの官公庁や会社に普通に就職し、約一年一ヵ月を経過していた。その間の昭和十七年八月頃私達はそれぞれの本籍地で一般の徴兵検査を受け、現役入隊をするか、またはいつ来るか分からない召集を覚悟していた頃であった。
そんな時、私に、現役兵より二ヵ月も早く召集令状が来たので驚いたのだ。後日聞けば、内田君、黒沢君はその後四月に現役兵として入隊し、中村君は一年以上も後に召集令状が来たということであった。
私達は一般の徴兵検査だったために適材適所等でなく適宜(てきぎ)の兵科に分類された。私は背が低い方なので、輜重兵へ分類されたのだろうと思われる。
◆勤務先へ報告
一夜が明けた。よく眠り、すっきりとした寝覚めだ。時計は六時三十分を指していた。洗面し髪を奇麗にとくと、冷たい空気が身を引き締め清めてくれる。今日は会社へ早めに行って、召集令状の来たことを告げなければならない。
おなみさんが朝飯を持って来てくれた。「よく眠れた?」と聞く。「うん、よく眠れたよ」とにっこり返事をすると、「それはよかったわ。あと幾日もここへ泊まれないのね」と少し寂しげな声で言った。私は「うん」と答えたが、時折冗談を言っていたおなみちゃんが真剣に心配してくれるのが有難く、別れは良いものではないと思った。
通勤電車の窓から眺める外の景色に変わりはないが、私には大きな変化が起きており、人生航路の大きな節目を迎えていたのだった。人の力では、もうどうすることもできない大きな流れ、この大きな流れに逆らうことは絶対にできない。この流れは幸福の里に着くのか、不幸の淵に落ちていくのか、神様のほか知る由もないことである。
会社に着き、所属の課に行くと先輩の上甲(じょうこう)さんと湯浅さんが来ていた。朝の挨拶をするのももどかしく、召集令状のことを話した。
上甲さんは「とうとう来たか!」その言葉には、来るものは何をもってしても阻止できない。男で、元気であれば、召集令状がいつかは来る。皆来るべき運命が次々に訪れる。上甲さん自身にもやがてやって来るであろう。覚悟をしておかなければならないと、自分に言い聞かせているようでもあった。そして、自分より四〜五歳下の小田君に先に来るとはどんなことか?という意味も含まれていた。
私より二歳上の湯浅さんは、「それはおめでとう。いつ入るのですか?」と聞いた。しかし、この言葉の中にもだんだんと身近に迫る現実に言い知れぬ重圧を感じているようであった。
しばらくして、丹羽・森田・七田などの先輩が出勤して来た。ひとしきりその話になった。
「小田君なんか若いのだから、今のうち一回軍隊に行ってきておいたほうがよいかもしれんぞ。二年程行ってくれば、その間は軍隊で養ってもらえるし、その気になれば給料が残り貯金がたまるから・・・・」
「これからは、偉い人になるには兵隊に行って将校になって帰っていないといけないから・・・・」まさしく、そのとおり軍国主義の世の中、将校のみが、いや軍隊の階級序列が、この一般の社会的権力構造までも支配するような時代がくることが予想されるから。
斉藤係長が八十キロを越す大きな体を運んで出勤してくる。丸い顔、大きな声で、いつもと同じように「お早よう」と言って入ってきた。航空無線機製作について重要な人物で、立川航空機製作所等へもよく打ち合わせに行っていた。今日は丁度こちらに顔を出されたのである。私は早速召集のことを告げ、現在取りかかっている仕事が完成近いのに中途で止めることになり、大変迷惑をおかけする旨を話した。
斉藤係長は「そうか」と言って黙っておられたが、しばらくしてから「何にしてもおめでたいことだ。仕事のことは何とかするから、心配せずに行ってくれ給え。二年以上技手(ぎて)という資格でこの会社にいれば、召集免除にすることもできるのだが、そんな訳にもいかないし・・・・」と言われた。
私はその頃、斉藤係長の指示により、陸軍の飛行機に乗せる無線機の一種類の開発を担当し、その試作機を作っていた。納期も迫っており、本当に困るが、軍は何を考えているのだろうか?とも彼は思ったようである。更に斉藤係長は「どうせ一年か二年すれば帰れるんだし、若いうちに軍隊生活をして、見習士官に早くなっておくほうがよいよ。会社の方はそのまま引き継いでいるのだし、帰ればすぐに出てもらえばよいのだから、そのほうは心配いらないから」と、有難い言葉である。「まだ日にちもあるし、事務所の方で手続きをしてもらいなさい。できるだけのことはするから」と親切に言って下さった。
そのうち、現場の工員の人達にも私のことが知れ、作業が始まってからも、そのことが持ち場で話題になっていたようであった。
事務所に行き西崎さんに話すと、「それはご苦労さんだね、こちらの方はよい具合にしておくからね」と半白の髪を少し下げて「それで、いつ東京を発つの?」といろいろ段取りを心配して下さった。
川添課長は私が入社以来特別に面倒を見て下さった方であり、また大変可愛がって頂いた上司である。小柄であるがなかなか元気がよく、大きな声でものを言う課長であった。叱ることもきっちり叱る性質で、信念のある努力家、社内で技術面の第一人者と言われ大変重要な地位にある方であった。
平素から私はこの方を人生の師とし尊敬する人だと思っていた。課長の在否を確かめ課長室に入った。課長は原書を読んでおられたが、眼鏡越しになんだろうという顔つきで私の方を見られた。
一礼して「召集令状が参りました。二月十五日に入隊することになりました」と言った。課長は「若い者には次々に来るな。これも御国のためじゃ、仕方がないわい」とつぶやくように言われたが、それは時の流れ、今の時勢を強く感じておられる声であった。しかし、それはまた、兵器特に高級な無線兵器の開発と生産に直接携(たずさ)わっている技師を一兵卒として召集しなくとも、軍はもっと人の配置を考えてはどうかという気持と、会社の人が次第に減っていくが、会社の経営を今後どのようにすべきかについて憂慮されている様子がうかがわれた。当時は誰も口には出せないが、会社の人材を召集で取られることは、会社にとり損失は大きいものがあった。
私は「課長さん、入社以来一年一ヵ月大変お世話になりました。完成前の仕事があるのに、これを置いて行かなければならないので残念ですが、お許し下さい」と頭を下げた。課長は「いいよ君、そんなこと心配しなくていいよ。まあ元気を出してやり給え」と励まして下さった。
試作係の部屋に帰り、先輩の人達との間で仕事をしながら、いろいろな話をした。「教育召集なら三ヵ月ぐらいで帰れるぜ」「いや、そんなことはない。どんどん教育して若い兵隊を外地へ出しているんだ」と。
「何としても甲種幹部候補生を取るまでは頑張れよ、甲幹さえ取っておけば楽だから」
皆が話をしている間に、私自身はひそかに、今まで順調にここまできたのだから、一度ぐらい兵隊になり苦労を味わってから将校になり、会社に帰れば、いろいろの経験もでき、物分かりのよい温かい人になれるのではないかなどと思ってみたりもした。
その後試作台の所に行き、長く携わってきた航空無線機の試作機を撫でてみた。完成間近で実地試験までは何としてもやりたいと思っていた。機械はものを言わない。それだけに去り難い愛着が沸くのだった。
この無線機が陸軍の飛行機にセットされ性能を発揮できれば、私が一兵士として働くよりもっと役立つはずなのだが。しかし、現実は現実だ。愛情を込めて奇麗にし、工具なども整理した。誰が後を引き継いでくれるのか知れないが、余裕の人はすぐにはいないようだ・・・・。事務机の方も、『立つ鳥跡を濁さず』で整然と片付けた。
送別会を、明晩新宿の「壽楽(じゅらく)」という料亭で関係の深い社員でして下さることに決まった。もう日の丸の旗が用意され寄・せ・書・き・が始まった。「祝小田敦巳君入営」と大きく書かれている。今まで何回も寄・せ・書・き・をしたことはあるが、今度は自分の番だ。社長の次に川添課長の名が書かれ、次々と書かれた。頑張れ! 振れ! 振れ! 少尉を目指せと。こうして私の健闘を真心込めて見守って下さる方々が大勢いると思うと感謝の気持で一杯となった。
そのうち女子事務員、女子工員達も訪ねて来て「小田さんがいなくなると寂しくなるわ」「早く帰ってね」「元気を出して行ってね」と励ましてくれた。女性の言葉にはそれなりに優しく温かい感情がこもり、胸迫る思いがした。
帰る直前に事務の西崎さんから「明日午後三時、会社全員でお送りすることになり、他にも出征する人があるから一緒に挨拶をしてもらうことになった」との知らせ。「そうですか、そんなにして頂かなくてもよいのに」と言ってみたものの、全員千名の前で挨拶をするのは大変だ。とにかく挨拶を考えておかなければならないと思った。
---五十年余り前に、真心込めて送って下さった皆様、今いかがお過ごしでしょうか? こうして書いていると当時のお顔が思い浮かびます。大変お世話になったことを改めて厚く感謝申し上げます。私が無事ビルマから生還できて今日あるのも、皆様のお励ましのお陰があったればこそと思っています。皆様には東京に住み、東京で勤め、空襲を受けて家を焼かれ、会社を潰(つぶ)され、大変な時代を過ごされたことと思います。今更ながら、心から幸せをお祈り申しあげます。この書き物を残すことで長い間の御無礼のせめてもの償いにさせて頂きたく存じます。有難うございました。
◆赤紙到着
下宿に帰ると速達が来ていた。赤い紙の召集令状が入っていた。父の手紙も添えてあり、もう驚くことはなかった。
当時、この召集令状より強い力を持つものはなかった。赤紙こそ絶対の力を持った命令書で、これに背くことはできなかった。これには、入隊日は昭和十八年二月十五日午前九時、場所は姫路の城北練兵場で輜重兵第五十四聯隊衛門前、番号九十三と記載されていた。
間もなく内田君、黒沢君、中村君が次々にやってきた。みんな勤めをすますと直ぐに訪ねてくれたのだが、一刻も早く私の顔を見たかったと言う。
「小田君、いやに早くお召があったじゃあないか」と内田君が言った。
「こんなに早かっちやあ俺達の方が後になってしまったわい。俺達が新兵で小田が古年兵で、絞られることになるわい」と黒沢君が空気を和らげた。
「小田にこんなに早く来るのなら、俺もいつ来るか分からんわい。早くよいことして遊んでおかなきゃあ」と中村君が続けた。
「小田よ、召集されると内地におれないぞ、少し教育を受けたら外地に行かされるかもしれんぞ。覚悟しとかなくちゃあ」と誰かが言った。
「やはり、内地の方がいいなあ」と私は答えた。
「赤紙とやら見せてみい」
「これだ」と言って出すと
「フーンこれか。強いもんだなあ。これ一枚で、人間なんて、どうにでもなるんだからなあ。ところで、輜重兵第五十四聯隊第一中隊か。俺達の同級生は在学中に学校で検査を受けたが、一般で普通の徴兵検査を受けると、こんなことになるのか」
「小田よ、自動車を習っているそうだが上手になったかい?」
「三田の自動車教習所へ、まだ三回ぐらいしか行っていないんだ。こんなに早く召集がくるのならもっと早く始め、免状を取っておけばよかった」
「まあ、しょうがないさ、馬と自動車があるが、馬ではないだろうね」
「そうならいいがね」
◇送別会と決別
◆学生時代の友と語る
続いて「小田よ、いよいよ召集令状が来てみればどんな気がするか?」と誰かが尋ねた。
「どんな気がするかって。うん、来ない方がよいことはよいが、いつ来るかいつ来るかと思って落ち着かないよりは、来た方がさっぱりするよ。今だってどうせ自分の家にいないのだから、ここにおるのも兵隊におるのも余り違わないような気がする。その点、今まで家にずっといた人や、妻子がある人は違うだろうよ。でも甲種幹部候補生だけは早く通りたいなあ」と私が答えた。
「幹候(かんこう)は、学校の教練は少しぐらい悪くても、問題ないらしいよ。入ってから要領よくやればいいんだから」とよいことを誰かが教えてくれた。
「それはそうと、軍隊では早く飯を食う練習をしておかなくちゃいけないぞ。兵隊か・た・は早寝、早飯、早糞。何でも素早く動作することが一番だ。小田、大丈夫かい」
続いて、話は戦況に移った。「しかし、なかなか大きな戦争だからなあ。日本も強いことは強いがねえ。何と言っても海軍力が大したものだから。それに大和魂(やまとだましい)は強いよ」と中村君は言いながら自分で慰めているようでもあった。「勝つ」とすっきり言えるには、誰も程遠い感じであった。
黒沢君は「 『九軍神(ぐんしん)だ、散れよ若木の桜花』と言うが、どうも、僕には宣伝のような気がする。 先日も敵の航空母艦と駆逐艦二艘を轟沈した、わが方の被害軽微、とラジオが言っているが、どうもおかしい」と言った。他の三人は、黒沢君のこの言葉に即座に反応できなかった。
---いずれにせよ、戦争はお伽話(とぎばなし)や絵巻で見るような華やかで派手なものではなく、決して美しいものでもない。無残で血みどろの苦しいもので、泥沼であり地獄であり、殺し合いであり、死である。その時は分らなかったが、戦争を自分が経験してみて初めてそれが分かった。しかも、戦後何年もたってから、黒沢君の勘が当たっていたことが分った。その時はみんな盲目だったのだ。
遠慮なしに言いたい放題のうちに、夜も更けてきたので仕方なくみんな引き揚げていった。
◆静かな夜に思う
みんなが帰って後、父からの手紙をもう一度読み直してみた。「これこそ男子の本懐。そちらを整然と片付け、早く岡山へ帰って来い。今回はこの村からはお前一人だ。岡山の学校の寮にいる妹にも知らせておいた。母も元気でお前の帰りを待っている」と記してあった。
当時、我が身を国へ捧げるのは当り前のことであり、召集が嫌などと言ったものなら、すぐに憲兵(けんぺい)に引っ張られて行く時勢であった。憲兵というのは軍隊内の警察で、軍隊外の一般市民に対しても絶対的な権力があり、当時としては恐ろしい力を持っていた。しかし、我が子が召されていくのが本当に嬉しいのか、誇りになったのか、親としての心境は言い尽くせないものがあったであろう。
私は、何を考えているのだろうか。ただ茫然としていると、両親と妹の顔が浮かんできた。それは緊張した顔で引きつり、沈黙を通していた。やがて母が「早く帰っておいで、今度はえらい目をしなければならないのだから、母のもとでゆっくり休んで行きなさい」と言ったように思えた。
気がつくと外は霰(あられ)が降っていて、風と共に窓ガラスに吹きつけている。カーテンのない窓は冷たく、カタコトと震えている。
明日は会社全体で見送ってくれるということだが、千人もの前で挨拶をしなくてはならないのだ。恥をかかないようにしておかなければならないと思い、うろ覚えの、この前出征した人の挨拶を参考にして、文句を考え一応まとまったので寝床にもぐった。
◆会社での壮行会
一眠りすると、二月八日で、電報を受け取ってから三日目の朝になっていた。雲の多い日である。朝食をすませ、繰り返し挨拶を言ってみた。
「この度は名誉ある応召(おうしょう)を受け、いよいよ軍務に服すことになりました。これは日本男児としてかねがね願っていたところであり、本懐(ほんかい)これに過ぎるものはありません。入営の上は一意専心軍務に励み、皆様の御期待に沿い、もって国のために粉骨砕身(ふんこつさいしん)する覚悟であります。顧みますれば、僅(わず)か一年余りの間ではありましたが、会社に奉職して以来、皆様の温かい御指導と御鞭撻(ごべんたつ)によりまして、つつがなく仕事や勉強をさせて頂き、衷心(ちゅうしん)より感謝致しています。高い所からではありますが御礼申し上げます。本日は会社の皆様には御多忙のところを、わざわざこうして多数の方々がお集まり下さり、見送って頂きまして感謝の外はありません。この感激をいつまでも忘れることなく頑張ります。どうも大変有難うございました」
名調子にはならないが、これで元気を出してやることにした。私は若いが、れっきとした社員で技術者の中でも技手(ぎて)という資格を持った者だというプライドもあり、それだけに堂々とした態度でやろうと、何度か言ってみる内に大体自信がついてきた。これでよしだ。
午前中時間があるので荷物の整理にかかった。読み慣れた本、大切な本、この机ともしばらくお別れだ。いつの日に解いて見ることになるだろうか?荷造りも、慣れない者にとっては案外時間がかかった。
もう十二時少し前になったので身支度にかかった。日頃は背広を着て出勤することが多かったが、今日は国民服を着て行くことにした。当時はカーキ色の兵隊服に似た形のこの服がよく着られており、こんな時にはこの服を着て行かなければならないような時代であり、背広姿だと非常識だと言われるような雰囲気の頃であった。
一人暮らしだが、カッターのみはクリーニングしたもので、ネクタイはこれまたカーキ色で服と似たものを締めた。
鏡の前に立ち、昨日散髪したグリグリ頭を映してみた。平生(へいぜい)中折れ帽子を被(かぶ)っていたが、それでは国民服に似合わない。軍隊の戦闘帽に似たものがあればよいのだが、買っていないので、被らずに行くこととした。今まで頭は七三に分けていたのに丸坊主に散髪したので寒かった。
---この時の髪の毛一つまみを大切に持ち帰り、出征していく前に、我が家へ遺髪として残して置いた。母が大切にしまってくれていたので、復員後懐かしく思い取り出してみた。あれから五十三年余を経過した今でも、貴重品箱の中に保管してある髪は、青春の黒い髪の毛のままである。現在私の頭髪は白いが。
電車は通勤時間でないのでよく空いていた。寿司詰めでないこんな電車に乗ると、ほんとに伸び伸びとした感じであった。冬の日差しが車内に差し込み気持がよかった。
会社に着き待っていると、三時前に拡声器から「これから出征(しゅっせい)兵士を送りますから、手のすいた人は全員中庭に整列願います」と放送があった。いよいよ私が送られる時がきたのだと思うと、このアナウンスの声は腹にこたえた。男も女も社員も工員もみんな大勢の人が集まった。
司会の方が「皆さんどうか前の方へ詰めて下さい。ではこれから、入営される小田さんと松下さんの壮行会を行います」と言う。私の所属課と入隊先及び松下さんのことについての簡単な紹介と、「御健闘をお祈りします」という言葉の後、「どうぞ」と挨拶を促された。
私は三段もある高い台上に上がり静かに礼をし、ゆっくりと力強く練習したとおり挨拶をした。水を打ったような静けさの中、川添課長の顔・斉藤係長・湯浅さんや女子事務員佐野さん達の姿も見えた。私はかくも盛大に送って頂いたことに感謝しつつ、深く一礼し、台を降りた。
次の人の挨拶がすむと、「万歳三唱」の発声により「バンザイ」 「バンザイ」 「バンザイ」と大きな声が怒涛(どとう)の如く起こり、力強く工場全体に響いた。
その後、中庭から正門まで全員が行列を作って私達二人を送ってくれた。私は正門を出る時会社の偉い人や皆さんに何回となくおじぎをし、有難うございましたと叫びながら手を振った。
正門には「東京無線電気株式会社」と看板が掲げてあるのを改めて見直し、今までにない感激を覚えた。しばらく行き立ち止まつて振り返ると、会社の白い建物がくっきりと浮かんでいた。わが会社よ栄えてくれ、この工場よ健やかであれと祈る気持ちで一杯となった。
夜は約束の時間に「割烹壽楽(かっぽうじゅらく)」へ行った。もう上甲(じょうこう)さんと加藤さんが来ていて迎えてくれた。しばらくするうちに、川添課長・斉藤係長もみえ、その他十数名集まって下さった。堅苦しい挨拶は抜きということで、早速酒肴(しゅこう)の宴が開かれた。そして、見事に出来あがった日の丸の寄・せ・書・き・と餞別を頂戴した。
ここで課長が特に「試作中の無線機が完成間際であるのに行くのは残念だろうが、これまでよくやってくれた。また帰って来たらやってくれ」と激励され、感極まって熱いものが込み上げてきた。酒が入ると、「小田君、少しぐらいは遊んでおかなくちゃあ」というような言葉もあった。戦時下で食物も不足しているのに、このような料亭で御馳走を揃えての送別の宴会をして頂いたことを心から感謝し、厚くお礼を申し上げて下宿に帰った。
◆別れ
翌日は朝から、昨日やりかけた残りの荷物の整理をし、自転車に乗せ何回も田町駅まで運び、荷札をつけて発送した。部屋の掃除をきっちりとして、下宿代等全部支払いをすませるともう午後三時を過ぎていた。いささか疲れたので銭湯に行った。まだ早いのでお湯も奇麗で人も少なかった。もう銭湯ともお別れだ。一年間の垢(あか)をよく落としておこうと、ゆっくり洗った。
風呂からあがり、鏡に全身を映してみた。少し背が低いがよい体だと自分でも思った。
---横道になるが、私は旧制中学校五年間皆勤で、その上寒稽古(かんげいこ)も五年間一日も休まず、健康に恵まれていた。好きなものだから剣道や柔道を正科の授業以外にも、人一倍よくやり技(わざ)を磨いていた。また、体操の時にやる腕立て伏せの屈伸くっしん)運動も平素から特別鍛練し、普通の人で二十回までのところを百八十回できる程度になっていた。それで、腕や胸の筋肉が盛り上がり、小柄ながら多少自信があった。
しかし、厳しい軍隊生活に耐えられるだろうかと思ってもみた。風呂上がりの暖かい体に澄んだ空気の肌触りはさわやかで格別の気持ちだった。
下宿の部屋に帰ると、掃除したので奇麗になっており、仰向けに転んで静かに目を閉じた。下宿の一室でも、いざ去るとなると懐かしいものである。
「小田さん頑張って下さい」「小田さん元気でね。早く帰って、東京に来てね」と女性達が目を潤ませ、宿の主人が「見習士官になって下さい」と激励してくれた。「有難う」「有難う、元気で行ってきます」と胸迫り、いつの日再びここに帰れるだろうかと思いながら宮木館を後にした。
内田君達が用意してくれた銀座裏通りの小料理屋へ行くと、相前後して学生時代の友達が四、五人来て送別の会をしてくれた。初めからザックバランな話になった。
「内田はよく学校で教練をサボッテいたので、教練の点が悪かろうから甲幹には通らないぞ。兵隊に入ってから大分頑張らんといかんぞ」と黒沢君が言うと、
「お前だって甲幹には通りっこないよ。大体だらしがないよ。だらだらしているから、絞られる口だぞ」と内田君が返した。
「小田は学校教練はマアマアだろうが、兵隊方はコウバイがキツクないとさしくられてしまうぞ。敏捷(びんしょう)にし、しっかりしろよ」と誰かが言った。
「入営してから本気で要領よくやれば何とかなるらしいぞ、俺達の同級生で去年入隊した連中は、富田も佐藤も石川も丸山達も殆(ほとん)ど全員見習士官になっているからのう。乙幹は数人だけだよ。初めの内は、大分ビンタをとられたりシゴかれても真面目にやっておれば大丈夫だよ。この間も石川君と添川(そえかわ)君が外泊だといって訪ねて来てくれたが、もう指揮刀を下げて、一流だったぞ」と林君が言った。
「ところでみんな、今頃どんな仕事をしているのかね。就職してから丁度一年たったが?」と誰かが尋ねた。
お互いに、米澤高等工業学校(山形大学工学部の前身)で電気通信工学を専攻し、その方面の所に就職していたので、専門的な話題となった。
「俺の所では、シンガポール(昭南島)(しょうなんとう)を陥落させた時、敵の陣地から分捕った方向探知機を真似して似たような物を作り、試験中なんだ。英国軍は既に敵の飛行機がどれぐらいの編隊でどちらの方向から攻めてきているかが分かる探知装置(たんちそうち)(レーダー)を持っていたのだ。やはり向こうの方が随分進んでいるらしいぞ」と他言出来ない内容を内田君が明かすと、
「僕の所は、国内全部にわたり有線電話回線の整備と工事が多いんだが、建設資材が不足し始めているらしく、大変なことらしいよ」と心配そうに黒沢君が言った。
「うちの会社では、陸海軍の飛行機に乗せる無線機を製作しているが、納期を急いでいるので大変なんだ。それに米国から買った機械の構造を取り入れて、設計をしているのだが、技術が遅れているんだ。部品などを真似してみても、向こうのと同じ性能にはならないらしいね。それに近頃では、アメリカの専門書籍が入らないので、困つているんだ」私は本音で話せる人達だけに、日頃から思っていることを率直に言葉にした。
私達は自分のしている専門の仕事を通して、電気通信分野が米国に比べて相当遅れていることは認めていた。しかし、海軍は大きな軍艦を持っているし、性能も優れている。大本営発表のように戦果が挙がっているし、精神力が強いから大丈夫だ。それに、相手の国は国内でストライキ等が起き、内乱になってくるだろうから、戦局は何とかなるだろうといった、一般的な時局認識の話も出た。
しかし、何かしら戦争の重圧が次第にのしかかって来て、押され気味の感じがしないではなかった。もちろん、私は日本のすべての報道が歪められているとは思わなかったが、黒沢君は少し違う批判的な感じ方をしていたようであった。
「こうやって、いつまた会えるだろうか。同級生でも学校を卒業してしまえばなかなか会えないのに、戦争に行ったりすればなおさら会えなくなるだろうなあ」こんな思いは誰の胸の内にもあった。戦況に暗雲が垂れ込めており、すっきりしないからこんな言い方になるのだ。
「戦争でも終わりみんな元の職場に勤めるようになれば、会えるさ」
「しかし、この戦で、散りじりバラバラになれば分らないさ。でも、お互いに手紙だけは出そうぜ」
食事もすみ外に出て夜の銀座をみんなで歩いた。戦時中で以前よりネオンが少ないが、それでも美しい店が並んでおり、今度はいつ来ることだろうかと思いながら歩いた。
「明日は、九時三十分発下関行き急行だから八時半に表中央口で会おう」と約束して別れた。
私は、もう下宿を引き払っており、寝る所がない。内田君の家に泊まらせてもらうことにしていたので、浦和の彼の家に行った。学生時代から何回か、夏休みには実習期間の二十日間もお世話になったことがあり、家族の人とも親しくなりよく知っていたので、余り気兼ねしないでお邪魔することにした。
内田君の御両親と、同居の従妹(いとこ)の静江さんが、入営を祝い励まし勇気づけて下さった。特にお母さんは、ぜ・ん・ざ・い・をして待っていて下さっており、一口食べると非常においしいと思った。この頃はもう砂糖の配給が少なくなっており、下宿していた私は、殆ど砂糖の味を長く味わったことがなかった。お母さんは、貴重品の砂糖を私のために使って下さったのだろう。真心のこもったぜ・ん・ざ・い・を頂戴した後、寄せ書きに名前を書き込んで頂いた。
彼の御両親も、私の応召は特別身近に感じられ、やがてくる我が子の入営を二重写しにされていたようであった。
「元気を出してやりなさいよ、小田さん。小田さんが少し楽になった頃に、うちの富士雄が入るんですから、本当に楽しみがよいですよ」とお母さんが言うと、
「軍隊は叩いたり、ひどい目にあわせるんだってね」と静江さんが心配してくれる。
「当たり前だよ。それがなくては、軍人精神が入らないんだってさ」と内田君が男らしく説明する。
「若い者は一度苦労して来るのもよいさ。富士雄のようななまくら者は・・・・」とお父さんが言うと、
「全くねえ、男の子は兵隊に行かなくちゃあならないし」と母親の実感がしみじみと会話の間ににじみ出てくる。
「大変お世話になりました。一生懸命やって来ますから。また、お手紙を送ります」と私は挨拶をし、夜も更けてきたので休むことにした。
別室で内田君と二人で枕を並べて横になるとすぐに、彼は「お前彼女に知らせたか? 早く知らせておけよ」と言った。それは、西澤とよ子さんのことである。西澤家は山形県の米沢市で上杉藩の上級士族の直系にふさわしい風格と奥ゆかしさを感じるお家であった。一、二年前の学生の頃私と内田君が一緒に下宿し大変お世話になったその家の娘さんのことで、私がほのかな思いを寄せていたのである。「まだだが、早速知らせよう」と自分のうっかりしていたのを恥じながら答えたが、急に彼女が懐かしく思われた。
続いて、内田君が学生の頃から恋愛関係にあった米沢の大和田常子さんのことについて話した。学校を卒業してから一年少々になるが、彼は将来を約束し、手紙などかなり頻繁にやりとりしていること、三回ばかり会いに行ったことなど、愛する人への心の動きを細かく話す。そして彼も四月に入隊が決まっているが、その先どうなるか心配だとの話で、私は聞かされ役ながら、彼と彼女の先々が幸せになることを祈った。
内田君と語り合ううちに、夜は更けていった。
◆内田君と学友達のその後
ビルマ戦線に直接関係の無い余談であるが、学友達のその後についていささか述べておきたい。
まず内田富士雄君であるが、彼は頭も良く勉強も良くできたうえに、理工科系の人には珍しく、人間の情緒、豊かな知識、幅広い教養を身につけた明るい人となりであった。私は彼から多くのことを見習い感化を受けてきた。私の人間性を創るのに、彼が大きな要素となったことは事実で、今でも彼に感謝している。
彼の恋人であった大和田常子さんとは、彼が入隊後も文通は当然継続した。
少尉に任官し内地勤務だった彼は昭和二十年八月十五日終戦となり、間もなく浦和の自宅に復員し、元勤めていた逓信省(ていしんしょう)に復職した。将来を約束していた二人は希望に燃え、浦和と米沢では少々離れていたが、幸福な会う瀬を楽しんでいた。ところがある日、彼女は友人と登山をして雨に濡れたのがもとで、急性肺炎にかかり、終戦後の薬の無い頃で、二十一歳の若い命をはかなく終えてしまったとのこと。私は自分がビルマから復員して後の、昭和二十二年の秋になってから、彼と四年半振りに会い、初めて彼の口から細かく聞かされた。
あまりにもドラマチックな二人の出会いと別れを聞き、唖然とせざるをえなかった。その時は彼女が亡くなってからもう一年以上も経っていたが、私は彼を慰める言葉を探せなかった。
親友内田君の痛手はいかに大きかったか、どんなに悲しいことだったかと思う時、『人生は小説よりも奇なり』と言うが、奇であり起きてはならないことが起きるものであると、私は、人の命のはかなさをしみじみ感じさせられたのである。
黒沢茂治君も、私の召集より二ヵ月後の四月に現役兵として入隊した。彼は早くから、大本営の発表は正しくないという見解を持っていたが、別に反国策分子ではないし、真面目に軍隊生活をして少尉に任官し、内地で終戦を迎え、元の職場である国際電電に復帰し順調に戦後の勤務に取り組んだ。
中村君は第二乙だったので、現役ではなく、ずっと遅く召集がきて、内地勤務だった由であるが、大手メーカーに勤務し順調に戦後を生き抜いてきた。
林君は健康上のことから軍隊には関係がなかったようで、引き続き放送関係に勤務した。
丸山君は岡山二中(岡山操山高等学校の前身)時代からの同級生であり、米沢高等工業学校へ一緒に入学し共に学んだ間柄で深く親しい学友であった。彼は温厚で世の中のことを何でもよく知っていたので、しばしば相談相手となってもらったものだ。彼も現役で入隊し将校になり軍務に服したが、内地勤務だったので、終戦後早く復員し時世の移り変わりをよく知っていた。私は、終戦後二年経過してから内地に復員したので、世情が全く分からず、方向感覚がつかめなくて、どのような気持ちで生きていけばよいのか見当もつかず苦悶した時があった。その時も早速丸山君を訪ね、敗戦後の社会に処する心構えを聞いて大変助かったことがあった。大切で頼りになる友達で、同じ岡山市に住んでいるので、今も時折旧交を温めあっている。
学友達にも若干の戦死者があったが、大部分の者は復員後、従来の勤務先に復帰し、または新しい職場で、戦後の復興と社会の発展に取り組んできた。
今、福岡県出身の河野君、北海道出身の高田君、加茂君、東京都出身の佐藤君、岐阜県出身の野口(旧姓林)君、横浜在住の松田君、京都在住の長(ちょう)君、大阪在住の関口君達は健在のようであるが、歳月の経過と共に、さきに掲げた内田・黒沢・中村・林・石川君等は今より十〜十五年前に他界し、他の学友達も近年急速に減りつつあり、時の流れを感じる昨今である。亡き友人のご冥福をお祈りし、わが人生の終焉(しゅうえん)近きを思う。
◆東京よ さようなら
内田君の家に一泊させて頂き、ゆっくり休ませてもらった。お父さんも内田君も普通の通りに勤めに出て行き、お母さんと静江さんが北浦和駅まで、見送って下さった。ホームで「小田さんお元気に、頑張って下さい」と、お母さんの目にキラリと光るものがあった。静江さんはいくらか赤い顔になり、うつむき、悲しみをこらえていたようであった。私はお母さんの健康と静江さんの幸せを祈り、男らしく大きな声で「では元気で行って来ます、どうかお元気に。さようなら。さようなら」と言っている間に電車は動きだした。
明治神宮にお参りし、玉砂利と高い杉の林の中を歩いて行くと、心も体も清められる心地がした。そのあと宮城にお参りしたが、夕暮れ前のせいか宮城全体の景色がぼんやりとして、涙ぐんでいるように見える。気のせいか、曇り空のせいか、冴えない影をしている。私はなぜか不吉な感じを覚えた。そんなことを考えてはいけないと思いつつも、大変な戦争だ、負けるのではないか? 一瞬そんな思いが頭の中をよぎった。
夜になり、東京駅に行った。私は国民服に日の丸の襷(たすき)をかけ、トランク一つ提げ、凛々(りり)しい姿になっていた。八時半頃になり勤務先の会社の方々、川添課長を始め斉藤さん上甲さん達も次々に見送りに来て激励の言葉をかけて下さった。内田・中村・黒沢・林君達の学友も揃って来てくれた。
「皆さん、有難うございます。お忙しいところを本当に有難うございます」と何回もお礼を言った。
あちらでもこちらでも入営者を送る集団が出来ており、東京駅は軍国調に塗り替えられて、沢山の出征兵士が送り出されていた。ホームには入れないし、混雑し迷惑にもなるので、改札の手前で送ってもらうことにした。
どこからか軍艦マーチのメロデイーが聞こえてきて、いやが上にも志気は高まっていた。
私を囲んで大きな円陣が出来ていた。「小田君、頑張れ」と激励の大きな声がかかったり、沈黙の瞬間もあったが、時間もそろそろ近づいたので、私はひときわ大きい声を出し「大変お世話になりました。遠路のところ誠に有難うございました。心からお礼申し上げます。では元気で行って参ります」と最後の挨拶をした。
誰かが音頭をとってくれ「小田敦巳君の健闘を祈って、万歳三唱」とリードした。「万歳」「万歳」「万歳」と大きな歓声が挙がった。歓呼の声が東京駅の中央口ホール一杯に沸き立ち、私は身の引き締まる思いがした。大きく揺れる旗の波、お世話になった方の顔、顔、顔に別れを告げ、改札を入った。いつまでも去ろうとせず見送って下さった。
急行列車は汽笛と共に緩やかに動きだした。東京よさらばだ。東京の人よさようなら。この駅でどれだけ多くの人が肉親、知人と別れて行ったことだろうか。そしてどれほど多くの人が永遠の別れとなったことだろうか。
就職以来一年一ヵ月間世話になった東京。大東亜戦争が起きてから一年三ヵ月が経過し、戦時下で物資も不足し、暮らしにくくなってはいたが、若い私には魅力ある街であった。なんと言ってもわが国の政治と文化の中心地であり、大きなビルや劇場もあり、学ぶ人にも、働く人にも、また遊ぶ人にも恵まれた環境のこの都会であった。汽車は横浜を過ぎ、大船を通過し、夜の東海道をまっしぐらに走り続けていた。リズミカルな音を聞きながらいつしか眠っていた。
◇故郷の温かさ
◆河本さんの経験談
汽車にゆられて十二時間後、岡山駅に着き乗り換え、山陽線で郷里に近い万富駅に着いたのは、二月十一日の午後二時頃であった。静かな田舎の駅は昔と変わりなかった。先日送った荷物はもう駅に着いていた。何時の列車で帰ると連絡していないので、誰も迎えに来ていなかった。
我が家に帰り、大きな声で「ただ今」と言って玄関を入り、トランクを上がり段に置き靴を脱いでいると、奥から母が出てきた。
「敦(あっ)ちゃん帰ったのか。いつ帰るかと待っていたんだよ。早く帰れてよかったなあ。お前に召集令状が来たので、すぐ電報を打ったが、早く届いてよかった。びっくりしただろう」
「いつかは召集令状が来るだろうとは思っていたが、こんなに早く来るとは思っていなかった。でも大丈夫だよ、お母さん」と私は元気に答えた。
母は久しぶりに私の元気な顔を見て喜び、目が潤(うる)んでいるようでもあった。
「今まで元気でやっていたが、今度は兵隊さんじゃ。元気でやりなさいよ」「近くの人に聞いたら、あそこは馬の部隊と自動車の部隊があるそうだよ。どちらになるか分らないが、お前がエンジニヤ関係だから自動車の方ではないだろうか。いつだったか運転を習っていると言っていたが、上手になったかい?」
「いや、まだ習い始めたばかりなんです」
と答えながら座敷へ上がり、ドッカリとあぐらを組んだ。母は「寒くはないか」と言って火鉢の火をおこしてくれた。次に「腹が減ってはいないか」と尋ねた。「昼食は途中の駅で食べたが」と答えたが、「腹がへっているだろう」と言って、火鉢でお餅を焼きお茶を入れてくれた。子を思う親の心をしみじみ温かく有難く感じた。母とはこんなにも良いものであろうか。
---こうして原稿を書いていると、今は亡き母の面影が懐かしく目頭が熱くなる。お母さん!
「この度はこの村でお前一人だよ。一月に三人ばかり召集で行き、四月には現役で六人入隊するんだそうだよ。それから、あそこの部隊に行っていた人がある。お前も知っている河本さん、あの河本さんに一度いろいろ輜重隊(しちょうたい)の中のことを聞かせてもらったらよいと思い、頼んだらいつでも聞かせてあげるとのことじゃあ」
「疲れただろうから、今日はゆっくり休みなさい」
「うん、お父さんや妹は?」
「お父さんは晩にならなければ帰ってこられないだろう。今頃は、小学校でも防空訓練やなんやかんやで忙しいんだよ。でも、ずうっと元気で勤めておられるし、静も元気でやっており、この間も手紙があったが、食物が悪く少ないので困っている様子じゃあ。それに、時々勤労奉仕があり、えらいこともあるそうじゃが、これも仕方がなかろう。近いうちに学校から、工場へ泊まり込みで、奉仕に行くことになるかも知れないと言っておったよ」
母は続けて「だんだん戦争が激しくなるし、長くなると物が無いので困るんじゃあ。この間も布が無いので、古い布を引き出しモンペを作ったところだよ。食べる物は砂糖なんかも配給で、ほんの少ししかないので困るけど、幸い、うちには食べるぐらいの米はあるから安心しておあがり、お前が食べるぐらいはあるから。それから先月、松田○○さんが戦死され、役場の庭で慰霊祭があったが、あの家にも長男で、後は女の人ばかりで困っておられるんだよ。お前も、よく気をつけてやりなさいよ」と母の話は尽きなかった。
腹もふくれたので布団を敷いてもらい一眠りすることにした。目が覚めると夕方六時前で、荷物を開けたり庭の方を歩いていると父が帰って来た。
田舎の小学校の校長をしている父も国民服に戦闘帽という格好で、ボロ自転車に乗っている。父も次第に年をとったなあと、つくづく思った。近頃頭を丸坊主にしているせいか、白髪が余計に目立つように思われた。そればかりではない、いろいろと苦労があるのだろう。私が「お帰りなさい」と言うのと、父が「帰ったか」と言うのと同時で、顔がばったり合い、お互いににっこりとした。それはすべてを感じ取った父と子の目と目であった。
「お前元気だったか。いよいよ赤紙がきたので、速達で送ったが召集令状を受け取ったかい」
「受け取った。持って帰ったよ」
「会社の方は仕様がないが、まあしばらく、兵隊生活をしてくるんだなあ。早く将校になるように、よく頑張るんだなあ」と父が言った。
やがて夕食もでき、両親と私の三人で飯台に並んだ。久し振りに母の料理、母の給仕で食べる御飯は美味しかった。私が生まれてから永年育てて下さった母の味であり、それに輸入米でなく、田舎で取れた純粋の白米だったせいでもあった。妹の静がおればみんな揃うのになあ、と思いながら食べた。近所の様子や、東京の土産話等をした。その晩は幼い頃から住み慣れた我が家で、足を伸ばして休んだ。
次の日は、近所や親戚に挨拶と顔見せに行って、田舎の話を聞き、東京の話をし、軍隊の話を聞いたりしているうちに日が暮れた。夜になり、三つ年上の河本梅雄さんが家に来て下さった。
「敦巳(あつみ)さんいよいよ入営だそうですね、それはおめでたいことです」まず当時誰もが交わす、常識的な挨拶をした。「わざわざ、お忙しいのに来て頂いてすみません。こちらからお訪ねすればよいのに」と言うと「いやいやお疲れでしょうから、それにどこで話すのも一緒ですから」と、頭の良い彼は、一年前輜重隊に入っていた時の模様を順序よく、しかも詳しく教えて下さった。
「敦(あっ)ちゃんと昔、子供の頃一緒にやっていたチャンバラごっことは、ちょっと様子が違いますからね。軍隊という所はこの社会とは違った所ですから、ここでは考えられないようなことが、沢山ありますよ」と前置きがあった。
「まず兵隊では、要領が良くなくてはいけないんです。要領の悪い人は叱られたり、殴られたりする回数が多くなりますから、なんと言っても要領が第一です」
父もこの話を一緒に聞いていた。そのうち母もどんな所かと仲間に入り、心配そうに聞いていた。
「入ってしまうと朝から晩まで追い回され、自分の時間など取れないから、今のうちに、軍人(ぐんじん)勅諭(ちょくゆ)を覚えておいた方がよいですよ。軍人勅諭とは、軍人として守らなければならない五ヵ条からなる教訓で、かなり長文ですが」
「それから員数合わせということが大事なんです。員数とは各個人に与えられている品物、それには鉄砲、帯剣(たいけん)等の兵器を始め、帽子、軍服、脚半(きゃはん)などの衣類それに雑嚢(ざつのう)、飯盒(はんごう)、水筒、針刺し袋に至るまで、多くの持物の数を常に揃えておかなければいけない。時々その数の検査があるが、その時不足している物があると大変なことになり、いろんな罰が与えられることになるんですよ」
「人の物を盗んででも、自分の持ち物の数、即ち員数を確保して、おかなくてはいけないし、盗むにも、夜寝ている間にとか、人がちょっと脇見している間にサッと盗み、知らぬ顔をしておくこと、これが要領がよいことになるんですよ」
「取られた人、即ち員数の合わない人が、叱られることになっているのですよ。軍隊という所は、取られたらすぐ取り返せ、相手が誰であろうと見つからねばよいのです。軍隊とはそんな所と思っていなさい」と話してくれた。
更に彼は、「自分の良い所を、要領よくこなし目立つように振るまい、まずい所は隠してしまい、知らぬ顔をするんだ」また、「いろいろの動作を荒くても迅速にすることが肝心なんで、サッサッと早くすることが一番、ノロノロしていると叱られるから人より早くすることだ」等と具体的に教えて下さった。
何も知らずに行ったのに比べれば、大変な得をしたことになった。これでビンタ(頬を殴られること)の三つや四つは助かったはずである。夜の更けるまでいろいろ話を聞いた。それから、手に入れた軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)の本を二、三回読んでいるうちに眠った。
事前に経験者によく聞いておくことが、どれくらい得になるか、後になってよく分った。
◆村役場や近所回り
次の日の二月十三日の午前中は役場、農協、駐在所を挨拶に回った。
内田村長は「それはおめでとう。入営の時にはわしも一緒に行きますから」と言われた。
私は「それは、お忙しい所を大変お世話になります」と答えた。
「あんたは今、どこへ勤めておられるんですか?」と尋ねられた。
「東京無線電気という会社に勤めています。東京にあるんです」と答えると、
「応召中は、月給なんかはどうなるんですかね」と更に尋ねられた。
「支給されることになっています。毎月家の方に送ってもらえることになっているのです」と答えた。
「それは結構ですなあ。田舎で百姓だけしていたんでは、何もありませんからねえ」と返事をされた。その時改めて、会社の措置(そち)、月給を応召中続けて下さることがどんなに有難いかをはっきりと感じた。
それから村長は、「入営の前日に皆で送って、その晩は私も姫路市内に一緒に泊まり、朝九時までに兵営に行くようにしたいが」と言われた。
私も大体そのようにすればよいと父から聞いていたので、入営の前日十時三十分に万富駅発の列車に乗る予定とし、そこで村長と会うことを約束して家に帰った。
午後は昨日残っている部落内の家々を残らず挨拶して回った。「この度、召集令状が来たので、入隊します。平常こちらに住んでいないのでご無沙汰しています。留守中よろしくお願いします。明日出発します」というような挨拶をした。
「敦巳さん、この度はおめでとうございます。わざわざ来て頂いてすみません。何とぞ元気でやって下さい」と励まして下さった。
短い言葉の中にも、もろもろの感情が通い合い、多くの人の言葉の端に、この人もまた兵隊に行くのか、小さい子供の頃、この田舎で走ったりころんだり、戦争ごっこをしたりして遊んでいたのに、こんなに大きく立派に成長して。しかし、ここで兵隊に取られては、親もさぞかし惜しくもあり寂しくもあるだろう。でも、これも国を挙げての戦争で致しかたのないこと、どうか無事に過ごすようにと願い、励まして下さっているのを有難く感じた。
次々に家を歩いた。もう既に兵隊に送り出した「出征軍人の家」もあり、支那事変で戦死された「誉(ほま)れの家」もあった。当時はそのような表示を、家の入り口に掲げていたのである。
その後、先祖のお墓に参り、入隊の報告をし、守って下さいとお願いをした。
こうした間にも、軍人勅諭を丸覚えするように頑張った。なかなか長い条文で一生懸命にやらないと、覚えられなかった。これこそ軍隊生活で最も重要な基本となる定めであるから、入隊までに覚えておくと大変助かり、その後の負担も軽くなるし、殴られる回数も幾分少なくなるというので、何回も何回も読み、また書き、学校の試験勉強をするつもりで覚えた。
◆水入らず親子四人
多忙なうちに日暮れになった頃、岡山の学校に行っている妹の静が帰ってきた。立派な学生になっている。大きくなったものだなあと感心した。この間まで子供だと思っていたのに、もういい娘である。ただ一人の妹、例えようもなく懐かしく感じた。
「お兄さん、遅くなってご免なさい。今日やっと帰ることができました」平素は比較的よく話をする方だが、今日はあまりおしゃべりはしなかった。でも、久しぶりに親子四人、全員揃っての水入らずであった。物資が無い時代、食物の材料を母がいろいろと工面してくれ、そのうえ鶏を一羽屠(おと)して、手のこんだご馳走をしてくれた。
「敦巳よ、腹一杯おあがり、兵隊ではご馳走もないだろうし、忙しくてゆっくり食べられないだろうから。静もしっかりおあがり、寄宿舎では不自由しているのだろう」母は自分ではあまり食べないで、子供達や父に少しでも多く食べてもらおうと勧めるのだった。父も私も酒好きという程ではないが、今晩は一本つけてもらい、ほろ酔い気分になった。
日の丸の旗の寄せ書きに、武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈り、父と母と妹が名前を書き込んでくれた。千人針(せんにんばり)へ母と妹が必勝と健康を祈り、固く結び目をつけてくれた。また、今日までに父母が何ヵ所かの神社のお守りを頂いて来ており、母が「このお守りが敦巳、お前を守って下さるから」と言いながら、しっかりと手渡してくれた。両親の祈りが凝集(ぎょうしゅう)したお守りであった。
---このお守りのお陰で、幸運に恵まれ、私は九死に一生を得て無事復員できたのである。敵弾をくぐり抜け、汗と雨と泥にまみれて、ボロボロになっているが、激戦の跡をそのまましるした大切な宝物として、今も我が家の貴重品箱に収めてある。
家族四人揃っての話題は東京の会社での仕事、友達の動向、岡山の町と、女子師範学校の様子、勤労奉仕のこと、父の勤める学校のこと、この田舎の生活等、お互いの話の中に、深い肉親の情をしみじみと感じ、心配し労(いた)わり合いながら話をした。
だが、これから先のことはこの召集で予定が立つ訳もなくなり、話がしぼんでいった。平素は肉親の情など余り感じないが、こんな時には、強く、深く、温かく、言い知れぬ愛を感じるものである。
明日はいよいよ見送りを受け姫路に行くんだ。宿屋に泊まり、そして明後日は入営だと心は決まった。念入りに風呂に入った、これからはこんなにゆったりした気持ちで風呂に入ることはないだろうと思いながら。我が家でゆっくり寝るのもいよいよ今晩限りだ。母が暖めてくれた部屋の優しさに囲まれ静かに眠りに就いた。
◆氏神様に参拝
明ければ二月十四日、出発の日だ。立春を過ぎたとはいえ凍てつくような朝だ。氏神様への参道の土に大きな霜柱が立っていた。この冷たさと、霜柱を踏むザクザクという音に厳粛(げんしゅく)さを感じ、神社の杉の葉先が白く凍っているのを見ると、心が清められる気がした。
神前では、私の祈願に氏子(うじこ)の方が来て、祭壇の準備を急いでおられた。各家から一名ずつの参加で約六十人が集まり、神事が行なわれた。神主の冴えた柏手(かしわで)の音が境内に響き、うやうやしく祝詞(のりと)が奏上(そうじょう)されると、私の気持ちは氷のように一点に凝結(ぎょうけつ)した。
私は神様に忠誠を誓い、氏神様が私を加護して下さることを信じ、留守の一家が無事に日を過ごすことができますように、とお祈りをした。
儀式が終わり、冷たいお神酒(みき)を頂くと、心身共にすがすがしく、勇気が沸き出てくる思いがした。拝殿を外に出て、皆さんに挨拶をした。
「本日はこの如月(きさらぎ)の早朝より、皆様には御多用のところを、わざわざ私のために御祈願して下さり、かくも盛大に送って頂き、衷心(ちゅうしん)より感謝致しています。平素は故郷を離れ、お世話になりながら大変勝手ばかりしております。この度令状を頂きましたが、入隊の上は一意専心軍務に精励し、皆様の御期待に沿うと共に、祖国の為に尽くす覚悟です。皆様方におかれましても、何とぞ御健康に留意されますようお祈り申し上げます。甚だ簡単ですが、入隊に当たりお礼の御挨拶と致します」と、凛々(りり)しく言った。
親戚として参加していた従妹(いとこ)の松嶋智恵子さんが「この挨拶が適切で堂々として良かった、身内として誇らしく思った」と後日、妹の静に話していたとか。智恵子さんも私の入営を自分のことのように思い祈ってくれたのである。
「祝小田敦巳君入営」の幟(のぼり)が大きく目にしみ、私の肩には日の丸の寄せ書きがかかっていた。長い行列が村境の峠まで続き 「万歳」 「万歳」 「万歳」と歓呼の声が山にこだました。
「有難うございました」 「有難うございました」と大きくこたえ、何回も何回もお辞儀をし、そこで皆さんに別れを告げた。
父、母、妹、伯父、伯母、部落の区長達の数人で、峠の坂道を下って行った。可真村(かまむら)弥上(やがみ)の部落よ、郷里の山河よ、さようなら。しばらく皆さんともお別れだ。
朝の太陽が顔を出してきた。私達は山を下って万富(まんとみ)駅に着いた。駅には、遠い親戚の叔父も来ており、内田村長も約束のとおり来ておられ、村長と、父と、私の三人は汽車に乗った。
見送りの母と、妹と、親戚の人、部落の代表者がホームまで出て送ってくれた。私は「元気で行って来ます」と大きな声で応えた。寄書きの旗をしっかりと握りしめ、いつまでもデッキに立っていた。私の運命は決まっている。この列車の如く与えられた方向にレールの上を突っ走っていくのだ。しかし、これからどのような苦労があるのか、どのような試練が待ち受けているのか。
その夜は姫路の宿屋に三人で泊まった。寝心地の良い布団ではなかったが、枕元で、お守りと、千人の女性が結んでくれた千人針と、日の丸の寄せ書きが、私の眠りを静かに見守ってくれていた。

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