二 軍隊教育
◇入営
◆入隊当日
昭和十八年二月十五日午前九時、輜重兵(しちょうへい)第五十四聯隊(れんたい)前の城北練兵場には、大勢の人が集まっていた。応召者(おうしょうしゃ)と付き添いの者である。空は灰色で太陽の顔は見えず、練兵場の風は冷たい。やがて、衛門(えいもん)から少尉(しょうい)を中心に見習士官、下士官、上等兵等三十人が一組となって出てきた。
他の組もあったかどうか覚えていない。少尉の指揮の元で役割が決められていたようである。向こうの方ではもっと偉そうな中尉(ちゅうい)が全体を眺めていた。
立て札を持った兵隊が、一定の間隔で並び、一〜三十、三十一〜六十、等と書いた看板を立てた。
やがて胸を張った少尉が大きな声で、「応召者は各自の荷物を持って立て札の所に並べ。付き添いの者は、混雑するから後に下がって待て」と言う。この命令が終わると、応召者は各自の番号の所に移動し始めた。しかし、全体では三百人近く、それに付き添いの人もおり、荷物のこともあり、なかなか進まない。みんな右往左往していた。
「ぐずぐずせずに早くやらんか」と、大きな声がした。古参軍曹(こさんぐんそう)であろうか、大きな声が出るものだとびっくりした。ざわめきが止まり、皆急いで自分の所を探している。番号順なので、前後に来る人を確かめ合っている。「付き添いの人は、列に近づくな」と、また大きな声が飛んできた。
一応指示された番号の前に並び終わった頃「これから番号を調べに行くから、番号と姓名を言え」大きな声だからよく聞こえる。その頃には一組ごとに下士官一名、兵隊一名が配置され、二組ごとに一名の見習士官が付いており、その他には先程の少尉の所に台帳を持った軍曹と上等兵が付いていた。
応召者をどのようにして調べてゆくのだろうかと思っていると、先に立札を持っていた兵隊が札をそこに立てておいて、「真っすぐに並ばんかい」と言って前から後まで見て回った。その後を、各組ごとに名簿を持った下士官が、前から順に見ながらやってくる。入隊者が、「一番 大賀俊雄」 「二番 井上弥治」 「三番 山田哲雄」等と告げると、「よし」 「よし」と言いながら顔を覗(のぞ)き込むようにして名簿にチェックしてゆく。番号のみ言って名前を言わない者、名前だけ言って番号を言わない者があり、その都度叱られていた。
私の所は九十一〜百二十番の所で、私は九十三番であった。調べに来ている下士官は伍長(ごちょう)の肩章(けんしょう)を着けており、四角な顔をし一重まぶたの細い目をした人で、体は中背、がっちりとした体格の方であった。一人一人点検を受けた。「九十三番 小田敦巳」と言った。じろりと顔を見られた。「よし」と、太い声が返ってきた。
先程からいろいろ指示や注意があったが、どの言葉も命令的で威圧的である。それだけにはっきりしている。私は今まで殆ど、こんな言い方を聞いたことがなかった。見送りにきた人は、どんな気持ちでこれを聞いたのだろうか。
私が中学(旧制)五年生の頃、岡山駅で、一人の伍長の指揮下にいた三、四名の兵隊が無断でホームに降り、買物をしていた。それを見付けた伍長が大きな声で「貴様達何をするんだ」と怒鳴り、兵隊は震えあがった。そんな光景に接し、物凄いなあと感じたことがあるが、今日も、さすが軍隊は命令用語が多いと感じた。一巡、検査が終わったが、更にここで「前より番号」と号令がかかった。
「一」 「二」 「三」 「四」 「五」・・・・と番号を唱えた。伍長と上等兵はもう一度名簿と人数の確認をした。各組共、同じように念入りに点呼がされていた。
その頃、黒いピカピカの皮長靴を履き背の高いかっぷくのよい中尉が現れて、手を後に組み全体の様子を監督していた。軍曹が全体をまとめ終え、少尉は確実に掌握(しょうあく)できたのだろう、中尉の所に行き敬礼をして、異常の有無を報告した。後で分かったのだが、この中尉が聯隊本部付きの手島中尉であった。
「これから営内に入るから忘れ物のないようにせよ」と少尉が私達に命じた。少尉は見習士官を集め指示を与えていた。第一中隊教育隊一班及び二班、担当見習士官・・・・から始まり、第二中隊教育隊一班・・・・、第三中隊教育隊一班・・・・、重ねて申し付けと確認をした。私達は順序よく営内に入っていった。
小雪がパラパラ降ってきた。右にも左にも兵舎がある。ガラス窓には全部紙が貼られており、薄汚く寒々としていた。
私は第一中隊教育隊の第四班で、第一中隊は馬部隊であることが分かった。第二中隊と第三中隊が自動車の部隊であることも分かった。馬の部隊とは馬で荷物を運ぶ役で輓馬(ばんば)中隊と称するものであった。
第一中隊は一班から順に身体検査を受けることになった。医務室前に並ばされ、「裸になれ」「待っていろ」と言われ、上半身脱いだ。長い間裸のままで待たされた。廊下はよく風が通り寒かった。
やっと順番がきて室内に入った。姓名を名乗り次々と見てもらうのだ。内臓関係、目、耳、口等それから痔と性病関係、いやな所もあからさまにして見せねばならない。まごまごして叱られる者もいる。寒かったがやっと検査も終わり、服を着ると暖かくなってきた。
数名の者が即日帰郷(ききょう)を命じられた。体の状態が良くない人で、入隊が許されず、その日に家へ帰らされるのだ。せっかく歓呼の声に送られて来たのに、体が悪くては仕方のないことで、命ぜられるままに帰らなくてはならない。どのような気持ちだろうかと察し、気の毒に思われた。でも反面、数多い中にはそれを願う人がいないでもないのである。誰しも心の奥の片隅にはその方を願う気持ちがあるのではなかろうか?
他人のことを心配する暇はなかった。私達は元の広場に帰って昼飯をせよとのこと、寒い露天で、お湯も無く持ってきた弁当を食べた。
午後は被服の受領に行った。服の上下二組、襦袢(じゅばん)・袴下(こした)・帽子・靴・靴下などを受け取った。いずれもかなり古いものばかりで、私のように体の小さい者には服も靴も大きかった。しかし文句は言えない。与えられた服に早速着替えた。今まで、個々別々の服装をしていたが、みんな同じ服装になり、兵隊らしく見えてきた。そして階級章も一つ星即ち二等兵のものをもらい、そして今まで着ていた各自の服は風呂敷(ふろしき)に包んだ。更に毛布を四枚ずつもらった。
助教と助手の先導で、中庭からそれぞれの教育班ごとに分かれ、指定された部屋に入った。真ん中が土のままのたたきの通路で下足のまま、両側が三十センチ程の高さの板張りで、一人一人にマットが敷かれていた。マットは厚い布の中に藁(わら)を入れたもので、厚さ約十センチぐらいで、殆ど間隔を置かずに並べてあった。番号の順番にマットが決められた。
参考に教育隊第四班の教育係の担当助教は大仲伍長で助手は大森上等兵で、大仲伍長は別に下士官室がありそこが定位置で寝起きし、助手の大森上等兵はこの部屋の一番奥の位置のベッドに寝起きしていた。
マットが決まったので、毛布を整理して窓側に置き、私物の風呂敷包みを所定の場所に掛けた。上等の服を上装用(じょうそうよう)と言い、平常の服を下装用(かそうよう)と言うが、それ等や下着類を、助手の指導を受け、几帳面に四角にたたんで整理棚に乗せ、その上に上装用の帽子と下装用の帽子を並べて乗せた。
軍隊では、服のたたみ方まで一様にしなければならない。そして、折り目を着けて奇麗に整理しなくてはならないのだ、とは聞いていたが、まさしくその通りである。整理棚には衣服の外に、手箱が各人に一個ずつ与えられており、本や文房具や小物等を入れ整理することになっていた。大森助手の細かい指導を受け、やり方が分かり、整頓をすませ、これで一応落ち着くことができた。
「十分間休憩する」と助教が言った。小便に行く者もあり、服の整理をやり直す者もあった。私は自分の左右の人を改めてよく見た。左は難波という眼鏡をかけた丸顔の男で、右は新谷という背の高い顎(あご)のやや張った男であった。他の人達もみんな初めての環境で、知らない者同士、多くを語る人もいない。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。そのうち誰かが「今日は寒かったのう」などと、ぼつぼつ話し始めた。
学生時代には、学校の寄宿舎が大分お粗末だと思っていたが、兵舎はそれの比較ではない。一室の人口密度は高く、僅(わず)かにマット一枚分が自分に許されたスペースだ。即ち、幅二・六尺(八十五センチ)奥行は整理棚を含めて六尺(二メートル)が与えられた面積である。畳は無く板張で、何か不潔で、窓はあるが薄暗い。私達の兵舎は平屋建であるが、屋根は低くもちろん天井は無い。隙間があちこちにあり、風通しがよく寒そうであった。
◆内務班での取り決め
あれこれ見ているうちに、大森助手が「これから兵営生活についての取り決め等について話すから、よく聞いておけ。よく聞いていないと困るぞ」と前置きした。「起床は六時、起床ラッパが鳴ったら起き、毛布をきちんと畳み、中庭に出て乾布摩擦(かんぷまさつ)をし、朝の点呼を受ける」
「点呼がすむと、班内当番は班内の掃除と、飯上(めしあ)げをしてくる。飯上げとは炊事場に行って『飯上げに来ました』と言って飯やおかずや汁をもらってきて、全員の食器につける。食事がすむと、この容器を洗って返すのだ。当番以外は、みな厩(うまや)に行って馬の手入れをするのだ、分かったか」大森助手は注意を続ける。
「朝飯後は教育だ。午前中の教育がすめば、馬に飼いばをやり、それからお前達の昼飯だ。午後も教育を受け、それが終わると、厩へ行って寝藁(ねわら)を入れ、馬運動と馬の手入れだ。それから夕食と入浴時間となる。機敏にしないと間に合わないぞ。夜の点呼は九時からで、これは班内だ。不潔にならないようよく身の回りの手入れをし、洗濯などもよくすることだ」
「それから、いつでも自分の所在をはっきりしておくこと。この大森に、どこどこへ行くと言ってからか、戦友に伝えてから行くことだ」
「次に、敬礼を忘れないようにすることだ。ここにはお前達より上のものばかりだから欠礼(けつれい)するな。それから我々第一中隊の中隊長は金井塚久(かないづかひさし)中尉だ。よく覚えておけ。その他気が付いたことはその都度言うこととする」
「さて、一度、官等級氏名(かんとうきゅうしめい)を言ってみよう」「陸軍二等兵 山田一郎」というようにだ。お前言ってみよと、私の前の者が指された。もじもじしてから「山田一郎」と言った。「自分のを言うのだ」と注意され、浜岡初年兵は今度は「陸軍一等兵 浜岡良夫」と言った。とたんに「お前はいつの間に一等兵になったのか。今日入ったばかりの二等兵ではないか。言い直せ」と、大きい声で注意された。こんどは「陸軍上等兵 浜岡良夫」と言ってしまった。あがったのでこんなことになったのだろうが、「馬鹿野郎、何が上等兵だ、分からん奴だ」と怒鳴られた。私はおかしかったが、笑われもせず気の毒でもあった。四回目にやっと「陸軍二等兵 浜岡良夫」と言った。
大森助手の注意事項は続いた。「早速本日の当番はこちらから四人とするから、晩飯から取りに行け。なお、今日は初めてだから、特に次の四人も当番として食器の受領、班内の用品、煙缶(えんかん)(灰皿)、掃除道具等を、物品倉庫より受け取って来い。今日はこれから、服に名前を着けよ。 そして、夕食までに手紙でも書いて出しておけ」と言われた。言われるままとりかかったたが、時間がなく葉書はやっと一枚書いただけだった。
夕食後は一人一人自己紹介をした。「僕はここに来るまでは・・・・」と言いかけると、助教から、軍隊では「僕」「私」「俺」などと言わないのだ。自分のことを「自分」と言うのだ、と教えられた。しばらくは、私は近年東北や東京に住んでいたので常時使っていた「俺」が出そうであったが、次第に「自分」という表現に慣れてきた。「自分」という言い方は軍隊特有のものである。
「自分は、神戸の造船所に勤めていました。赤井明と言います」
「僕は、いや自分は吉岡太郎と言います。鳥取市で旅館をしていました」
「俺は、満州国で官吏を・・・・、いや、自分は、満州国で官吏をしていました」
漁師もいれば散髪屋もおり、お寺の住職がいれば大工もおり、農家の人もおり多種多様な職業である。
輜重兵で輓馬(ばんば)中隊なのに、特に馬に関係のある人は一人もいなくて、適材適所でないことをここでも感じた。しかし、そんなことを言っている時世ではないのである。この輜重兵の本科は体格の良い人ばかりであるが、教育召集や召集兵は、昔の特務兵とか輜重輸卒(しちょうゆそつ)と呼ばれる名残があり、比較的背の高くない人が多かったように思われた。
軍隊も兵科によって主要任務が異なり、輜重兵は歩兵や砲兵のように華々しい兵科ではなく、弾薬や食料や種々の物資を輸送する任務を帯びた兵科で、重要であるが地味で苦労の多い縁の下の力持ち的な兵科であった。
◆点呼
軍隊では、朝夕、人員の状況を調べるための集合があり「点呼(てんこ)」と言っていたが、その日は夜の点呼前になり、助教の大仲伍長が来て、召集兵の皆を整列させた。「気をつけ」「休め」「気をつけ」「休め」と何回も号令をかけ、また「番号」の号令で「一」 「二」 「三」 「四」・・・・と次々に番号を唱えた。何回もやり直しがあり、その後は一人一人を見て回り、「お前は腰が伸びていない、シャンとせい」「お前は右肩が上がっている、少し下げろ」「ああ、よし」などと注意を与えた。
次は、服装だ。「ボタンが外れている」「衿の掛け金が掛かっていない」「靴下の履き方がだらしない」などと注意を受ける。自分も注意されるのではないかとひやひやする。
ここでも、もう一度「官等級氏名(かんとうきゅうしめい)を言え」と命ぜられ、次々に名乗った。「声が小さい」「発音が不明瞭だ」などと指摘された。
その内、週番士官が赤い襷(たすき)を掛けてやって来た。見習士官であった。週番下士官も付いていた。 教育係班長で助教の大仲伍長が「気をつけ」「敬礼」と号令をかけ、「教育隊第四班、総員三十名、現在員三十名、異常なし」と報告した。入隊最初の点呼も無事終わった。
大森助手が寝床の作り方を教えてくれた。四枚の毛布を上手に敷き包んでそこに入って寝るのだが、何回かやってみた。そして折り畳んで片づけることも早くしなければならないので、みんな練習をした。三回、四回と競争させられた。遅い者は「お前はいつも遅い、ナメクジか」と叱られた。
万事、軍隊は機敏で要領の良いこと、荒くても動作を早くすることが肝心である。やがて、ラッパが鳴った。消灯ラッパだ、みんな用をすまし寝床に入った。電燈が消えた。兵営生活の長い初日を振り返っているうちに、いつしか眠りについた。
◇軍隊生活と教育訓練
◆起床
起床ラッパが鳴った瞬間みんな跳ね起きた。六時丁度である。室内は騒然とし、大急ぎで毛布を折り畳んだ。少々荒くても何でもよい。早く服装を整え靴を履き外へ出た。一番後や後から二番目当たりになると、叱られ気合(きあい)を入れられるからだ。当時軍隊では、早くしろ、元気をだせ、怠けるな、たるんでいる、しゃんとしろと言葉で注意されるだけでなく、鉄拳制裁(てっけんせいさい)をも受けることと、自分自身に対して勇気を出すよう奮起することをも、『気合を入れる』と言っていた。何にしても気合を入れ早く行って整列し、上半身裸になって、ワッショイ、ワッショイと掛け声をあげ乾布摩擦をするのだ。二月の朝六時は薄暗く寒いが、擦(こす)っていると背中がだんだん暖かくなった。
終わるとすぐ上着を着て整列、番号を二、三回繰り返し、やっと人員異常なし。そのうち、週番士官がやってくる。各班ごとに異常の有無の報告がされ、軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)の奉読が始まる。
一ッ、軍人ハ忠節ヲ尽クスヲ本分トスベシ
一ッ、軍人ハ礼儀ヲ正シクスベシ
一ッ、軍人ハ武勇ヲ尊ブベシ
一ッ、軍人ハ信義ヲ重ンズベシ
一ッ、軍人は質素ヲ旨トスベシ
やがて東の空が明るくなってくる。こうして軍人精神を叩き込まれるのだから、強くなるのも当たり前であると思った。私生活においてもこれぐらいの気概でやれば、いかなる仕事も成功するであろうと感心したのである。しかし自分の自由意志のみでは実行することは困難であろう。こうして強制され、皆と一緒だからできるのだ。
体も暖まり、気合いも入ったところで、各班共、当番兵を残して全員厩(うまや)へ隊列を組み駆け足で行くのである。軍隊では大抵の場合駆け足であり、歩いていては間に合わない。ぼつぼつ歩けば、ダラダラしていると言って叱られ、気合を入れられるのだ。
◆厩動作(うまやどうさ)
第四班の厩に行くともう古年兵が来て、馬房(ばぼう)という馬が一頭ずつ繋(つな)がれて休む場所から馬を外に引き出している。新兵の我々がウロウロしていると、古年兵が「こら!教育兵、タラタラせずにやらんか」と怒鳴った。厩に入っても何をどうするのか分からない、その上、馬が恐ろしいから手のつけようもない。「寝藁(ねわら)を外へ出さんか」と言われて、古年兵が馬を連れ出した後の馬房にやっと入ることができた。馬糞(ばふん)まみれになった寝藁を手でつかむと、糞の臭いと汚らしさで何ともいえない。「ぐずぐずせんとやらんかい!」と罵声(ばせい)がまたも飛んできた。
馬の糞と寝藁を担架に乗せて二人で担(にな)って運び出し、広場へ広げて天日に当てて乾かすのである。馬糞の臭いこと、生まれて初めて馬糞を手でつかんだのである。
「何をぐずぐずしているのか」「何をしとるか!」と言われ追い回された。こうなればもう臭くも汚くもない。叱られるのが恐くて一生懸命に藁をつかんでは担架に乗せ外に運び出し広げた。
その内また「お前らは藁ばかり運んで、馬を出さんかい、馬を。お前らはタルンでいるぞ」ときた。さあ大変だ。ウロチョロと箒(ほうき)を持ったり藁を運んで、なるべく馬に触れないようにして忙しいふりをしていたが、もう許してくれそうにない。「馬を連れて出すんだ」と古年兵が言ったかと思うと、あっという間もなく私は馬房の中に突き飛ばされた。
馬は頭を奥にして繋(つな)がれ尻を入り口に向けているので、ちょうど馬の後足の横辺りに押し込まれた格好だ。馬に蹴られるのが怖くて馬に近づかないでいるのに、こうなっては死にもの狂いだ。外へ逃げて行くこともできず、仕方なく馬の腹の横を恐る恐る通って頭の所に行った。咬(か)まれるのではないかと近づいたが、幸い馬はジーッとしていた。しかしどうやって繋いだ金具を外すのか分からない。やっとのことで金具を解き馬を外に連れ出すことができた。他の教育兵達もあちらこちらで、「これぐらいのものが怖いのか、ばかやろう」と怒鳴られていた。
全部の馬が外に出された。馬の手入れが始まったが、昨日入隊したばかりの我々には、全く知らないことばかりだった。
何も教えてくれず「そらやれ、そらやれ」だからかなわない。馬に触ったこともない召集兵ばかりでみんなオドオドしている。
「早く馬の手入れをせんかい、こうやるんだ」「よく見ておけ」といつて、古年兵は馬の前足を引き上げ手入れをし、続いて後足の手入れをした。案外たやすくやっているようである。
「わかったか」「そらやれ」と道具を渡された。あちらでも、こちらでも、馬の手入れがされている。
早くしないと叱られる、恐ろしいが、そんなことを言ってはおられない。何が何でもやらねばならないのだ。
古年兵が傍で見ているのだから仕方がない。恐る恐る馬に近づいた、馬が首を振ってもドキリとする。やっと、前足のところに行き中腰になり足首を持った。思い切って両手で持ち上げた。案外たやすく、足を曲げて持ち上げさせてくれ、先の古年兵がやったように、膝の上に足首を左手で持って乗せた。手が離れて滑り落ち、ポカリと蹴られはしないかと一生懸命だ。
「お前の持ち方は反対だ。逆に持ち替えろ」と注意された。持ち替えるとやはりそのほうがしっかり持てる。右手にへ・ら・を持ち馬の蹄(ひづめ)の裏の汚れを落とした。へ・ら・の当て方によってか、馬が時々足を動かすので無我夢中だった。水の入った鉄製の桶を引き寄せ、た・わ・し・で足の裏を洗った。
二月の水は冷たく手が凍えそうだ。手がかじかんでも馬の足だけは離してはいけない。離すと私の足を踏みつけたり、暴れることにもなる。洗った後は蹄油(ていゆ)を塗っておしまいだが、二本の前足をすましてやれやれと思っていた。
「こら、早く後足もせんかい」と怒鳴られた。前足より後足のほうが一層恐ろしい。一発蹴られたら大変だと思ったが仕方がない。そろりと左足を両手でつかみ引き上げようとしたが上がらない。もう一度力を入れて引き上げた。今度は案外楽に上げてくれた。滑り落ちそうになるのを引き上げ引き上げしながら、どうにか四本の足をすました。非常に長い時間のような気がした。
左右を見ると、今述べたようにして足を洗っている者や、馬の背中を刷毛(はけ)で奇麗にしている者もいた。上等兵達はみんな、のんびりやっているが、新入兵達は恐る恐るしている。
次に馬の胴体の手入作業に入った。大きな鉄製の金櫛(かなぐし)と大きな刷毛(はけ)を使って、胴体や足の方まで奇麗にするのだ。慣れた兵隊がやっているのを見るとわけないようだが、やってみるとどうにもうまくいかない。
刷毛には毛や垢(あか)が一杯つき、それをどうして落とすのか分からない。慣れないことばかりである。前に行けば咬まれはしないかと思い、後へ回れば蹴られはしないかと思い、馬が動けばヒヤリとして、恐る恐る触る始末であった。
それがすむと、馬糧(ばりょう)の豆粕(まめかす)、コーリャン、ボレーマツ、奇麗な藁を小さく刻んで水に漬けたものを混ぜて、馬房の奥にある桶に入れてやり、その他に乾草(かんそう)を一抱えずつ入れて置くのである。
「ヒョロ、ヒョロせずに駆け足でやらんか!」またも気合いがかかり、ドンドンやらされ息つく暇もない。次は馬を元の馬房に連れて入れるのだが、どの馬がどこの場所だったか分からない。
そこは古参兵「その馬はそこだ」「この馬はあそこだ」と、また「金甲は五番目だ」「その金錦は八番房だ」と、馬の名前を呼んで指示する。初年兵の我々は懸命に馬の鼻を捕まえて連れて入れるのである。
金具の外し方、掛け方も考えながらの動作であり、どうしても早くはできない。それに馬がいつどんな動き方をするか分からないから心配だ。やっと馬を全部厩へ入れた。手を充分洗う間も無く、うがい水でガラガラとうがいをしていると、早くも「集合、駆け足」の命令、それぞれの内務班(常に兵隊が起居する所)へ帰る。
朝飯までに、歯磨き洗面終了なのだが、丁寧にする暇はない。当番が、アルミの茶碗に飯を、アルミの汁碗に汁をついでくれている。各人に一杯ずつである。箸もアルミだから割れたり折れたりする心配はない。大急ぎで食べなければ間に合わないのである。味わうような食べ方をする暇はない。とにかく早いこと全部を食べて置かないと次まで腹がもたないのである。
食べ終わらないうちに「全員服装を整え、兵舎前の広場、舎前(しゃぜん)に集合」と助手の大きな声。ちょっと一服といってたばこを吸う間はない。
集合すると「右へならえ」 「気を付け」 「番号」これの繰り返しであるが、その前に「集合が遅い」 「最後の三人は、中隊の兵舎を一周走って来い」と、罰として労働を余計に科せられるか、ビンタかである。その時の風向きによると最後の一人には更に「もう一度走って来い」となる。その人はハアハア息をつきながらやっと帰って来たのに、もう一度とは泣けそうになるが仕方がない。続けてもう一度走りに行った。
その間じゅう、こちらはこちらで皆「気をつけ」の不動の姿勢のままで、服装の検査で帽子の被(かぶ)り方が悪い、服に名前がついていないなど、厳しく注意を受ける。二回兵舎を回った者がやっと帰ってくる。ハアー ハアーと息をし大変苦しそうである。「よし」と言ってやっと許してもらうが、私達教育兵は、いつ誰がこんな目に遭わされるかも知れないのである。昨日から始まった軍隊生活は、新兵の誰にとっても厳しいものであった。
◆兵器受領
大仲助教は、「今日はこれから兵器受領だ」 「駆け足」の号令と共に我々を引率して兵器庫の前まで行った。みんな、三八式騎兵銃(さんぱちしききへいじゅう)と帯剣(たいけん)を受け取った。この兵器の番号を兵器係の人が控えている。また助教から兵器について話があった。「銃には菊の御紋(ごもん)がついている。絶対粗末にしてはいけない。銃の手入れい・か・ん・で、その人の精神状態が分かるから、充分手入れをしなければいけないぞ」
そのような話を聞いている最中に、後の方でガチャンという音がした。皆がハッとしてその方を見ると、新井二等兵がどうしたのか銃をひっくりかえし、急いで拾い上げているではないか。「出てこい!」助教の鋭い声がした。新井二等兵の顔色はなかった。「バカヤロウ」と言うが早いか、ポカリ、ポカリと左右の頬を殴られた。「こんな奴がおるからいけないんだ。バカヤロウ!みんなも気をつけろ」と大きな声がした。「兵器を粗末にしたら営倉(えいそう)だぞ、営倉というのは軍隊の刑務所だが、そこに放り込まれるのだ。分かったか」と脅された。
それから細かく、銃、剣の手入れ方法の説明があり、各自、自分の兵器の手入れをした。私は学校で何年も習ってきたので、たやすいことであったが、これまでにやったことのない人にとっては覚えにくいようであった。「一回言ったら覚えておかんか」と怒鳴られている。すべてこのように強制的に詰め込む教育である。ガンガンと叱りつけて覚えさせるのである。体で当たって悟らさせるのである。気合いを入れ、殴ってでもやらせるのである。学校や会社でのやり方とは大分趣が変わっているが、これが軍隊のスパルタ式教育である。
一通り兵器の分解、組み立て、掃除手入れの仕方等を教えられて班内に帰った。班内の所定の場所、銃を立てかける銃架(じゅうか)に銃を立て架け、枕元の棚の下にある鈎(かぎ)に剣を吊した。他人の物と自分の物と間違えないように、また間違えられないように気をつけなければならない。早速自分の銃と剣の番号と、一目見て分かる特徴を覚え、右から何番目に置いたかを確認した。暗闇でも握っただけで自分の銃が分かるようにしなければならないのだと教えられた。
それがすむと、「全員駆け足で外に並べ」の号令で外に出て並んだ。部隊内の建物や設備の位置を知るため駆け足で一周した。一中隊の位置は分かっていたが、二中隊、三中隊の建物、聯隊本部、お菓子やたばこや日用品を売る酒保(しゅほ)、炊事場、物干場、将校集会所等々を教えてくれた。
まだ十二時前かと思っていたらとっくに過ぎており、そのまま厩に向かって駆け足だ。馬に昼の馬糧(ばりょう)をやりに行くのだ。馬は頭を奥にして繋がれているので、奥にある桶に馬糧を入れるには、馬の尻の側から入り胴体の所を潜るようにして入らなければならない。馬は腹が減っているのでガタガタしている。慣れていない我々には容易なことではなく、またしても恐る恐るの作業である。
それがすむと、やっと兵隊達の昼飯となる。班内に帰って昼飯を食った。飯はいくらか臭いが、腹が減っているので全部食べた。食事がすみアルミ製の食器を洗って、たばこを取り出そうとした。とたんに「貴様らは、食った後の机の上を奇麗に掃除しないのか」と大きな声で雷が落ちた。みんなで、こぼれた飯粒を拾い、机の上を拭いたり床の上を掃いたりした。
軍隊では金物で出来た丈夫な灰皿を煙缶(えんかん)というのだが、「たばこは煙缶の所で吸わなくてはならんぞ」と言われており、やっと火をつけて一服した。今朝から初めての一服であり、何とも言えない美味しさであった。ものも言えず良い気分になりかけていたところ、三分もたたないうちに「これから卷脚半(まききゃはん)をつけて舎前に集合」との号令がかかった。遅くなればなる程叱られ、余分に駆け足をさせられることは分かっている。たばこの火をもみ消し、皆、靴を履き、卷脚半を巻き、外に整列した。
◆訓練
午後の訓練は三班と四班と一緒であった。教官は橘(たちばな)見習士官で我々四班担当の助教大仲伍長、助手の大森上等兵。三班にも助教と助手がついていた。
まず徒手(としゅ)の基礎訓練からである。不動の姿勢「気をつけ」「休め」の繰り返し、敬礼の仕方、歩行中の敬礼、停止敬礼等何回も何回も繰り返しやらされた。午後とはいえ寒風の吹く冷たい日であった。
訓練中に三班の谷田二等兵は教官の目を盗んで、冷たく凍えた手をポヶットに入れた。すぐに見つかり、教官が「コラ出てこい」と一喝したかと思うまもなくビンタ一つ。激しい一撃で彼はよろめき倒れそうになった。教官は皮の手袋をはいていて、いいなあと私は思ったが、仕方がない。今の身分は違い過ぎる。手がいくら冷たくても我慢我慢。その後は駆け足となり、庭を何回も何回もみんなで走った。走ることの苦しさはだんだん増したが、次第に寒さは感じなくなった。
午後の訓練が終わると、また厩行きだ。今度は馬を先ず出して繋ぎ、日中乾かした寝藁を馬房に運び込み、馬糧を桶に入れてやり、それから馬を連れ込むのだ。これらの動作もみな駆け足だ。歩いていると「こら!」と怒鳴られ叱られる。夕方の馬の手入れは簡単で、時間はあまりかからないが、私は馬の出し入れは怖い。やっと厩作業が終わったと思うと「集まれ」の号令、しばらくの間「軍歌演習」をした。先輩の兵隊達に先導され、我々教育兵も小さい声で軍歌を歌った。「知っている歌は大きな声で歌え」と活がはいる。その頃西の空には夕日が沈みかけており、一瞬故郷を思った。こうしていろいろの場面で気合いが入れられ、だんだん兵隊らしくなるのである。
やっと夕食の時間を迎えた。肉と野菜のこってりとした汁と漬物と、ご飯の山盛りだが、腹が空いていたのですぐに食べ終える。その後、めいめい食器を洗いに行くのだが、多くの兵が一度になるので混雑し時間がかかり、そのうえ肉の油でぬるぬるしたお碗は洗いにくかった。
◆入浴その他日課
それから、入浴しなければいかんぞと言われているので大急ぎで行った。風呂場には一杯の人が入っている。脱いだ服を盗まれることがあると注意を受けていた。そんなことにならないように、隅の方に脱いでかため、その上に眼鏡を置いて間違われないようにした。盗まれたらそれまでだ。風呂に入らない訳にはいかない。風呂の中では裸だから、二等兵か一等兵かの位を示す肩章を着けていない。うっかりすれば初年兵の我々は、上級の古い兵隊にいつ叱られるかも知れない。早く洗って出た方が安全だ。それに服を取られるのを防ぐためにも、早い方が良い。「烏(からす)の行水(ぎょうずい)」で、石鹸をゆっくり使う間もなくサッサと出る。風呂から出ても着替え等はなく、脱いだこの服のみである。同じ物を着て同じ靴下を履き、急いで班へ帰るのである。
靴の手入れをしたり寝床を用意していると、助教が「皆床の前に並べ、早く並べ」と言った。三人がまだ班に帰っていないことを確認の上、「整理棚の整理が悪いから直せ」と指摘され、みな懸命に直した。今着ている服が下装用の平生着(へいぜいぎ)で、その他に少し良い上装用の服があり、着替え用の下着も同じ棚の上に並べているのだが、それらの整理が悪いとのことである。服は四角になるよう板で叩いて、きっちり整理しなければならないのだ。
「お前のはなんだ、もっときちんとせい」「お前のは幅が広い。この整理棚に丁度になるようにするんだ」と一つ一つ注意され、やっと終った頃、三人が戻ってきた。
「お前達はどこへ行っていた」助手の厳しい問いに黙っていた。「返事をせい」と言われ「酒保(しゅほ)へ」と小さい声で答えた。「馬鹿者、はや酒保へ行きやあがって、靴の手入れも寝床の用意もできていないじゃあないか。それにお前の整理棚は何じゃあ!」といった調子。三人はあっけにとられていたが、急いで整理にとりかかった。
続いて「中隊長の名前を言える者は手を挙げよ」と問われた。私はすぐに手を挙げた。続いて五人ばかりが手を挙げた。他には手を挙げる者はいなかった。「お前達はもう忘れたのか、昨日教えたばかりなのに」「お前教えてやれ」と私が指名された。「金井塚久(かないづかひさし)中隊長です」と答えた。
「そうだ、皆よく覚えておけ」と助手は言った。このあたりから、私は助手に認めかけられてきたようだ。
---この時初めて「金井塚久中隊長」の名前を口にした私だったが、二年半後にこの方の最期を見届ける屍衛兵(しかばねえいへい)になり、しかもビルマの土地に埋葬する役目を勤めることになろうとは思いもよらないことだった。
点呼前になり助教の大仲伍長が入って来て「気をつけ」の号令に皆不動の姿勢になる。それから一巡回って顔と姿勢と服装を見たあと「今週の週番士官の実行方針は何か」と尋ねられた。みんなポカンとしていた。「まだ知らないのか、教えてやる。今週は森野見習士官が週番だ。一つ規律の厳正、二つ起床動作の敏速、三つ敬礼の正確である。よく覚えておけ」やがて点呼のラッパが鳴った。週番士官が赤い襷(たすき)をかけて入って来た。昨日と同じ人であった。大仲伍長が「第四教育班、総員三十名事故なし。現在員三十名」と報告をした。付き添いの週番下士官が記録をしているようである。森野見習士官は全員を目で追うようにしたが、「よし」と言って立ち去った。
その後も大森助手からいろいろの注意があり、消灯ラッパが鳴ると同時に皆ベッドに潜った。今日もこれで一日終わった。寝ている間は誰にも邪魔されない。
◆厩(うまや)当番
ある日、厩当番に就いた。夜中から朝までの勤務である。私の四班には三十頭の馬がいるがこれらの番を一人でするのだ。立ったままで眠る馬が普通なのだが、中には座ったり、ごろんと横になって寝る馬もあり、中には鼾(いびき)をかいている馬もいる。馬の糞を取って回るのも仕事の内だ。真夜中ともなれば眠くなるが絶対寝てはいけない。いつ週番士官が来るか分からない。立ったままで何かやっていれば、眠ることはない。
ただ、腹が減るのにはかなわない。平常でも腹が減るのに、夜まで仕事をしていると尚更(なおさら)のことだ。だが食べる物は無い。同期の兵隊から「厩には、馬にやる豆粕(まめかす)があるから腹が減ったら食べたらよい、食えるぞ」と聞いていたのを思い出し、粒状の豆粕を一握り取り、少しずつ口に入れ噛み砕いてみると、まんざらでもない。食える。しばらくして、また口に入れたが、もう面倒だと思い大量に口に入れ頬ばっていると、向こうからコツコツと靴の音がしてきた。いけない、週番士官が来るぞ、豆粕を口に入れている場合ではない。
素早く手に吐き出し馬房の中に放り込んだ。馬糞(ばふん)取りの道具を持って、仕事をしている格好をした。週番士官が来たので敬礼をして「第四班厩異常なし」と大きな声で報告した。見習士官はしばらく私の顔を見ている。口のまわりに豆粕が着いているのを見つけたのかと一瞬思ったが、そうではなく「居眠りをせんようにやれよ」と言って次へ行った。やれやれこれで助かったと思った。
深夜午前三時頃、パカパカと馬の歩く音がする。おかしい、全部繋いでおり、離れるはずがないのにと思いながら行って見ると一頭が離れて歩いている。その馬は笹倉少尉の真黒い乗馬で、尻に赤い印がつけてある。蹴る癖があるという目印である。更に頭にも赤い印がついているので、咬(か)む癖もあるという質(たち)の悪い馬である。選(よ)りも選(よ)って、そんな一番怖い馬がどうして離れているんだろう。「どうしよう?」よく見ると、や・け・い・と・う・ろ・く・という頭を繋いだ綱を、全部外しており、捕まえる所が全然なく困ってしまった。しばらく馬の様子を見ていたが、厩の中を歩くだけで外に出る気配はない。でも、近寄れば咬まれるか蹴られるかしそうだ。朝まで放っておくと叱られるに決まっているし、泣くに泣けない・・・・。隣の二班の当番兵が私と一緒に入隊した兵隊だったので、二人がかりならなんとかなるだろうと思い、助けを頼んだところ彼は快く承知してくれた。
だがどうするか?お互いにまだ馬に馴れていないが、思案のすえ、私が馬糧袋に馬糧を入れ、馬が頭をそれに突っ込んでいる間に、彼が上手に、や・け・い・と・う・ろ・く・をはめてくれ、案外難無く繋ぐことができて胸を撫で下ろした。彼は同年兵の明石(あかし)二等兵であったと思うが、本当に有難く感謝した。
---その後彼は、同じ野戦部隊の輜重聯隊で第二中隊の自動車中隊に転属になり、戦争中は別々の行動となったが、同じ方面の戦場で大いに活躍をした。彼の戦闘振りは第二中隊の他の戦友から後日聞いたが、勇敢に敵陣地の兵を撃ち倒したり、終始元気で聯隊長(れんたいちょう)当番をも立派に勤めたと聞いている。抑留(よくりゅう)生活中には私と同じ岡山県の中隊になり、何かにつけ彼に大変親切にしてもらった。軍隊生活の当初から最後の復員までを共にした仲で、私の軍歴は彼と共にあったと言って過言ではない。彼はさわやかな性格、素晴らしい人柄で、その上力持ちで労を惜しまない人であった。
---現在も旧交を温めあっているが、何時までも元気でいてほしい。入隊当初二十一歳の時の彼の姿を今も思いおこす。お互いに年老いたが、いたわりあいながら過ごしたい。
召集を受け入隊した新兵に平穏な日はなく、厩でも内務班でも練兵場でもどこにいても、毎日大小様々(さまざま)な雷が落ち、厳しい教育と鍛錬が繰り返され気合いを入れられ通しであった。だからこそ早く兵隊らしい一人前の兵隊に育つのかも知れない。
◆飯上げ当番
前にも述べたとおり、軍隊生活、特に新兵は腹が減るものだ。いくら飯を食っても不思議なぐらい腹が減って困る。ある日、当番で炊事場へ飯上げに行った。「第一中隊第四班教育班飯上げに来ました」と炊事場の入り口で言うと、炊事当番の古年兵が飯の入った食缶(しょっかん)と汁の入った食缶を出してくれるのである。しかし、もらいに来た教育兵の当番が並んでいないとか、言い方がまずいとかいろいろ文句をつけられ後回しにされる。
時には、スコップのような大きなしゃもじを持ち上げ、叩くようにして脅かされたりするので、飯上げに行くのも新兵にとってはたやすいことではない。ウロウロしていると、炊事班常当番(すいじはんじょうとうばん)の上等兵にビンタをもらったりする。ビンタは、もらっても持って帰ってみんなに分けるわけにはいかないし、自分が痛いだけである。
当番は内務班に持ち帰った飯と汁と副食物を、各人のアルミ製の茶碗とお碗に人数分に分けてついでおくのだ。古年兵には新兵より多いめに盛り付けをして並べて置くのだ。早く分配を終えていないと、皆が訓練や厩作業を終え帰ってくる。遅れると食後の次の作業に差し支えるので、それは当番の責任となり大変だ。
食事がすむと自分の食器は自分で洗うが、大きい食缶は当番が奇麗に洗って炊事場へ返さなければならない。ここでも、洗い方が悪く一粒でも飯粒(めしつぶ)が残っていれば受け取ってくれない。洗い直しである。中には洗い方が悪いと言って缶を頭から被(かぶ)せられている新兵もいた。
私は入隊後間もない頃、当番に当たり食缶を洗いながら、底に残っていた僅かの飯粒を手で取り、少しでも腹の足しになればと思い、とっさに口の中へ入れた。その瞬間炊事の上等兵が来て「貴様!」と言ったかと思う間もなく、飯粒の着いた大きなし・ゃ・も・じ・で私の頬を殴った。ピシャリと大きな音がして頬の皮が裂けたような気がした。しかも顔に飯粒が一杯付いた。自分ながらその姿は滑稽(こっけい)であり、哀れであった。
◆多忙と要領
こうして一日二日と過ぎてゆくが、毎日鞭で尻を叩かれ追い回されて寸刻(すんこく)の暇もない。時間がなく忙しく教育に追われ、厩動作と内務にかき立てられる日の連続であった。その内、みんな朝の起床も要領がよくなり、起床ラッパの鳴る前に目を覚まし、毛布の中で靴下を履き服も上着まで着てしまう。ひどい兵隊は靴まではいて、何食わぬ顔で狸寝(たぬきね)入りしていて、ラッパが鳴ると飛び起きて毛布を畳(たた)んで外に一番早く飛び出す者もできた。寒い時期であり、靴下を履いて寝る者も多く私も靴下を履いて寝ることにした。それも何足か重ね履きした。靴下を履く時間だけ早くできるので助かる。とにかく人より早く行動することが肝心なことであった。
余談になるが軍隊では服や靴に体を合わせることになっている。私は小柄なので靴が大きい。靴の中で足が踊っている。これでは走れないので靴下を何足も重ねて履くことにした。それでやっと調節がついていた。
要領の悪い兵隊がいて、帽子の行方が分からなくなり、帽子を被(かぶ)らず整列した者がいた。軍隊は必ず外に出るときは帽子を被らなければならないことになっているのにこの有様だ。叱られること激しい。助手より「犬になって探してこい」と言われて犬のように四・っ・ん・這・い・になり、ワンワンと言いながら冷たい地面を這(は)わされた。おかしくても笑いもできず、口をつむいで我慢をする始末。いつ自分がそのような羽目(はめ)になるか分からないからである。
毎日食事前三度三度馬に接触し世話をしなければならないので、次第に慣れてはくるがやはり恐ろしい。おとなしい馬ならよいが、全部はそうはいかない。
蹴る馬の他に咬(か)みつく馬、前足を持ち挙げて被(か)ぶさるように抱きつく馬等いろいろであるが、中には癖を多く持つている馬もおり危険で、いつ何をされるか分からないので油断できない。そんな気持ちでいる上に取り扱い方が下手だから「これは初年兵だ」と馬の方が先に感づき、馬に馬鹿にされることもあった。
ある時、思いもかけず、馬房内(ばぼうない)の馬に胸をガブリと咬まれた。あの笹倉少尉の乗馬で癖の悪い馬にだ。すぐに後に下がったが、馬の顔を見ると耳を後に立てて、気の立った顔をしている。なぜこの馬は私に咬みついたのだろうか?私が何か悪いことをしただろうか? 考えても分からない。
しかし、馬には気に入らないことがその前にあったのだろう。とにかく畜生だ、いつ何をするか分からない、用心用心。後から服を脱いでみると、胸の所に馬の歯型がくっきりと着いていた。
寝藁(ねわら)に沢山の糞がついていて汚く臭い。それを素手でつかむのだからいや気がする。そんな様子を見ていた上等兵が「馬糞(ばふん)が汚いようでは駄目だ。一度馬糞をお茶漬けにして食べてみい!そうしたら治るわい」これには、みんなダーとなった。
また、「お前達は馬の手入れが悪い。体がピカピカ光る程磨かなければいかんのだ」 「この蹄(ひづめ)の手入れはなんだ、まだ汚れているではないか。舌でね・ぶ・り・と・れ・」と言われ頭をこづかれた。えらいことだなあーとつくづく感じていると、「お前達は葉書一枚の召集で来るが、馬はそうはいかないんだ。馬の方が偉いことを知っておけ」と言われた。
まさに主客転倒だが、事実そうなのである。昔徳川に犬公房(いぬくぼう)将軍がおり、犬を人間以上に大切にしたと伝えられているが、それと同じように馬の方が兵隊より遥かに大切にされているのである。
兵隊は一度だって馬より先に飯を食ったことはないし、馬の手入れをしない日はないが、兵隊は忙しくて風呂に入れないことはしよっちゅうであり、馬の汚れ物に触った手を洗う間もなく飯を食わねばならぬことは、しばしばであった。
「おお、馬よ神様よ」そして自分の手は二月の寒風にさらされ入隊後半月も経過しない間に、皹(ひび)で荒れ、霜焼けになり、ガサガサな汚い手になっていた。
◆鍛錬
厳しい鍛錬が毎日続く。銃を持つ手に冷たい練兵場の風が吹きつける。戦闘訓練では、凍りついた地面の上を、這(は)って進む匍匐前進(ほふくぜんしん)をやらされた。やり方が悪いといって叱られたり蹴飛ばされる。大部分の人は初めてのことで形にならず、やり直しを何回かした後に、やっと「それでよし」と言われ皆ほっとした。ところがその後すぐに「では、その要領で向こうの松の木の所まで行って来い」との号令。見れば松の木までは百メートルもある。「そら行け」で一斉に這いだした。
体で覚えさせる猛烈な訓練が毎日続いた。馬鹿か、阿呆かと言って叱られ、鉄拳制裁を受けながらも歯をくいしばり頑張るより他に仕方がないのだ。
毎日毎回の食事は、次の作業や訓練の準備のために、それに加え、叱られるためにも時間を費やされるので、ゆっくり食べられないのである。この頃は必要に迫られ、食べるのがだんだん早くなってきたが、どれ程早く食べ終え次の仕事にかかっても、遅いといって絞られるのが軍隊である。
この日は軍装を整え銃や剣を持って集合したのだが、「遅い」といって、助教の大仲伍長が怒り、次々にビンタがとんだ。それも握りこぶしで力一杯だから、矢野二等兵はひっくりがえり二メートルも飛ばされた。殴られる前には、眼鏡を外し、殴られても怪我などしないように歯を食いしばり、あらかじめ準備することになっている。私の左の頬にも「ガッン」と一発炸裂(さくれつ)した。体がグラリとよろけ目から火が出た。この日は寒い日であったが、左の頬はいつまでもしびれて熱く火照(ほて)り、右の頬は寒く冷たく大変なアンバランスだった。
今日はガスに対する訓練だ。ガスマスクをかぶる。大森助手が見て回る。大仲助教も、教官の橘見習士も丹念に見て回る。着装の仕方が悪いと空気が入る。「ガスを吸うぞ」 「絞め紐(しめひも)が緩(ゆる)い」 「斜めに被っているぞ」などと指摘され直された。ああでもないこうでもない、といろいろやるうちに大分時間も経過した。やっと全員がしっかりと着装したのを見届けた上で、「駆け足」の号令で走りだした。
銃を肩にしているうえに、マスクを着けての駆け足では空気を充分吸うことができず大変な苦しさだが、止まってはいけない。ドンドンと走る。ここで遅れるとどんな制裁を受けるか?人一倍ひどい目に遭うに決まっている。とにかく、遅れないようについて走るより仕方がない。
目が回りそうで、自然に足が前に出ない。無茶だが走るより仕方がない。ここで、インチキをしてマスクをゆるめるとか、顔とマスクの間に隙間をこしらえれば楽になるのだろうが、銃を持っているのでそう器用に指先が働かない。見つかればこれまた大変叱られることとなる。
いくらきつくても走るより方法がない。教える側も同じくマスクをしているのだが、苦しくないのだろうか?そこはそこ、日頃の駆け足訓練で鍛えているので、さほどでもないのだろう。それに教える側のプライドもあろう。そんなことを考えながら走っていると「コラ、たるむな」と声がかかった。もう寒くはない。汗が顔を流れているのが分かる。
当時使われた言葉で、自分の事を顧みず国家のために尽くすことを「滅私奉公(めっしほうこう)」と言い、それを誓って故郷を送られて出てきたのであるが、まさに死にそうな訓練が続く。私は幹候(かんこう)を目指しており、学課にはある程度自信があるが、このような訓練にも負けないよう耐えてゆかねばならないと心に誓った。
◆輜重兵(しちょうへい)としての訓練
このように、一般の歩兵の訓練の他に輜重隊は輸送業務、特に我が一中隊は輓馬(ばんば)中隊で馬で荷物を運ぶ部隊だから、その訓練が必要なのである。今日は輜重車に弾薬箱を積み上げ、それを太い綱で括(くく)り絞(し)めるやり方の訓練である。「箱の乗せ方はこうするのだ。綱の絞め方はこうするのだ」 「綱がこう緩くては戦争に行って荷物が落ちてしまうぞ」 「やり直しだ、輜重結(しちょうむすび)はこうするのだ、よく覚えておけ」
私がやり直しをしている間に他の人はどんどん次に進んでいる。やっとのことで荷物を輜重車にしっかりと積載固定することができた。
今度は、馬を馬房から出し鞍(くら)を背中に置き固定し、輜重車の所まで連れてくる。車の腕木(うでぎ)の間に馬を尻から押し入れるのだが、なかなかうまく行かない。初年兵にとっては苦労するところだが、やっと馬の鞍の金具と車の腕木の接続を終える。これから出発だ。馬に、荷物を載せた車を引かすことになるが、ここで馬を慌てさせてはいけない。暴れられては大変なことになるし、大怪我のもとにもなる。細心の注意が必要である。広い練兵場に十数台の車が並び歩きはじめた。馬の手綱を握った手に力が入る。この間入隊したばかりなのに、よくぞここまでになったものだと自分ながらに感心する。
懸命になり過ぎて手綱を握っているので、馬も多少窮屈(きゅうくつ)なのだろう。右に左に車を引いて訓練していると、山舛(やまます)二等兵の持った馬が突然走りだした。車を引いたままでガラガラ、ガラガラと暴れたように走るので皆びっくりした。山舛新兵は一生懸命手綱を持っているが、手綱さばきが悪いのか、自分も走って行くだけで、馬を止めることができない。馬はますます早く駈けていく。
凸凹の多い練兵場でつまづいて彼は転んだ。馬は車を引いたままそこを走り抜けてゆく。一瞬轢(ひ)かれたと思った。
馬は遥か向こうまで行って止まったので、皆で捕まえた。普段おとなしい馬でも突然どんなことになるか分からない。
山舛二等兵は幸か不幸か足先を轢(ひ)かれただけですんだ。私達は彼をかばいながら医務室へ連れて行った。「練兵休(れんぺいきゅう)」といって怪我や病気で休むことを公然と認めてくれる制度があり、一週間の練兵休となった。山舛二等兵にとって、とんだ災難だった。
次には道なき道や、やっと通れる細い橋を渡る訓練をした。
更に、駄馬訓練といって、車が行けない山を馬の背中に荷物を振・り・分・け・に載せて行く訓練だ。
『ひよどり越えの坂落し』のような急斜面の岩山を登り下りする訓練をするのである。馬も滑るし、人間も滑る。馬の蹄(ひずめ)で足を踏まれ、馬も人も転がるようにして必死に訓練を受けるのだ。
軍隊に入り、強制だからできるのだが、つい二ヵ月前までは馬のことを全く知らない者が、ここまでできるようになる軍隊教育の早さと厳しさに驚いた。しかし、危険を伴うもので、この訓練中に馬の背中に載せた弾薬の箱で頭を打ち、意識不明になった兵隊もいた。
◆余分な訓練
ある日、午前の演習で絞られ、厩作業を終え班内に帰ってみると、ごったがえしになっていた。
整理箱も整頓して置いた衣服類も引き落とされ、皆ばらばらで誰のがどこに散らばっているのか分からない。ここでは、広峰山(ひろみねさん)という姫路の北の山から吹きおろす風を「広峰お・ろ・し・」というのだが、その風が来て吹き飛ばしたのだと言っている。整理が悪い時の懲(こ)らしめに、教育兵は全体責任を負えという意味の制裁だ。理不尽(りふじん)な思いをしながら片づけるのだが、服を重箱のように四角に畳んで、几帳面(きちょうめん)に直すには大分の時間がかかることになる。
誰がするのか分からないが、こうして教育兵はいじめぬかれるのだ。こんなことをしていると、食事をする時間が更に少なくなるし、午後の演習へ出る時間が遅くなるのだ。やっと飯をかき込んでいると、助教から「午後は輓馬教練だから馬がすぐ出せるようにしておけ」と言われ、昼飯もそこそこに厩へ走らなければならない。
馬を出す用意をしていると、はや教官は自分の馬に乗って来た。
「何をぐずぐずしているのか」 「そこに並べ」との命令だ。横一列に並ぶと、馬の上から指揮刀(しきとう)を持って、皆んなの頭の天辺(てっぺん)を容赦なく次々に叩いた。私も叩かれたが頭蓋骨(ずがいこつ)が割れる程こたえ本当に痛かった。もう少しで脳震盪(のうしんとう)を起こすのではないかと思った。あの時の痛さは今も記憶に残っている。
◆教官の手伝い
一ヵ月二ヵ月過ぎていくうちに、体操は先ず教官が指導し、助教がやって見せる。次に「小田、お前号令をかけて体操をやれ」と言う。また、私を名差して「週番士官の実施目標を言ってみよ」となる。いつ、何を聞かれても、私なら確実に答える。教育を受けた内容をすべて覚えているので、教官、助教、助手から認められ、同期の教育兵からも信頼されるようになった。
中学(旧制)で五年間、更に専門学校(旧制)で三年間教練を正課授業で受けているが、教練という学科は軍隊ですることと同じことを習うので、誰よりもよくできるのは当たり前のことである。私も召集で来ているが、現役と同じ年令で来ており、若い最中なので記憶力はよいし、私より年が五歳も十歳も大きく地方で各種の職業を持ち召集で来た人より学科で一歩先んじているのは当然のことだった。
むしろ、基本の教科が分からない同期の人達によく教えてあげたものだ。そんなことで、模範的存在になり、有難いことだった。また、同期の召集兵だけの時には、常に私が引率者となり号令をかけており、皆も安心して付いて来ていた。
しかし、馬の扱い方や車を引く実務についてはみんなと同じで、自信はなく半分恐る恐るやっており、ただ、事故を起こさないように、特に目立った失敗をしないように心がけ、細心の注意をはらってきた。その結果、馬の扱い方も順調に身につき人並にやれるようになった。馬を扱う実務については、お互いに協力し合ってやることが多いので、皆に助けてもらったことの方が多かったかも知れない。しかし自分自身もよく頑張ってきたと思う。
どこの社会でも同じであるが、軍隊では特に要領が悪いと叱られたり殴られたりすることが多くなる。例えば、指示に従わない、生意気、感じが良くない、さぼっている、不真面目、動作が鈍い、覚えが悪い、事故を起こす等悪い印象を与えてしまうと、メッコを入れられて、叱られ殴られる回数が多くなる。
それは訓練時間中はもちろん、厩にいても、内務班内においても所かまわず、教官、助教、助手を始め、下士官や班内の古年兵からも、その他兵営内の先輩の兵隊からもやられるのだ。軍隊では朝昼晩の区切りはない、眠っている間以外は、二十四時間連続であり、それも激しい制裁だからたまらない。それで鍛えられるのだと言えばそれまでだが。
私は格別要領がよい方ではなく敏捷(びんしょう)な方でもない。でも、入隊前に郷里の河本梅雄さんに聞いたことを大いに参考にして頑張った。それに本来真面目だし、内務班での行動も的確だからおかげで評判も悪くなかった。たまに些細なヘマやミスがあっても機転をきかし要領良くカムフラージュし、上手に息を抜くことも結構やっていた。そうでなけばやっていけないから。
とにかく、体を使い、心も使い、一生懸命にやった。そんなことで、数ヵ月の教育期間をすませ、お陰で検閲(けんえつ)を優秀な成績で終えることができた。軍隊で教育を受ける期間は決して樂ではない。苦しい苦しいの連続であるけれども、皆に認められながら過ごせたことは有難いことであった。今、顧みると、それは私の青春を飾る一コマであったかも知れない。
---本誌は自分史的なものであるので、しばらく横道にそれるが、小田敦巳本人が自分を観察し、若い頃どんな人間であったか、長所短所を含め人物評をしておくのも面白いのではなかろうかと思い、自慢らしいことも並べてお恥ずかしいことだが、書かせて頂くこととする。
先ず、性格や能力等については、頭の働きも体の動作も敏捷でなく、やや遅い方だが正確な方。コウバイはキツクない方で、長男にありがちなおっとり型である。おとなしい性質で、自己の考えを強く表面に出したり口がよく回る方でなく、やや損をする傾向がある。自己の宣伝が下手で目立たない存在である。協調性に富み、当たりさわりが少なく、多くの人に可愛がられ、敵が少ない。難問をドンドン解決するような力強さに欠けている。責任感は強く真面目人間の方で、縁の下を支える型の人間でもある。
社会常識マナーは、まあ良い部類だろう。親分肌で皆を引きつけるというのではなく、召集兵の中で私が一番軍事訓練等について知っており、教官や助教に認められ、みんなからも頼りにされ、同期の皆をリードするようになったまでのことである。
軍隊では心身鍛錬と気分転換のため、相撲をよくとらされていたが大抵(たいてい)勝っていた。ある時勝ち残りにしたら、五人に連続で勝ったのは痛快だった。特に相撲の練習をしたわけではないが、案外腕の力が強く柔道の業を習っていたので、体格の大きい人をも負かせることができた。
学生時代から、マラソンや千五百メートルを走ることは苦手で、中以下であった。軍隊に入ってから、軍装を整え長距離を走ることは苦しく苦手であった。小柄だからコンパスが短く、やや太り目で、ガブガブの靴を履いて走るのだから、尻から三分の一ぐらいの順位で、目立った遅れ者にならないよう頑張った。でも軍隊の訓練は厳しいので次第に駆け足にも馴れてきて、月日がたつと苦しさは緩和し、大分よく走れるようになってきた。
◆橘(たちばな)教官のこと
ある夜、みんな床についた消灯後、教官である橘見習士官が「小田、やってもらいたい用事があるから、将校室に来い」と、第四班の入り口で大きな声で私を呼んだ。今までに何回か書き物や図表等を作成する作業を手伝ったことはあったが、何だろうかと思いながら将校室に入った。当然のことながら電灯は明るくついており他の見習士官(みならいしかん)は本を読んでいた。
「小田、これを食え」と言って出されたものは、箱に一杯入った鮪(まぐろ)寿司ではないか。赤く輝く魚のトロがこんもりと波打っていた。私は思わず胸が迫った。なぜ、私をこんなに可愛がって下さるのだろうかと思いながら「ハイ」と、やっと返事ができただけである。
「遠慮せずに食え」と言われ「有難うございます」と返事はしたものの、教官のあまりの温かさに胸が震えるのである。
「さあ、食え。あまりおそくなってもいかん。早く食って帰れ、今日町へ出てきた時に買ったのだ」と勧められた。
「では、遠慮なしに頂戴いたします」一つ摘(つま)んで口に入れた。久しぶりに食うトロの味はまた格別で何とも言えない美味しさだ。鮪(まぐろ)寿司は大好物で、米沢にいた時も東京にいた時もよく食べに行ったものだ。
入隊後は、初年兵の厳しい訓練を受けているので、毎日腹が減ってペコペコになっているのだから、これ程うまいものがまたとあろうか。ペロリと喉をこし、また一つ摘んでムシャムシャ食べた。とろけるような鮪の舌触り、四っばかり食べたがまだいくらでも入りそうだ。でも、この辺で遠慮しなくてはいけないと思い、一度辞退した。
「遠慮するな、もっと食え」と勧められ更に手を出した。厳しい軍隊の中で教官と初年兵とでは、天地程の隔たりがあるのに、このように特別可愛がって頂き涙が出る程有難く嬉しく、橘教官の情を骨の髄まで感じた。仮に私が教官と同じ立場になったとしても、初年兵に対してこのような温かい心配りをすることができるだろうか? ただ教官のお心に頭が下がるだけであった。
その後、ある時「小田、お前勉強するのなら、将校室の隣に小さい部屋があるから消灯後そこに来てしたらよい」と言われた。当初から幹部候補生の試験は受けたい、それならば、他の人が寝ている間に勉強しなければいけないと考えていたので、本当に有難いことだと感謝し、早速毎晩その部屋を使わせてもらうことになった。
昼間の厳しい訓練で疲れている、その上に勉強するのは容易ではなかったが、頑張った。誰がこんな便宜を与えてくれるだろうか。厳格な軍隊組織の中、融通のきかない堅い兵営生活の中で、橘教官にしても同僚や他の人に気兼ねはあろうに、よくぞ私のために、小室を使わせて下さったことだ。
教官は、召集兵のそれまでの学歴、職歴等を何かの書類で知っているのだろうか?どういうふうになっているのか私には分からないが、少なくとも私から公式に学歴を言った覚えは一切ない。
ただ、その時見習士官をしている人は殆(ほとん)どの人がそれぞれ学校は異なるが、昭和十六年十二月に旧制専門学校や、旧制高等学校を卒業した人で、私と同級生ということになる。私は俗に言う七つあがりで、順調に進学していた結果、在学中に徴兵検査(ちょうへいけんさ)の適齢に届いていなかったので、学校卒業前に検査を受けられず、一年遅れて一般の人と同じく昭和十七年八月頃、本籍地で徴兵検査を受けた。
ところが、この度、私は一般現役の人より少し早く召集を受け、入隊することとなったのである。
橘教官は、私が同学年の旧制専門学校卒業者であることを知って、不憫(ふびん)に思われたのだろうか。
今も感謝の気持ちで一杯である。
いろいろな苦労と訓練を経験をしている間に、桜の花が咲き始め、馬の蹄(ひづめ)を洗う水も冷たさが緩み凌(しの)ぎ易くなった。兵営生活にも馬の取り扱いにも大分馴れてきた。でも、次第に程度の高い訓練となり、それなりに気合いを入れてしなければならない状況の中で、教育が続けられていく。

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