三 野戦部隊の出征
◇野戦部隊の編成
◆野戦部隊金井塚隊と留守部隊有元隊
昭和十八年四月初めに大規模な動員が下令(かれい)され、野戦部隊が編成された。姫路の輜重兵第五十四聯隊も、その編成の中に組まれ、金井塚中隊長以下殆どの人が動員された。それに加え今までに支那事変に行った軍歴のある人や、経験のない新兵など多くの人が召集され、部隊が編成された。
我々二月に入隊した教育中の者は留守部隊として残された。そしてこの留守部隊は有元隊と名付けられ、我々教育中の者の他に今までの金井塚隊の中にいた人も若干はその留守部隊に残された。それに加えて別に下士官や古年の兵隊が召集され、ここへも穴埋めに大勢入ってきた。
野戦部隊となった金井塚隊は全員姫路の北東二十キロにある青野ヵ原(あおのがはら)演習場の兵舎に集結し、内地を出るまでの間待機しながら訓練を受けることとなった。部隊名は五十四師団で師団長は片山四八閣下、通称「兵(つわもの)兵団」で、輜重兵第五十四聯隊は聯隊長太田貞次郎中佐で通称一◯一二◯部隊と称した。部隊の編成は聯隊本部の他に、第一中隊は輓馬(ばんば)中隊で中隊長金井塚久中尉、第二中隊は自動車中隊、第三中隊も自動車中隊となっていた。
私達はそのまま留守部隊有元隊で、引き続き橘教官の元で訓練を受けていた。しかし大仲助教と大森助手は野戦要員として出て行ったので、助教と助手は他の人に替わっていた。そのような中で私は消灯後の勉強をやっていた。
五月終わり頃のある日、留守部隊有元隊の人事係の大仲准尉(じゅんい)より急に呼び出しがあり「小田二等兵、お前はよくやっているらしいが、幹部候補生の試験を受ける気はあるか?」との質問があった。
これに対し「はい、有ります」と私は即座に答えた。かねがね、この時勢ならば軍隊に三年や四年は引っ張られるから、甲種幹部候補生の試験に合格し見習士官になり将校にならねばならぬと思っていたので、そのように答えた。
「そうか、優秀な者には元気をだし、幹候を通ってもらわなくてはならないんだ。だが、ここの有元隊は留守部隊で幹部候補生の試験は無いんだ」 「外地派遣の部隊五十四師団の輜重聯隊(しちょうれんたい)ならばその試験があるからその方へ行ってはどうか? 今まで金井塚隊にいたことでもあり、なじみもあろうから」と話された。私はいろいろ考え幹候を受けたいし、この間まで所属していた金井塚隊には親近感もあり、それに外地といってもジャワへ行くのではないかとうわさもされており、ジャワなら内地にいるのとあまり変わらないのではないか等と思い、にわかに金井塚隊へ転属することになった。
◆留守部隊有元隊から野戦部隊金井塚隊へ転属
私の外に教育兵から二十名ばかりの者が選ばれて転属することが決まった。この転属が後に大変な運命の岐路(きろ)になったのだが、その時は想像もできなかった。
橘教官を初め同期の教育兵達が、みんなで送別会をしてくれた。送別会といっても別に酒や料理があるわけではない。酒保(しゅほ)から僅かな菓子を買ってきて食べる程度のことであったが、野戦へ行く者を心から送ってくれた。その折、橘見習士官が別れを惜しみ歌を歌って下さった。
「今宵(こよい)出船(でぶね)か〜 お名残(なごり)惜しや〜 暗い波間に〜 雪が散る〜 船は見えねど〜 別れの辛さ〜 沖にゃ鴎(かもめ)も〜 啼(な)くわいな〜」と。
---今でもこの歌を歌うと、その時の光景や橘教官の面影が思い出され、言い知れぬ懐古の情が湧いてくるのである。
転属の日、私は同期の兵隊約二十名を引率して、留守部隊の人に挨拶をすませた後、トラック一台に乗り青野ヵ原の輜重聯隊の聯隊本部に到着し、申告(上官へ申し出、伝えること)をした。その時、各人の配属先が指示され、それぞれの中隊、小隊、分隊、班に分かれて行った。
私は金井塚中尉の率いる第一中隊の中の瀬澤少尉の率いる第二小隊で、藤野軍曹の第四分隊で、その第十二班で班長寺本上等兵の配下に編入された。班員は二十名だったと思う。
参考として、輜重聯隊の総数は約八百名で、その内第一中隊の総数は約四百名であった。
第一中隊の中には、編成前の金井塚隊にいた川添曹長(かわぞえそうちょう)や藤野軍曹、助教だった大仲伍長や木下上等兵など、知った顔がさきざきにあった。十二班には寺本班長の次に古参の上等兵や一等兵が約半数おり知らない人ばかりだった。残りの半数はこの度初めて入隊した新兵であった。私も新兵の部類だった。寺本班長は、私が入隊して以来今日までのことや、教育訓練中のことを知っていたらしく、そのように皆に紹介してくれた。みんなも快く受け入れてくれ、殆ど違和感はなかった。むしろ、特に親切にしてくれたように思われた。
南方に行くのだから、それなりの服や装具や兵器が支給された。また、厩に行くと元の金井塚隊から連れてきた馬だから見覚えのある馬が沢山いた。十二班には十七頭の馬とそれに見合う輓馬用車両が十数台あつた。馬には「金月」とか「金並」とか「金紫」等と名前がついており「金月」は橋本二等兵が担当し「金並」は松本一等兵が「金紫」は田中一等兵が担当するようにに責任者が決められていた。いろいろ様子が分かった頃私には「金栗」という名前の馬が割り当てられた。
毎日の訓練や、内務班での生活や厩の作業も、留守部隊の有元隊でしていたこととあまり変わりはなかった。
戦友の誰彼とも仲良くなってきた。馬の運動のため乗馬してかなり遠い小野の町あたりまで行くこともあり、緊張もするが楽しい時でもあった。
◇外泊と肉親
◆惜別の情
内地出発の日が間近に迫ったある日、一泊二日の外泊が許された。
「お前達、もうすぐ外地に向かう。一日家に帰って来い」とのお達しがあり、私も帰らせてもらった。
今まで内地におり、余り感じなかったが、ここ一週間以内に外地に出て行けば、もしかすると再び内地へ帰れなくなるのではないかと、しんみり思うようになっていた。
家には、電報で帰宅の旨を連絡しておいたので、両親と、妹も岡山女子師範学校(岡山大学教育学部の前身)の寮から帰って待っていた。皆、もう私が外地に出発することの覚悟はしていたようであった。私も余り多くを話す気になれなかったが、家族に会えて一泊できたことは確かに嬉しいことであった。
今まで、毎日の内務や訓練で忙しく、「これから外地に行くが死ぬことになるかも知れない」等と深く考える余裕はなかったが、こうして家に帰り静かな時を持つと、しみじみ考えさせられるのであった。
夕闇が迫る頃、縁側に出て庭を眺めると、南天(なんてん)の花が白く咲きかすかな香りを漂わせていた。子供の頃から庭先にあった南天だが、再び生家に帰りこの南天を見ることがあるだろうか? 遠くにたたずむ懐かしい山の輪郭を夕闇が包みこんでいく。
この頃、既に戦況は苛烈(かれつ)の度を加え、悪化の方向に向かっているのを感じていたから尚更(なおさら)、そんなことを思ったのであろう。
その晩は、材料の乏しい時勢ではあったが、母が都合して来てくれた鶏肉の鍋を囲み、親子四人で食べた。お互いに思うことは一つだが、誰も口に出さない静かな夕食だった。
しばらくして、母が、近所の様子や、出征した人の話を次々にした。これらは今の私達にとって、およそ意味のない話でしかないのだが、辛さを紛らわすために話しているのだった。そして自分の置かれている境遇がいかなるものかをつくづく感じさせられた。
久しぶりに、田舎のご・え・も・ん・風・呂・に入った。この四ヵ月の間、ゆっくりした気分で風呂に入ったことはなかったが、今日は入浴中に着ている物を盗まれる心配もなく悠然と風呂を楽しむことができた。
また、柔らかい、ふわふわとした布団の感触に、なんとも言えない幸福感を味わうことができた。それは母に抱かれた幼い日を思い起こすようであった。真っ白い枕カバー、それは王子様になったような気持ちがした。
静かに夜が更けてゆく。隣の部屋の明かりも消えているようだ、枕にポタリと涙が一と滴・・・・眠れない・・・・そうだ、遺書を書いておこう。
「遺書」「お父さんお母さん、いよいよ外地に向かって、出て行くことになりました。僕はもう、二度と帰って来ることができないかもしれません。生まれてからこの方、二十年余り本当にお世話になりました。私は今まで、本当に幸福に過ごしてくることができたと思っています。何とお礼申し上げてよいか分かりません。このご恩をお返しすることもなく出征していきます。私は日本人として恥ずかしくないよう、御奉公してきますから安心していて下さい。たった一人の妹の幸福を願うと共に、僕がいなくても妹と一緒に幸せにやって下さい。また、親戚の人や私の友人にもよろしくお伝え下さい。私はもう何も言えません、ただこれだけを書き留めておきます。もしもの時はこの遺書と、同封の東京で最後の散髪をした時の髪の毛を祀(まつ)って下さい。お元気で」としたため、やっと眠りについた。
夜が明けると、弥上(やがみ)の氏神様「見上(みかみ)神社」と、先祖のお墓にお参りした。
いつの間にか時間がきて、親子四人揃って四キロの山道を歩いて万富駅に来た。妹は岡山行きの列車に乗り、両親と私の三人は姫路行きの列車に乗るので別れた。
その時妹が「兄さん元気でね」と言ってくれたが声は潤(うる)んでいた。
加古川駅につき、青野ヵ原方面行きの軽便列車に乗り換えた。速度の遅い列車が小さい駅に止まり止まりして行く。乗客は比較的多く私達三人は立っていた。
両親といよいよ最後の別れの時が迫ってきた。今生(こんじょう)の別れになるのかと思うと涙が出てきて、ジーンと胸が詰まってきた。だが、「俺は男の子だ。若い立派な兵隊だ」そのプライドで他の乗客に涙を見られたくなく、気づかれたくもなかった。じっと涙をこらえたが、どうしようもなかった。両親はどんな気持ちだっただろうか? おそらく私以上に悲痛な思いであっただろう。もう、惜別の情耐えがたく、話すことも顔を見ることさえもできなくなり、ただうつむいているだけであった。
青野ヵ原駅まで行ってから別れるとなるともっと辛くなるので、一駅手前で父母は下車した。私は別れがこれ程辛いと思ったことはなかった。小さな列車はすぐに発車した。気を取り直し涙を拭き終わる頃、青野ヵ原駅に着いた。我に返り元気よく大門廠舎(だいもんへいしゃ)の門をくぐった。
---四年後、無事復員してから後に、妹から母がその当時何回も「その時の別れが辛かった。敦巳(あつみ)にもう会えないか、もうあれっきり敦巳と別れてしまうのかと思うと悲しくて悲しくて、身が引き裂かれる思いがした。本当に辛い別れであった」と話していた由を知り、親が子を慈(いと)しむ思いの強さに心を打たれた。
◆最後の日
いよいよ、青野ヵ原を出発することになった。どこへ行くのか知らないが長い旅が続くのである。今日一日は携行品の手入れ、検査、兵舎の後片付けなどで忙殺(ぼうさつ)された。馬達も明日の出発を知っているのだろうか?静かに休んでいる。このボロ兵舎でも今日が最後かと思うとやはり懐かしい。もう消灯後三十分も経過しただろうか、静かになった兵舎を不寝番が歩いて行く。その足音だけが耳に残る。
◇青野カ原(あおのがはら)出発
◆瀬澤小隊長の出発号令
いよいよ出発の日だ。慌ただしい数時間が経過し「出発」の号令がかかった。
第一中隊第二小隊は乗馬の瀬澤小隊長を先頭に、第三分隊、次に第四分隊の十班十一班そして私の属する十二班の出発、いよいよ私の番になった。持った手綱を少ししゃくった。私の馬、「金栗」は前へ一歩を踏み出した。引いた輜重車(しちょうしゃ)がゴトリと音をたて動きだした。力強いスタートである。長い長い輜重車の列が続いた。
乗馬は小隊長、分隊長、班長達。輜重車には兵器を積んだ車、弾薬を積んだ車、装具を、食料を、馬糧等を積んだ車が、長蛇の列を作って進んだ。実に壮観、勇ましい征途(せいと)である。
◆見送る人、見送られる人
街道にはあちらこちらに大勢の人が出ていて、見送ってくれている。雄々しい姿ではあるが、六月末の太陽は容赦なく照りつける。これだけの大部隊が行進するのだから砂塵(さじん)はもうもうとたち、体は汗にぐっしょり濡れ、目ばかりがギョロギョロする感じであった。
でも、私達は殊更(ことさら)に元気よく、見送ってくれる人の前を通り過ぎていった。遠くで田植えをしている人達も仕事を止めてこちらに向き、手を振って送り励ましてくれていた。
その時私はその人の名前は知らなかったのだが、有吉獣医下士官も埃(ほこり)にまみれて行軍していた。ふと見ると、その傍(そば)に上品な着物を着た女性が懸命に歩いている。有吉下士官の奥さんであろう。主人を見送るために来て馬部隊についての行軍、離れずついて行かれる姿を見て、大和撫子(やまとなでしこ)の心意気、夫を思う心の熱さに感激した。
他に、そのような父母、兄弟らしい姿を幾組も見かけたが誰々とは記憶していない。夕方姫路の市内に着き、一晩露営(ろえい)した。
次の日は、朝から貨物列車への積込み作業。先ず輜重車を分解して乗せた。次に兵器、弾薬箱、食糧、馬糧、それに各種器材の搬入をした。次に馬を一つの貨車に六頭ずつ積み込むのだが、馬も我々も馴れないことで、案外時間を費やし夕方までかかった。
私は先日両親と別れをしたばかりであるし、会えば別れが余計に悲しくなるので連絡をしなかった。この日は遠い所からわざわざ送りに来ていた方も多かった。
自分と同じ班で、いつも並んだ場所におり、助けあっていた橋本二等兵の奥さんが、二歳位の男の子と年老いた両親を伴って送りに来ていたが、胸の中はいかばかりかと察するだけでも気の毒であった。
そこは鉄道線路脇のバラスがごろごろした貨物の荷揚げ場で、汚くごみごみしていて屋根もろくにない。女や子供にはそこにいるのが痛々しく気の毒に思われた。それに湿度の高い暑い日であった。奥さんの着物は、白地に桔梗(ききょう)の花が紺色に染め出されたすっきりした柄のもので、何故か印象に残っている。
私は未だ一人身だが、こうして愛しい妻があり可愛い子供があれば、どんなに別れが辛いことだろうかと思うと、気の毒でたまらなかった。この五人の家族が元気で再び会えればよいがと、考えずにはいられなかった。
互いに別れを惜しんでいたようであったが、忙しい積込み作業中であり、初年兵の一兵卒に充分な時間は与えられなかった。彼はみんなに気兼ねもあるので早々に別れて積込み作業に加わった。橋本君こそ私と一番仲良しだったので、私はこの時の様子をいつまでも鮮明に覚えている。
やっと握り飯で夕食をすませた頃は、夏の日も暮れていた。それから馬の当番だけを残し、中隊全員で姫路護国神社に参拝し、武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈り黙祷(もくとう)をした。闇夜で不気味なぐらい静かであった。灯籠(とうろう)の薄い光だけが心に残った。もう何事も決まっているし決心も既にできており、静かに祈りを捧げるのみであった。
それから姫路駅横手から次々に客車に乗車した。何回か人員の点呼があった。もう夜のことでもあり一般人は誰も近づけないようにしており、駅員以外誰もホームにいなかった。汽車が動き始めた。向かいのホームに憲兵が三人立っていた。
列車は堅く鎧戸(よろいど)をおろし、山陽線を西へ下って行った。向かいの席に腰掛けていた久保田二等兵が「いつまたこの汽車に乗れるだろうか」と、私に向かってつぶやくように言った。
しばらくすると、平田古年兵が包みから、ぼ・た・餅・を出して「今日おやじが持って来てくれたんだ。一つだがあげよう」と言ってくれた。我が子可愛さに一生懸命に作ってきたぼ・た・餅・だ。砂糖がよくきいており特別おいしく頂いた。皆は一日の作業で疲れたせいもあり誰も無口になっていた。
私は、この内何人帰れるのだろうか?とそんなことを思っていたが、いつしか単調な列車のリズムに誘われ眠っていた。
◇宇品港出港
◆積込み作業
六月下旬の夜は短く早く明け、目が覚めた時は、列車は宇品駅に着いていた。ここも貨物のホームである。昨日荷物を積み込んだ貨車も、馬を積んだ貨車も横の線路に到着していた。早朝から、荷物や馬を貨車から降ろす作業、それを艀(はしけ)に乗せる作業、艀から輸送船へ積み込む作業が始まった。
分解した輜重車を車体と車輪に分け貨車から降ろす。港が浅いと大きい船は岸壁に着かない。そこで波止場から本船まで、すべての積み荷を、台状で縁に柵のない艀(はしけ)という舟が運搬するのである。艀に荷物を乗せ、二百メートル程沖に停泊中の本船に横着けし、ウインチで巻き上げる。ここでは船舶兵がいて、荷物の置き場所や置き方を厳しく指示しており、専門家の彼らに従わざるを得ない。車体は車体ばかり、車輪は車輪ばかりまとめ、場所を取らないように所定の船倉の奥深い場所から詰めて置くのだが、一回に十台分ぐらいの輜重車がウインチで釣り上げられていく。次から次に運び込んでも限りがない。
兵器や弾薬、各種の装具、馬糧、兵隊の食糧等の積込みがすむと、次は馬の番である。貨物列車から馬を引き降ろし波止場まで連れて来るのだが、馬も昨夜一晩中汽車に揺られて疲れている上に、列車の乗り降りは馴れていないので、踏み板の上を歩かせる時は滑りそうになり大変だった。
それより、艀には縁(へりvに柵が無いのでしっかり鼻を持っていないといけない。一匹の馬でも暴れだすと大変だ。馬は驚き慌てる性質を持っており、海に落ちるようなことになると人間も危ない。
とにかく艀の上でガタガタしないように用心することだ。
次は、艀の馬を本船のウインチで、吊り上げて搬入して行くのだが、馬絡(ばらく)で馬の腹を締めようとすると、ガタガタと暴れる奴も出てくる。そしてウインチで引き上げようとすると急に走りだす馬もおり、また暴れ回る馬もいるので、そんな時は我々は必死で馬の鼻のろ・く・を捕まえておかねばならない。
一歩誤れば、海に落ちてしまう。危ないことこの上もない。馬絡(ばらく)で馬の腹を締めてウインチに掛ける困難な作業は、古年兵でモサの藤川上等兵や横田上等兵達気合いの入った兵隊がやってくれ助かった。馬もガタガタしているが、ウインチで吊り上げられてしまうと、どの馬も観念するのかじっとしてしまう。不思議なもので、一本でも足が地面に着いている間は暴れているが、離れたら自分の力が及ばないと感ずるのか、おとなしくなる。一頭一頭吊り上げては船に入れ、吊り上げては船に入れるのだが、足が船の床に着いたとたんにまた暴れ出すものもあり、緊張の連続であった。
続いて船底の馬房(ばぼう)に入れるのだが、船底の馬房の仕切りは狭く一頭一頭がやっと入れるぐらいの大変窮屈なもので、身動きもできないくらい詰め込まれ、しかも、船に揺られ揺られて何日も動けないのだから、馬も本当に可哀相なものである。このようにして、馬が全部運び込まれるまでには相当な時間がかかった。
やっと終わったと思っていたら、新規に弾薬が沢山送られて来て、それを積み込む作業が別に増えた。みんな蟻のように一列に並んで艀まで弾薬箱を肩に担ぎ、積み込みをすませるとヘトヘトだった。
戦場では弾丸がなければ戦えないし、弾丸が命である。だが、今日の場合疲れきっていた上に、余りに多く重たい弾丸だったので、「有り過ぎるのも困りものだ」などと、苦しまぎれの声も聞こえてきた。
朝から晩まで働き、やっと積み込みが完了した。輜重隊はその名のとおり輸送部隊であるから荷物や持ち物が多く乗船も大変である。長い夏至の頃の早朝より日暮れ前までたっぷり一日かかった。
船内に馬の当番と積み荷の監視当番を残し、日が暮れる頃やっと宿屋に着いた。大勢の兵士が泊まるのだから充分なサービスを期待するのは無理であるが、なにしろ入隊以来五ヵ月も女の人と話したことがないのだから「兵隊さんご苦労ね、明日は外地に出て行かれるの、お元気に」と優しく声をかけてくれ、一生懸命に世話してくれる気持ちが自然に伝わってきて有難く嬉しかった。
ここでは久し振りに畳の上で、軍隊ではアルミの茶碗にお碗、アルミの箸で情緒がないが、お膳で出された飯を食べた。また軍隊では昼夜通し同じ肌着と服なのにここでは浴衣に着替えた。その上軍隊では寝具は毛布だが、ここでは触りの良い夏布団に寝ることができ、内地の娑婆(しゃば)の夜をいささかでも味わうことができた。
「いつの日にか再び畳の上で、お膳の飯を頂くことができるだろうか?」と思いつつ休んだ。みんな寝静まったのか、柱時計がコチコチと時を刻んでいた。
◆乗船
我々は銃と剣そして装具一式を背負い、艀(はしけ)からタラップを登り本船に乗船した。セレベス丸という五千トン級の貨物船である。しばらくして、船内の狭い階段を上がったり下がったりして、私達十二班に与えられた場所へ入っていった。
まことに狭い、高さも広さも。もともと貨物船で荷物を入れる場所を上下二段に仕切っているので、高さ一メートル弱で立つことは絶対できない、這(は)って奥に入るより仕方がない。
一人当たりの面積は五十センチ角も無いようだ。装具を置くと一杯だ。荷物をきちんと置き、人間が座っただけでギュウギュウの箱詰めである。一人が横に寝るためには三人が外に出て行かなければ面積はとれない状態で息詰まるようだ、無茶だ。それに薄暗くて照明も極めて悪く、薄汚く人間のいられるような場所ではない。しかしどうしようもない。それだけの広さと高さしか与えられていないのだ。敵の潜水艦にやられたら、人が一杯で船室から逃げだすことは絶対できない。
装具を置いて甲板(かんぱん)に出てみた。遠くに広島市の北の山が、近くに宇品の町並みが見える。気がつくと他に貨物船が二艘(そう)おり、兵隊を一杯乗せていた。同じ輸送船団を組むのだろう。どの船も水や油の補給をしており、あちこちに連絡用のモーターボートが走っていた。
夕方近くになり錨(いかり)が引き上げられた。何の合図もなく船は動き始めた。他の二艘も動き始めた。
夕闇の彼方に小さな町の灯火が次第に遠退(の)いていく。戦友の橋本二等兵や三方二等兵達といつまでも甲板に立ち舷側(げんそく)の手摺りを固く握っていた。若い兵士の胸に熱いものが込み上げてきて声も出ない。唯(ただ)、黙ったままであった。
これで、いよいよ内地ともお別れだ。父母兄弟、妻や子供の住むこの国を出るのだと重苦しい気持ちに包まれており、征途(せいと)に就くという勇ましいものではなかった。
船での一夜が明けた。甲板へ上がって見ると、関門海峡を通過しているところだった。船団は六艘(そう)になっていた。下関の端の部落へ大きな声をすれば届く程だが、もう内地と私達の間には絶対に届かない遠い遠い隔たりがあった。いつしか船団は五島列島の沖を走っており、漁師が小舟から手を振っていた。船団は南西に向け進んでいる。
次の日、夜が明けてみると、様子がおかしい。どこだろう?「関門海峡を瀬戸内海へ入った所だ」と皆が言っている。確かにそうだが、どうしたのか分からない。船団が忘れ物をして引き返したのでもなかろうが、命令が変わるのだろうか、お粗末なことだ。
戦況がよくないのか、敵の潜水艦が接近したとの情報によるのかも知れないが、上層部が何かにつけ、うろたえているからだろうと思った。次の日はまた出発だ。再び五島列島沖を通過しているが二、三日が浪費されたことになる。
◇輸送船内の様子
◆寿司詰
軍歌で「あーあー堂々の〜輸送船〜」と勇ましく歌われているが、実態は貧しく非常に窮屈(きゅうくつ)である。
どの船も、各船室は兵隊が寿司詰めになっている。船倉の深い部分に輜重車や弾薬を積み、馬も深い船底のあたりにいるが、そこに新鮮な空気を送るために扇状の大きな幕で前進方向からの風を捕らえ、布製の大きなダクトを通して船底の方へ空気を送る仕掛けがされていた。貨物船をにわかに改装したのでこのようになっているのだろう。
それに、千人もの人を急に乗せることになったのだから便所が足りない。当然のことだ。対策は?甲板外側の手摺(てすり)りの外に、はみ出して木組みがされている。丈夫な木と板で出来ているが、屋根もなければ、囲いもない。吹き通しで、床は二枚の板が適当な間隔で渡してあるだけである。
空も周囲も下の海面もよく見える。眺望絶佳(ちょうぼうぜっか)の完全な無臭トイレだ。そこで便をするのだが、始めは余程糞(くそ)が溜まってからでないと、出てこない。それに風の強い日には吹き飛ばされそうだし、下を見ると波頭が上下に五、六メートルも動いており、海面が遠くなったり近くなったりで、大便をするのも恐ろしく勇気が必要となるのだ。
飯と汁を各(おのおの)の飯盒(はんごう)と飯盒の蓋(ふた)へもらって食べるのだが、所定の班内の場所は狭くて入れないので、浮浪者のように甲板のあっちこっちに座り、適当に食べる。食べた後はほんの僅かの水で洗う。おかずは塩干魚(えんかんぎょ)などで変わりばえもしないが、船の飯は蒸気で炊いてあり、幾らか塩気もあり、案外美味しいのがせめてもの慰(なぐさめ)めだ。
その後、船団は東支那海に入ったのか前後左右に大きく傾き揺れるようになった。
私は、宇野・高松間の国鉄連絡船に乗ったことはあるが、こんな大きい船に乗っていながら、こんなに揺れるのは初めてであり、気持ちの悪いことといったらひどいものである。立てばふらふら、よろけどおしである。寝転んでも目がまい、ひどい船酔いで、飯も喉を通らず激しい空嘔吐(からおうと)をするばかりである。
戦友も三分の二以上がひどい船酔いで弱っている。酔っていない者が馬の世話や飯上げなどをしてくれた。どこに行ってもたまらない。気分転換と思い馬の所に行ってみたが、そこは馬糞の臭(にお)いで余計に気分が悪くなるだけで、処置なしである。
二、三日が経過し船の揺れが納まりかけると、船酔(ふなよ)いはけろりと治り、忘れたようになった。飯は食べられるし足取りもしっかりしてきた。甲板に出ると太陽がまぶしい。大分南に来たのだろう。沖縄列島だろうか小さな島が遥かに見えた。
船は昼も夜も走り続けている。だが、いつもジグザグコースで行くので、日にちばかりが過ぎ、案外南への距離は伸びていないようであった。ジグザグコースを取るのは潜水艦の攻撃を避けるためだそうだ。素人の私でさえ、そんなことでは避けられはしないだろうと思った。敵の潜水艦はもっと速度も早いし、優秀な観測機と正確な魚雷を持っているはずである。子供だましもよいところだ。でも、ジグザグをしないよりは、したほうがよいのかもしれないが。
ジグザグコースで蛇行し進んでいるのだが、前の船と次の船の方向の違いは直角といってもいいぐらいなので、五日かかるところを十日かかるのは当たり前のことである。これは昭和十八年七月のことだが、この時既に敵の潜水艦に対し、かくも戦々恐々(せんせんきょうきょう)とした有様だった。
◆船内の生活
もう一週間ぐらい体を洗っていない。各人、飯盒(はんごう)に一杯の水をもらい、洗うのだが、先ず顔を洗い頭と体に移る。上手に使わなくてはすぐに無くなってしまう。水がこんなに貴重で有難く有効に使えるものとは、今まで思ったこともなかった。幾らか清潔になり気持ちがよかった。
ところで飯盒には、いろいろの使い道があり、水入れ、お米入れ、飯炊釜(めしたきかま)、お汁の鍋、おかず入れの食器として使われる外、このように洗面器代りになったり、場面によっては汚物入れとして使われるかと思うと貴重品入れともなった。もったいないことだが、いちばん安全な保管方法として戦友のお骨入れになることもしばしばであった。まさに万能の道具であり、後の話に出てくるが敗走千里の道で、最後には命の次に大切なものとなるのである。
船の中で割り当てられた場所は非常に狭いので、上甲板(じょうかんぱん)の設備や荷物の間に横たわるだけの場所が見つかればそこへ寝るのだ。場所取りもその日の早い者勝ちである。いつも我々は救命袋を携えており、それを枕にしていた。幸いに熱帯地方の海上だから寒くなくて有難い。雨と露が凌げればよいのだ。
そんな一等場所が取れないと、厩に行き馬と馬の間に渡した境の太い木の枠の上で寝ることになるが案外悪くない。馬も時には大きなお・な・ら・を落とす、丁度私の頭の辺でやるからたまらない。
だがしばらくの辛抱だ。
船の中は狭いので時に総員上艇(じょうてい)という訓練があり大変だったが、平日は朝晩みんなで体操をしたり、軍歌を歌ったりして、士気の高揚を図っていた。
よく晴れた日の航海はたとえ戦場に運ばれていても、緑の島等が見えるとさわやかで楽しいものであり、船が白波を残して進んでいるさまは一幅の絵になると思えた。また、いつ敵の潜水艦にやられるかも知れないと思うと心配でもあったが、どう思ってみても仕方の無いことであった。
ある闇の夜「潜水艦がいる。全員非常体制に入れ」の命令が出た。甲板に上がり救命袋を身に着け、やられたらすぐに海に飛び込める体制で、しばらく緊張の時間が続いた。船の灯火は全部消しており不気味な時が流れたが、幸い攻撃されずにすみ事無きを得た。
何日目になるであろうか、台湾の東側を南に向け航海している。花蓮港(かれんこう)の町には気がつかなかったが、確かに高い山並みが海岸に迫っていた。それに沿って更に南下し台湾の南端の岬をぐるりと回り、進路を北へ取り高雄(たかお)港に着いた。子供の頃に高雄のことを地理で習っていたが、いよいよ来たかと思った。波静かな青い港があり、辺りに南国の樹木が茂り、熱帯の果物が実り何だか不思議な魅力を感じた。
◇ビルマへの道のり
◆高雄へ上陸
「馬を上陸させて休ませよ」の命令である。船底にいる馬を一頭一頭ウインチで吊り上げ波止場に降ろした。この港では直接岸壁へ接岸できて、艀(はしけ)は不要であり幾らか楽であった。しかし、瀬澤小隊だけでも百頭からの馬で、波止場から五百メートルばかり離れた公園らしき場所に連れて行き繋(つな)ぐのだから、全部終るまでには五時間程かかったと思うが、兵隊にとっても馬にとっても大変な仕事である。
陸の上で馬糧(ばりょう)を食うている馬はうれしそうである。新しい水を一杯飲んで体調を整えているのだろう。我々も久し振りに陸地に上がり、大きな風呂に入り体の垢(あか)を落し、さっぱりすると格別な嬉しさが湧いてきた。
台湾の本場でバナナを買って食べたが素晴らしい美味しさである。生まれてこの方こんな美味しいのを食べたことはなかった。
何日ここに泊まれるのだろうか?と思っていると「出発準備」の命令だ。馬を降ろして一晩(十二時間)しかたっていないではないか、何たることか。
それでは、馬も兵隊も疲れるだけではないか。上の方の意志統一ができていない証拠か。だが兵隊達がそんなことを言ってみても始まらない。どの辺の上層部相互の食い違いか知れないが、命令は命令だ。合理性等どうでもよい、命令がすべてを支配するのが軍隊なのだ。
早速、馬を船室に入れる作業に取りかかった。馬絡(ばらく)に縛られ馬は一頭一頭吊り込まれていった。馬もこんなにして吊りあげられるのはいやだろう。全員がかりでまた約五時間かかった。幸い誰にも怪我はなく順調に乗船作業ができ、すぐに出航した。
何のためか知らないが、次はボウコ諸島の馬公(まこう)に錨(いかり)を降ろした。しかし三時間程でそこを出港した。それからもジグザグコースを取りながら南へ南へと航海した。割合平穏で波も静かな日が続き、船内の生活も今までどおりでこんなものかと馴れてきた。
その頃厩当番に就いた。馬の糞を熊手のような物で掻きだし、集めてクレーンに乗せ海に捨てる作業、馬に餌を配分してやる作業、水を飲ませる作業、異常はないかと見て回るのだが、多くの馬だから結構仕事がある。馬との関わりも半年になり、常に用心は必要だが馴れてきた。馬も我々の方に馴れてきたのだろう、言うことをよく聞くようになっていた。
護衛艦(ごえいかん)が高雄(たかお)当たりまで来ていたが、その後この航海にはついていない。どうしたのだろうか。
また、初めの内は飛行機が時々飛んで監視してくれていたのに、今頃は全く姿を見せてくれないのが心配だ。輸送船団は無防備の丸裸、やられればそれだけのことで、助かることは先ずないだろう。
◆サイゴン(現在ホーチミン市でベトナムの首都)へ上陸
数日後、船団は大河メコン河を上り始めた。我々にも当時仏領インド支那のサイゴンに行くことがすぐに分かった。六千トン級の船が自由に航行できる大きな河である。
サイゴンの港に到着すると、すぐに下船(げせん)を命じられた。宇品で乗せたすべての物を降ろして、臨港の倉庫に搬入しておき、兵士は各自の装具一式を携行し、馬と共に市内を行進して兵站(へいたん)宿舎に着き、馬は仮の厩(うまや)に繋いだ。早朝よりまる一日がかりの大仕事であった。前にも述べたように輜重隊は多くの荷物、弾薬、食料等を同時に輸送しているので、船からの積み降ろしが大変なのである。ここでセレベス丸と別れた。よくここまで無事に運んでくれて有難う。
市内を行くと、サイゴンは小パリーと言われるだけに美しい町並み、緑の芝生の中に瀟洒(しょうしゃ)な建物が並び、商店街も奇麗に整い樹木が多く、垢抜(あかぬ)けのした美しい家があり、清潔な感じのする街であった。若い女性が涼しげな美しい衣装で、自転車で往来していたのが印象に残った。
日本軍の佐官や尉官の車が行き来し、時に黄色の旗を立てた将官を乗せた自動車が人目をひいていた。さすが南方総軍指令部のある拠点だけに、日本軍人が威張って町の中を行き来しているようであった。兵站宿舎での給与は良く、食料、砂糖、外国たばこ等を与えてくれた。
宿舎と厩が離れていたので、飼(かい)を与えるためにその間の道を行ったり来たりした。もっと街の様子を見たいと思ったが外出の機会がなく、到着と出発の時に町並みを通っただけで残念だった。
十日ばかり滞在したが出航の日が決まり、その前日に、船から降ろし倉庫に入れておいた弾薬や輜重車等の荷物と馬を、終日かけて輸送船に搬入した。重労働も全員が一致協力して頑張るからやれるのである。
私の馬「金栗号(きんくりごう)」は体格は並みの大きさ、流れ星の栗毛でおとなしい性質で私によく馴れていたが、積込みの合間に「お前も吊られたり降ろされたりで、ご苦労さん」と言って首を叩いてやった。
当日は宿舎を片付け掃除をすませ装具一式を携行して乗船した。美しいサイゴンの街に別れを告げ出港した。緑の平野が広く開ける中をメコン河が流れ、輸送船団はその河を下って海に出た。
南の空は青く澄み、海は静かでキラキラと真夏の太陽に輝く。その中を白波をたてて船団は進んだ。この頃はジグザグコースは止めて、南に向かって一路航海している。鏡のような海の中を右や左に島を眺めながら航海し、数日の後にシンガポールに入港した。
◆シンガポール(当時は昭南島(しょうなんとう))へ上陸
入港の前に船から見る風景、私はこんな美しい景色を見たことはない。海の色は翡翠(ひすい)のように澄んでおり、島の緑がさえている。心がうっとりとし、見惚れるようだ。無銭旅行にはもったいないぐらいだ。
しかし船が着けば重労働が待っていると思うと、気分が落ち着かない。やがて接岸し、当然のことながら下船命令が伝達された。いつものように荷物を全部降ろし、弾薬箱や大型の荷物、分解した輜重車等を波止場に近い倉庫に格納した。馬と兵隊は中兵営の宿舎まで五〜六キロを歩いて行った。朝から晩まで休む間もない作業の連続で夕刻になりやっと落ち着いた。
やれやれと思っていると、一時間もたたない間に、「明日乗船せよ」の命令だ。どうなっているのか?ものも言えない程あっ気にとられたが、命令である。
一夜が明け、馬を連れ装具を持ち波止場に行った。昨日格納したばかりのおびただしい荷物を倉庫から運び出し、ウインチで輸送船に吊り込んだ。次に馬も一頭一頭馬絡(ばらく)で吊(つる)し船倉へ入れた。
もう何回もするので作業には大分慣れてきたが、危険はつきまとい、やはり大変な労働である。
みんな一生懸命したが、たっぷり一日かかり、夜遅くやっと狭い船室に潜り込む有様であった。夜が明け出航はいつだろうかと思い待っていた。
その日は何もなく終わろうとした頃今度は「明日下船せよ」の命令が出された。全く猫の目のようによく変わる、いや、猫の目もこんなには変わらないだろう。
参謀達が、なにかの情報により決めるのだろうが、更にはもっと偉い人が、その他の状況から「それではいかん」として変更になるのかも知れないが、末端では大きく振り回されっ放しだ。しかし、命令は絶対である。絶対だからこそこうなるんだろうが、とにかく大変なロスだ。負け戦の前兆とは、こんなものだろうか?
命令に従い、再び下船作業を丸一日がかりでやっと終え、その日も夜になり、中兵営に再び帰ってきた。もうクタクタである。思えば忠実な軍隊であり兵隊である。
その後二十日間ぐらい、シンガポールの兵站宿舎であるコカイン兵舎に宿泊した。特別な訓練はなく、馬の世話と点呼と体操、軍歌演習、時に駆け足をして過ごした。市内に出たのは二回ばかり、食糧の受領にトラックに乗り通った程度で、あちらこちらを見物する機会はなかった。でもその時の、朝の霧に包まれたさわやかな空気、奇麗なアスファルトの街路、高いビル街、そこをロバがパカパカと車を引いて軽快に走る美しい街並みの印象は忘れられない。
大きいビルが所々に建っており、その間に椰子(やし)の木が高く伸びて葉を拡げていた。広い庭に緑の芝生を持つた豪華な住宅もあり、素晴らしい南国の都市は見ただけでも、長い船旅の疲れが癒(いや)された。
また、真昼の暑い最中に、夕立のような大粒の雨が三十分間ぐらい降るスコールが毎日あり、なんとも気持ちよく、暑さを忘れさせてくれ有難かった。
市街地から少し離れた場所を通ったとき、その広場におびただしいトラックや自動車の残骸があった。敵味方両方の物であろうが、ただ驚くばかりの量である。一年半前に日本軍がこの地を攻略した時の戦争の爪跡が、ここに鮮明に残っているのである。
シンガポールには南方軍総司令部の一部が置かれ、我々のいる兵営の近くにある立派な邸宅は将校宿舎として使用され、高級将校が乗用車に黄色や赤の旗をなびかせて出入りしていた。このように、街は日本軍の権力下にあった。
私が臨港倉庫の監視当番の任務に就いた時、その近くで英軍の捕虜が車で荷物を運搬している姿を見た。二十人ぐらいの集団を、鉄砲を持った小柄な日本兵が監視して、作業が行なわれていた。暑い熱帯の太陽光線を浴び、帽子も被っておらず、上半身裸である。白人の白い皮膚が赤色に日焼けして汗を流していた。
「哀れだ、気の毒だなあー」と一瞬感じた。「でも捕虜だから仕方がないではないか」と頭の中で肯定した。シンガポール陥落時の山下将軍とパーシバル将軍の会談の姿を思い浮かべた。勝者と敗者の立場の違いはどうすることもできない。二年後よもや逆の姿になろうとは、私は思ってもいなかった。
倉庫の監視当番をしていたが、いささか退屈し、波止場の方に行ってみた。そこでインド系の顔をした現地人と出会い、私の片言英語と彼のシンガポール英語で話を交わした。手真似足真似を加えながら、相対して話をするとかなり意味が通じる。「日本からいつ来たか?何歳か?お前の名前は?兄弟は何人いるか?」等単純な会話をした。しかし、彼はその後に「イングリッシュ、シュワー、ヴィクター」英国が必ず後で勝ち、日本が負けるだろう、と言った。
理由を言ったか否かは今では記憶にないが、戦いの広がりが急だったので、シンガポールでは、英軍の戦闘体制がまだ整わず、戦力を固めていない先に攻撃されたので負けた。しかし、根本的に両者の装備、近代兵器の程度の差を見て、彼らはそう感じていたのだろう。
私も入隊前に友人の内田君が「シンガポールで捕獲した戦利品のレーダーが優れた性能を持ち、日本はその真似をして試作している」と言っていたことを思い出し、嫌な情報としてこの予言者のことが頭の中にこびりついて離れなかった。
シンガポールのコカイン兵舎に駐屯中、特別の訓練はなく、次の命令待ちの状況で時間に余裕があり、のん気に過ごした。幹部候補生の試験のことは、常に頭の片隅にあったが、いつ試験があるといった情報もなく、目的が目の前に無い上に、戦地に向かう途中という気持もあり、それに切瑳拓磨(せっさたくま)する相手もなくて、つい安易な方に陥りがちで勉強らしい勉強もせず、漫然と日を過ごしていた。
南国の夜空は澄み南十字星やサソリ座が美しい。内地は今八月で蒸し暑い夜が続いているはずで、こちらの方がむしろさわやかなように思われた。
二十日ぐらいたったある日、乗船命令がきた。かねてから、ジャワは天国、ビルマは地獄と言われていた。ジャワは気候も良いし戦況も落ち着いているが、ビルマは気候が悪く、病気もまん延しており、しかも戦況が悪いという意味であったが、ビルマで使用する軍票(ぐんぴょう)、その紙幣が渡された。これで行く先は地獄のビルマと決まったのだ。セレベス丸と同じような貨物船を改装した輸送船に、今度も丸一日かけて荷物と馬を運び込んだ。その次の日に、シンガポール港の岸壁を離れた。美しい町よ、さようなら。
船団は六艘ぐらいか、よく分らないが北へ向かって舵が取られたようだ。ペナン沖で輸送船が敵の飛行機にやられ、無残な残骸(ざんがい)をさらしていた。それを目前に見て、我々の船もいつやられるか分からないと思うと、急に不安になってきた。戦地に近づくにつれて、飛行機と潜水艦の恐怖を一層感じるようになった。
更に北上を続けていると、突然「空襲警報」の声。甲板に上がってみると西の空に点々と飛行機が見えた。二機がこちらへ向かって飛んでくる。キラキラと太陽に輝いているなと思って見ていると、爆弾が落とされた。かなり離れた所にいた貨物船が攻撃され一艘が爆撃を受けて沈んだ。
あっという間の出来事で夕闇の迫る頃であった。幸いに我々の船団ではなかった。
翌日船団はラングーン港を目指し大きな河を上っていく。前方の森の上に金色に輝く塔を発見した。大西一等兵が「あれがパゴダだ」と教えてくれた。近づくに従いだんだんパゴダが大きく見えてきた。

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