四 ビルマでの軍務と移動

◇ビルマに進駐(しんちゅう)
◆ラングーン港で荷揚げ
甲板(かんぱん)に上がり感慨深い気持ちで初めてパゴダ(仏塔)を見た。緑の丘の上に建っており、沈んでいく夕日に赤く彩られた黄金のパゴダは、何とも言えない美しい姿をしていた。これがビルマでの第一の印象だった。夕闇が迫り町の明かりが点々と点(とも)され始める様子を眺めながら「いよいよ目的地ビルマについた」の感を深くした。
日も暮れ、今夜はこのまま船に泊まるものと思っていると「各小隊は班内の部屋に帰れ」との放送があり、帰ってみると瀬澤小隊長から「本日これより下船作業をする。昼間になれば敵機の襲撃を受ける恐れがある。夜間作業だから特に気をつけてやれ」との命令である。
輸送船のブリッジと波止場側に照明灯が明か明かと点灯され、船のウインチがガラガラと音をたてて動き始めた。日本から遥々(はるばる)運んで来た兵器、弾薬、輜重車、馬具類、馬糧、食糧、雑品等多くの荷物を降ろす重労働が続いた。深夜の作業と空腹で、すっかり疲れ果てた時「今夜の作業はこれで中止する」との命令が届いた。それと同時に一人に二個ずつの握り飯が配られた。腹がペコペコなので有難かった。
いつものことだが手袋も無く、素手の作業だから手は汚れに汚れているが、夜のことでどれ程汚れているか分からない。しかし手を洗う水がどこにあるのか分からないし、照明がきく以外の所は暗くて危険である。それに疲れきっているので、汚れた手で握り飯を受け取りムシャムシャと食べた。
やっと一息つき、各自の装具を枕にし臨港倉庫のコンクリートの上に寝転んだ。広々とした大地に足を伸ばして寝るのは久し振りで気持ちが良い。二、三時間寝たのだろうか、夜明けと共に「起床」の声がかかり、再び船から積み荷を降ろす作業が始まった。馬も吊りあげられ、次々と波止場に降ろされた。長旅で疲れているのと、吊られることに慣れたせいか暴れなくなり、扱い易(やす)くなった。私の馬「金栗号」も無事着いた。遥々ビルマまで連れてこられた馬達も可哀相なものだ。すべての荷物を降ろし終え、全員下船したのはもう午後になってからだった。
今度は輜重車を組み立てて弾薬等すべての荷物を乗せた。波止場の倉庫に積んで置くのではなく、港から兵站宿舎まで運搬しなければならない。ここからはいよいよ本番だから、以前とは違い、しなければならない仕事が沢山あって時間もかかり、労力も大変なのである。
長い間、船底に繋がれ運動不足になっていた馬に、いきなり鞍を置いて、弾薬等の荷物を沢山乗せた輜重車を引かせるのは、厳しいことだが、仕方がない。
幸いラングーン港から宿営地まで八キロ程度であまり遠くはなく、平坦な舗装道路であった。その上に、雲の多い日で暑くもなく人馬ともに助かった。船から見えた大きなパゴダはシュエダゴンパゴダといって、ビルマで一番立派で有名なものであるが、その横をぐるりと半周し回って行った。
このパゴダは近くに来て見上げると実に大きく、周囲に小さなパゴダを沢山従えた素晴らしいもので、目を見張った。輓馬で輜重車を引いてそこを通り市内を進み、夜八時頃ラングーン駿河台宿舎に到着することができた。
馬を近くの林の中に繋ぎ飼(かい)を与え、決められた兵舎に入って携帯する装具を片付け終わった時は深夜になっていた。
ここで五日間過ごした。軍馬の手入れ、兵器の手入れ、備品等の員数点検と整備を行なった。長い旅の後、しなければならないことは沢山あった。馬には青草を刈ってきて与えてやらなければならない。林の中に沢山の馬があっちこっちの木の幹に繋がれていた。もちろん屋根もなく小屋もない。
それを見張る当番を交替でするのだが、三日目の夜は私が当番になった。日暮れ前に皆が来て馬糧と水、乾燥の草を与え馬体の手入れをしてくれたが、作業をすますと皆は帰り、その後は我が班では私一人である。
班の馬は十七頭、この夜は雲が多く真っ暗だった。頼りはローソクの灯(あか)りだけで、一頭一頭の顔をのぞいて見る。ゆらゆらするローソクの灯りのせいか、どの馬も元気がなさそうだ。私は休むところがないので、土の上に腰を降ろしていると居眠りがつきそうになる。でも充分見張りをしなければならないので、立ち上がり繋いだ綱が解けないように見直しをした。ローソクも沢山ないので必要のない時は消していた。暗い夜で林の中では、どちらが馬の頭か尻か見当がつかない。
夜中、二時頃だろうか、ポツリポツリと雨が落ちてきた。困ったなあ、と思っている間に凄い雨になった。用意していた外套(がいとう)を着た。立ったままが一番よい。
薄い外套を通して雨が浸透してくる。外套の頭巾(づきん)に雨がザンザンと音を立てて降り注いでくる。
よく、バケツをひっくり返すようなひどい雨だと表現をするが、そんなことではない。ドラム缶の水を頭から浴びせかけられるようだ。
馬には覆う物等何もない。ずぶ濡れになってしまっているが、どうすることもできない。篠突(しのつ)くような雨は一層激しくなり、傾斜地を水が駆けおりて流れてくるのを足に感じる。真っ暗闇の中でどこがどうなっているのか見当もつかない。
馬が時々身震いをしている気配を感じる。私も馬もじっと我慢するより仕方がなかった。早速、ビルマの雨の洗礼を受けたのだ。これが雨期末期九月の雨だった。
先々この五、六、七、八、九月と続く長く激しい雨期の雨に泣かされ、多くの戦友が命を奪われることになろうとは思わなかった。雨期に対し、十、十一、十二、一、二、三、四月は雨は一滴も降らず、乾燥してしまい草は枯れ、灌木(かんぼく)は葉を落としてしまうような乾期となる。それ程気候の変化が激しい風土とは知らなかった。
◆ピュンタザの町に移る
四、五日後、ラングーンを離れ他所へ移動することになり、早朝より丸一日かけて、すべての荷物を兵站から運び出して、輜重車を分解し弾薬箱等多くの荷物を次々に、鉄道の貨車に積み込んだ。列車は機関車、貨車とも小型のものであった。馬も夕方になり天蓋(てんがい)のある貨車に引き入れ、順序よく並べて繋いだ。陸の上だけの作業なので、乗船時のウインチを使用しての作業に比べると楽であった。
しかし、長い踏み板を貨車の端に掛け、傾斜した板の表を馬に歩かせるのだから、滑らないように注意する必要もあり、少しの事故でも起こさないようにしなければならなかった。
積込み作業中、ふと見ると貨車の隅に小型のサソリが二、三匹うずくまっていた。用心用心。
馬に飼を与え厩当番を貨車に残し、我々はその晩は、疲れた体をかばいつつ駅の倉庫の中でごろ寝した。夜中に蚊がぶんぶんと顔を刺しに来たが、はねのけはねのけ眠った。
どこへ連れて行くのか知らないが、我々を乗せた貨車は、北に向かって走っているようだ。貨車の箱には左右に入り口の開口部があるだけで、全く風の入る所がない。日中は天蓋(てんがい)が焼けて暑いこと暑いこと、馬も同様に暑い思いをしているはずだ。山のない広い平野や田園の中を、おもちゃのような汽車は遅いスピードでコトコトと走って行った。
半日ぐらいしてピュンタザという町に着いた。マンダレー街道に沿った町で鉄道の機関庫があるちょっとした町だった。レンガ造りのしっかりした家や、木造でトタン屋根の家が多かった。そのような中程度の町であった。中心に大きな池のある町で、現地人は皆民族の衣装を着ていた。
この町の比較的良い家を借り上げて使用した。我々は異国の兵であるが、一つ場所に別に兵舎を建てて住むのではなく、地域混住のような状態で民家を借りて住んでいるので、町の人々に接する機会が多く、幾らかビルマ人の生活や言葉を見聞した。
この頃は、日本軍の勢力が強く、敵の飛行機はこんな普通の町を空襲して来ないので、安心して地域内に混住出来たのである。
◆当時のビルマについて
民家を借りているのだから、道を通るビルマの子供がやってくる。親しそうに「マスター」「マスター」と言ってくる。どこの国の子供も可愛いいものである。大人達も道を通っていて目を合わせると、にっこり会釈し「日本の兵隊さん、今日は」などと片言の日本語で挨拶をする。

初めて見るビルマ人は、男も女も大人も子供もみんなロンジといって、ちょうど女性の腰巻きに似たもので少し余裕のある筒状になっているものを、前の方で絞り大きく結んで腰に巻き付けている。別の紐(ひも)で縛(しば)っているのではなく、ロンジの端で上手に結んでいるのだが、決して解けて落ちるようなことはない。下には何もまとっていない。上半身にはエンジという、袖のついた薄手の上着を着ている。それだけである。
男のロンジは茶色等地味なものが多く、女のは赤や緑など派手なものが主で、エンジは白い布のものが普通である。普段の作業着とお祭りで着るものとは色も物も違う。また、上流階級の人の身につけているものには、絹地に金糸銀糸を刺繍(ししゅう)したあでやかなものもある。履物は普通、皮草履かサンダルのようなものを履いているが、子供達は裸足(はだし)が多く、大人も農夫等は裸足で固い足の裏をしている。
ビルマ人の大部分は、我々日本人や中国人と同じ黄色人種で、しかも日本人と殆ど変わらないような顔付きをしている。しいて言えば、我々が夏、日焼けしているぐらいの色で、中国系の人は美人も多くスリムなスタイルの人が多い。ビルマ人にもいろいろな人種があり、印度系の人は色が濃くそれなりの顔立ちをしている。だが、多くの人は日本人と似ているのでまず親近感を覚える。
ビルマは長い間英国の支配下にあったのだが、それを駆逐した日本人だということで、敬意をもって戦勝者を歓迎してくれているようでもある。日本軍もビルマ進駐当初より、軍規を守り決して現地人に対し悪いことはしないで、良好な親善と宣撫(せんぶ)工作の結果信頼されていた。
一般的に貧しいが、仏教国で皆が仏心を持っていて、素朴で好感が持てる。後で分かったことだが、民族の主流はビルマ族で、カレン族・シャン族・チン族など多くの部族、種族からなっているようである。
広い平野に恵まれ、米の大産地だが原始的農作業で、牛や水牛による農耕が主である。
田舎に行くほど住居はみすぼらしく、丸木と竹の柱に、竹で編んだアンペラのような物で周囲を囲み、屋根は椰子(やし)の葉で葺(ふ)いたものであった。寒い国でないから、これで住んでゆけるのだ。
日常生活の主な道具は、「オウ」という焼き物の瓶(かめ)で、これに水を入れて運んだり、米を炊いたり、おかずもこれで煮る等万能の器である。女の人が上手にこの瓶を頭の上に乗せ水を運び、また大きな籠(かご)を頭に乗せバナナやマンゴーを売って歩いたり、重い荷物を運んで行き来しているのを見た。
ビルマでは何と言ってもパゴダだ。ラングーンをはじめどんな田舎の町や村に行っても、大小様々なもの、金色に輝くものから白亜に引き立つもの、時には形の珍しいものなどがある。また、仏像が各地にあり様々な形や姿勢をしている。
それにポンジーと称する僧侶が多い。僧侶は地域の指導者で知識人であり、子供を集めて寺子屋式教育をしている。また男の子は一度は小坊主になって修養することになっている。朝は托鉢(たくはつ)に出るのが日課で、大人から子供の坊さんまでが一列に行儀よく並んで歩いているのを見かけた。僧侶が修行のためお経を唱えながら鉢を持って家々を回りご飯やおかず等の施しを受けるのだが、市民もお祈りの気持ちで托鉢に喜捨(きしゃ)をしていた。ビルマ人の心はこのようにして培(つちか)われてきたのである。
また、僧侶はすぐにそれと分かる黄色の法衣(ほうい)を着ているが、格別な地位と考えられている。法衣を女性には触れさせず、母といえども、その例外ではないことになっていて厳格なものとされている。
---以上は五十年余り前の戦争当時の状況であるが、現在は都市ラングーン(ヤンゴン)辺りは自動車も増え単車も走り、テレビも上層階級には普及しており、僅かではあるが高い建築物も建ち、変化している。しかし、その文明開化のスピードは遅く基本的に大きな変化はなく、民情はそのままのようである。なお、政情不安定を伝えられているが、早く平和で文化的な国として発展することを祈念する。
---戦争中、一部には日本軍に敵対行為をした者もいたが、ビルマ人の温かい心に支えられ、終戦後の二年間の抑留(よくりゅう)生活中も、陰になり日向(ひなた)になり、俘虜(ふりょ)の我々日本人を気の毒に思って助けてくれた。その気持と恩を忘れることはできない。これは私個人だけでなく生還した戦友達みんなのお礼の言葉である。
本筋に話を戻そう。ピュンタザの一ヵ月は空襲もなく平穏な日々が過ぎ、ようやく雨期も終わりに近づいた。
汚い話だが、便所に行き下をみると、その辺りで大きな魚が糞まみれになりバチャバチャやっている。今まで雨期で一帯の水溜まりの中を泳いでいた魚が、便所の辺りに来ている間に雨期が終わり、そこに取り残されてしまい、糞魚になって弱っているところだ。このように雨期には家の下まで水が来て、湖になるのだ。
その頃乾期を迎え火祭りが行なわれ、現地人が奇麗なロンジやエンジを着て集まってきた。ビルマの女性は髪にブウゲンビリヤの花を飾るのが好きで、若い女性の華やいだ姿もチラホラ見え、若者達も楽しそうであった。我々は見るだけで、中に加わる程の親しさにはなっていなかった。
どこの国でも、女の子は美しいものだと感じた。メロデイーに合わせて、日本語で「今日は〜楽しい〜水祭り〜水をかけましょう〜あの〜人に〜」と替え歌として歌われていた。こうして季節の変わり目を祝い、豊作を祈願するのだ。
私達のこの頃の楽しみは、鉄道機関区にある大きな風呂に入りに行くことだった。長い期間、水浴だけだったので、お湯に入りのびのびできたことは有難く忘れがたいことであった。以後ビルマにいた四年間でドラムカンで湯を沸かし入ったのを除けば、湯ぶねのある風呂に入ったのはこの時だけであった。
ある日、飛行機が一機飛んできた。「これは日本軍のだ」と誰かが説明した。頼もしく思い飛行機を見上げた。しかし残念ながら私は、その後ビルマにいる間中、友軍の飛行機を一回も見ることはなかった。このように次第に制空権を英印軍に握られてしまうのであった。
平日は内地にいる時と同じように、厩作業や馬運動をし、青草を刈ってきて与え、兵器の手入れをした。また時には士気の高揚(こうよう)図るため野外演習が行われた。
一ヵ所にまとめて炊事場があり、各班は飯上げにそこに行き持ち帰って分けて食べた。
ビルマ米は内地米に比べるとパサパサして味が落ちるが、だんだんと慣れてこんなものかと思うようになってきた。
軍服もぼつぼつ傷みかけ、膝こぶしの所が破れ始めたので、木陰の下で慣れない手つきで補修し、そのあとついでに洗濯をした。
「泥に〜まみれた軍服を〜洗う〜貴方の〜夢を見た〜、本当に 本当に ご苦労ね〜」という歌を口ずさみながら。我が家にいれば母親が針仕事も洗濯もしてくれるだろうなあと、思いつつ身のまわりのことをした。
そのあと多少時間もあり、ビルマに来て初めて軍事郵便の葉書を書いた。両親や、勤務先の東京の会社を始め、米沢の彼女 西澤とよ子さん、内田富士雄君の浦和の家等に送った。検閲(けんえつ)があるので元気にやっていると近況を知らせる型通りの文面にしかならないが、心の中では本当に懐かしい思いを込めて書いた。
◇移動は続く
◆モダン村お寺の境内
その後、十月上旬には移動が命じられ、再び汽車輸送でヘンサダへ行き、そこから河を渡ることとなった。大きい舟がないので馬を泳がせて幅三十メートルぐらいの河を渡ったが、馬も初めてのことで馴れない泳ぎは下手だが一生懸命に泳いだ。小舟に乗った兵隊が手綱を持って誘導し勇気づけてやり、やっと渡ることができた。また、蚊の大群に襲われ眠ることもどうすることもできず、一夜を明かしたことなど、苦しい旅を三、四日続けて後、田園の真っただ中のモダン村という平和な部落に着いた。
我々十二班はお寺の境内の一棟を借りた。他の棟には僧侶や中学生や小学生ぐらいの子供の坊さんが大勢住んでおり、朝夕のお勤めをしていた。我々も一層軍規を厳重に守るよう注意した。同じ境内なので井戸は共同使用で、水浴もお互いに時間をずらしてきまりよくした。広い境内の離れた林の中に馬を繋いだ。
大人の坊さんも青年の坊さんも子供の坊さんも、日本語をよく勉強している様子で「馬を叱らずに一草を与えよ」と標語を書いておくと、それを読むようになっていた。戦いに勝った国の威信は大したものだと思うと共に、僧侶が知識人の上位にあると言われているが、まさにそうだと実感した。
収穫時を迎えた広い平原の田んぼ一面に稲がたわわに実っていた。さすが米の国ビルマであると感じた。
その頃「敵の空挺(くうてい)部隊がグライダーの大編隊で、日本軍の守備の薄い地帯に一気に降りて来るから警戒を充分するように」とのお達しがされたが、この辺りでは全くそんな気配は感じられずのんびりしていた。
◆歩哨(ほしょう)に立つ
深夜一人で歩哨に立って静かに澄んだ月を見ていると、いつしか私の心は内地へ帰っており、内地の月も同じように出ているだろうにと思った。星が美しいが、ここは南に寄っているので内地で見る星座とは少し違う。遥か南の地平線の上に南十字星が十の字をかたどり、サソリ座も大きく端から端まで姿を見せて輝いていた。
今頃家では何をしているだろうか?田舎の小学校の校長として父は、戦時下の教育に苦労しておられるだろうなあ。
母は父の任地の学区で官舎に住み、地元の人との融和に努め、内助する立場だが、わが親ながら素晴らしい人柄だから、きっと円満にやっておられるだろうと信頼している。何にしても物資が無い時勢で苦労されているだろう。妹は学校の寮に泊まり勉強しているが、食物が少なく、それに勤労奉仕で苦しい目にあっているのではないか?と思い巡らすのであった。
私が学生生活をした山形県米沢市。下宿させてもらった西澤家には大変お世話になったが、戦時下で物資の欠乏はそこにも及んでいるだろう、どんなにされているだろうか。とりわけ、ほのかに思いを寄せていた言葉の綺麗なとよ子さんは、当時県立女学校(現在高校)へ一番で合格できたと、お母さんが喜んでおられたが、もう女学校の高学年になり、娘らしくなったことだろう。才媛の面影が懐かしく思いだされてくる。その彼女も今頃はモンペ姿で、勤労奉仕に駆りだされているのだろうか。
青春時代、学生時代を過ごした所は誰にとっても懐かしい所だ。紅葉の吾妻(あづま)山、松川の清流、山並みに輝く雪景色、上杉神社のたたずまい。それに私は米沢市民の礼儀の正しさと人情の豊かさ、親切な心を忘れることはできない。
また、学友達殆どの者が軍隊に入り、気合いを入れ頑張っているだろうが、どこでどんなにしているか?お互いの消息も無いが皆の顔が浮かんでくる。
一年間勤務した東京無線電機株式会社の川添課長や斉藤係長を初め、先輩、同僚達はどんなにされているだろうか?私の手がけた軍用無線機は実用化され活躍しているだろうか?
いつまで、このビルマの地にいなくてはならないのだろうか?丈夫で再び内地へ帰れる日がくるだろうか。戦争に勝って早く帰れればよいが、そうなれば、あの会社に勤め、うんと仕事をするのだが。それから西澤とよ子さんにどのようにして自分の気持ちを伝えようか、などと空想を描いてみるのである。
内地を出発以来、新聞もなければラジオもなく太平洋戦争がどうなっているか全然分からない。
ただ、戦争は容易には終わらない、戦い抜かなければならないらしい。どうも暗雲に閉ざされているようで明るさが感じられない。しかし、負けるようなことはあるまいと、自分に言い聞かせるのである。とにかく、我々はしっかりビルマで戦うのだ。そうすれば、いつかは帰れる日が来るのだ。そんな思いが頭の中で、どうどう巡りをする。
歩哨(ほしょう)に立って、誰にも邪魔されず、このように過ぎし日を懐かしみ、現実を肯定し、自分をいたわり将来を描いていると、交替の兵隊が来る。「不寝番交替(ふしんばんこうたい)」「異常なし」「ご苦労さん」と瞑想(めいそう)は破られる。
こうして、比較的平穏な日々が過ぎていった。しかし鉄道が爆撃を受け直径十メートルもある大きな穴があいているのを見た。この頃から敵の爆撃がビルマの中部平原に対して、ボツボツ始まったようである。このお寺の敷地に宿営したのは二十日ばかりで、また移動した。
今度は鉄道利用、徒歩行軍、その後イラワジ河の支流を舟に乗ってさかのぼり、三日ばかりかけて次の部落レミナへと進んで行った。
◇レミナの町
◆中隊本部通信班へ所属
この町はアラカン山脈の南端山麓(さんろく)の東方二十キロに位置する平地の中にあるのどかな町であった。レミナに到着した頃、中隊本部に、指揮班とは別に金井塚中隊長の側近に通信班が編成され、師団司令部と無線で連絡をとるようになった。通信士、暗号士達が師団司令部等から派遣されて来た。
溝口通信班長、清水通信士兵長、平松通信士上等兵、三枝(さえぐさ)暗号士上等兵、原上等兵、中隊長当番構(かまえ)一等兵、それに無線機器に詳しいということで私、小田一等兵が選ばれ配置された。
中隊本部の全員がいる建物とは少し離れた所に、大きな屋敷の上等な民家を借り上げ、無線アンテナを張りこの八人で一つ屋根の下で日常生活をすることになった。
金井塚中隊長は陸軍士官学校出身のエリート大尉で、公式の場で全員に号令をかける時の威厳は素晴らしく、近寄りがたいものがある。我々兵隊からすれば雲の上の人で、めったに言葉をかけてもらえるものではない。
しかし、起居を共にし八人で毎回食卓を囲んで一家だんらんの形で話していると親しみも増し、中隊長からも内輪的な話や冗談も飛び出し、和やかな雰囲気をかもし出すのである。逆に言えば、トップに立つ人の孤独をいささかでも慰(なぐさ)めることができたのではなかろうか。その頃、内地から何個かの慰問袋(いもんぶくろ)が届き、中隊長が受け取ったその中に、松竹の映画女優水戸光子のプロマイドが入っていた。中隊長は独身でパリパリの最中で大いに喜び、我々にも見せてくれ楽しんだものだった。
二、三日後の夕食の時「今日、この家の持ち主のビルマ人に、このプロマイドを見せ、これが俺のワイフだと言って紹介してやったら、ミヤージカウネー(大変よい)美くしくきれいだ、素晴らしい奥さんを持っておられ幸せだと言ってくれた。たわいのない嘘(うそ)がうまくいった」と話され、明るく「ワッハッハッ。ワッハッハッ」と笑われたものだ。
その頃ビルマのお祭りがあり、奇麗な衣装をまとった婦人が大勢出て、舞ったり踊ったりして楽しく平和でのどかだった。また部落の運動会があり、我々兵隊も参加するなど良い雰囲気であった。
部落民は、中隊長がトップであることを知っているので、この通信班の所へよくビルマのご馳走を作って持ってきてくれた。中隊長のおかげで我々もご馳走を一緒に頂いたが、食うことが楽しみな兵隊には嬉しいことであった。この間、幾らかのビルマ人とも言葉を交わし接触することもできた。また、軍票で買物ができ、現地たばこのセレーや、バナナ、マンゴウ等を買って食べたものだ。ビルマでの戦争中の二年と戦後抑留中の二年の計四年間を振り返って見て、レミナでのこのような生活が一番楽しい時であった。中隊長や溝口曹長(そうちょう)など中隊首脳の方と一緒に住み可愛がって頂き、戦況も穏やかな良い二ヵ月余であった。
---しかしその後の惨憺(さんたん)たる転進作戦で、八人の内五人が戦死され、復員できたのは溝口指揮班長と構(かまえ)兵長と私の三人だけだった。その構君は爽やかな人間性を備え、戦争中も立派な働きをし、復員後も元気で我々ビルマ会の世話をしてくれていたが、四年ばかり前に亡くなられ、今では語る相手は溝口さんと私だけになり、しみじみと寂しさを感じる。皆様のご冥福をお祈りし感慨無量、時は遠くへ流れ去ってゆく。
中隊本部は、このようにレミナに位置していたが、各小隊は当時南部アラカン山脈を横断し、クインガレーから、インド洋側にあるグワ地点に向かって輸送業務を開始していた。険しい山道で、車は使用できず、馬の背中に荷物を乗せて運ぶ駄馬方式で、苦労し、全行程八十キロを六区間に分けて逓送(ていそう)していた。
その頃通信班長の溝口曹長の提案で、第一中隊の新聞を発行しようということになった。皆が一ヵ所に集まれないのでせめてこれにより情報を伝達しようというのである。私に原稿を書くように命令された。新聞といってもB四版で一枚ぐらいのものであった。それをガリバンで刷って各小隊各分隊に配布するのである。
ある時、我が中隊が輸送業務をやっている前線の山中に虎が出るという情報が入った。こちらは武装しているし鉄砲を持っているのだから、その内、虎を仕留(しと)めるだろうと、興味本位に原稿を書いた。
溝口通信班長に見てもらい、いよいよガリバンにかけ印刷し終えた所へ班長が、急いで帰ってきて「新聞はまだ配ってはいないだろうな」と尋ねられた。
「まだです」と答えた。「そうか、それでよかった」「虎が出て兵隊がやられたり、闇夜に出てきて大変らしい。興味本位の記事は差し控えたほうがよい状況だ。もっと深刻な様子らしいぞ」とのことで、その時の配布は取り止めになった。
その後通信班もその輸送ルートの山の中、虎の出没する地点に前進して行った。当時通信班には馬がいないので、現地の小型の牛二頭に引かせる牛車に装具一式を乗せ、山坂や谷を渡りやっとたどりついた。
ここは、本当にみすぼらしい竹で出来た家が五、六軒あるだけの山の中であった。我々通信班も野宿はできないので竹で小屋を造り、虎に備えて周囲を竹の塀で固めた。実際は気休めで、虎が入ろうと思えば、一たまりもない粗末なものであった。輸送を担当する分隊や班がこの近くにも分散して竹小屋を造り休んでおり、馬は近くの林に繋(つな)いでいた。この付近にいる四十人程のために共同炊事場もあり、まとめて飯とおかずを調理してくれていた。輸送班は我々通信班がここへ来る以前から奥へ奥へと山深い中を輸送していた。
◇アラカンの虎
◆虎を捕る仕掛け
我々第一中隊は、昭和十八年十二月から十九年二月頃まで、南部アラカン山脈を横断し、クインガレーからグワへ向かって弾薬、食糧等を輸送する任務を帯びていた。
グワには兵兵団(つわものへいだん)の岡山歩兵聯隊第三大隊(畑大隊長)が警備に就いており、その部隊に補給をしていた。片道歩いて五日ぐらいの山また山の中の道、雑木が茂る細い道を、馬の背中に荷物を乗せて運んでいた。
その間、民家は無く、毎日野宿で山の中にごろ寝をしていたが幸い乾期であった。その頃、現地人から、このあたりに虎がいることを聞いてはいた。
しかし、我々は多勢でいるから心強いし、虎がおれば射ち殺せばよいと思い安易に考え高を括(くく)っていた。夜もみんな平気で無防備のまま露営しごろ寝をしていた。
そのうち、虎が出てくることが分かり虎を獲ろうということになった。虎が通る道と思えるあたりで真夜中に大火を燃やして待っていた。虎は火を嫌うということで、火を焚(た)きそれを十人ぐらいで囲み、みんな外側を向いて、虎が来るのを警戒しつつ虎を獲ろうと銃を持ち弾を込めて待っていた。でも暴発しては危険なので安全装置のみはセットしていた。
「虎の肉はうまいだろうか。皮はどうするか?」等と捕らぬ狸ならぬ、虎の毛皮の胸算用をした。
「虎は死して皮を残すというぐらい、貴重で高価なものと聞くが、どうするか?」等という話の最中に、誰かがたばこの火をつけようと火の方に向いてしゃがみ込み、背中を外側にした。
虎は人間の隙を狙っていたのだろう。瞬間、その兵隊めがけて闇の中から突進してきた。
すぐ隣にいた兵隊がとっさに銃を突き出し構えた。勢いよく駆けてきた虎は急に止まったかと思う間もなく反転して、もと来た方向に駆け出して逃げた。突風のような一瞬の出来事であった。
安全装置を解除し発射したが、もう虎はどこへ逃げたか分からない。闇夜に鉄砲とはこのことで、当たるはずもない。
このように、虎が近くに来ているのに人間は何人いても全く気づかないが、虎は夜行性でじっと人間の様子をうかがっているのだ。相対して構えれば来ないらしいが、隙を狙って襲いかかるものだと分かった。
◆虎による被害
ある日の夜中に馬の啼(な)き声がおかしい。馬は本能的に虎の気配を感知するのだ。馬当番の兵隊は、馬の様子から虎が近くに来たのではないかと感じて、当番兵二人のうちの一人が薪を燃やそうとしてしゃがんだ。その途端虎は後から隙のできた笹山一等兵の首に一撃をくらわした。気絶したか即死したか分からないが、虎は彼を口にくわえて逃げていった。
明くる日、私達十名ばかりが銃を持ちその後をたどり死体収容に行った。野原の草に血がポタリ、ポタリと滴り、虎は兵隊をくわえたまま二メートルもある崖を跳び上がり跳び降り、谷川を渡っていた。
ビルマの虎は大きく小牛でもくわえて逃げると聞いていたが、人間の一人やそこら軽々と、猫が鼠(ねずみ)をくわえたぐらいに走っていた。
虎は山を登り谷を跳び越え、密生した雑木の中を潜り抜けていた。昼間は人間も目が見えるし十人もの目があるからと思ったがそれでも不気味(ぶきみ)だった。大きい山を二つ越えて行くと途中に彼の着けていた卷脚半(まききゃはん)や被服の破れが灌木に引っ掛かっていた。雑草が踏み倒され通った後ははっきり分かった。竹薮(たけやぶ)を通り抜けその奥の茂みの中に無残に食いちぎられた笹山清一等兵の死体があった。彼は私の隣の班で精勤に働いていたのをよく見かけていたのに。
肉が裂け、血が流れ出て余りにも悲惨で見ていられなかった。我々は泣きながら彼の遺体を携帯テントに包み持ち帰り火葬にした。
数日後、こんどは現地人が虎に殺された。その死体を直径四十センチもある大きな木の根元に置き、八メートルばかり上の枝の分かれた所に櫓(やぐら)を組み、明るい内に四人が登り夜になり虎が食残しの死体を食いに来たところを、上から射とうと段取りをして満(まん)を持(じ)していた。
四人はそれぞれ小銃を持ち弾を込め、暴発を防ぐため安全装置をし、いつでも撃てるように準備していた。夜十一時を過ぎ十二時になっても虎は来ない。月も落ち夜が更けて、みんなうとうとし始めた。
その時、虎は一気に大木に飛びつき駆け登り櫓に足を掛け、松本節夫一等兵の太腿(ふともも)に爪をたてた。彼は引き落とされないように木の幹にしがみついた。久山上等兵がとっさに銃を構えたが、慌てているので安全装置が解けない。虎の大きな頭、ギョロリと光る大きな二つの目玉をすぐ目の前にして、動転しながらも銃口で虎の頭を叩いた。虎は構えられたのでスルリと一瞬大木の幹を飛び降り音も無く走り去った。やっと安全装置を解いて撃ったが、むなしいわざである。
虎は食べ残しの死骸を食べるより、生きている人間を襲ってきたのだ。それにその高さまで跳び上がることができるのには驚くばかりである。結局一人の負傷者を出してしまった。松本一等兵はその傷が深く、黴菌(ばいきん)が入ったのかガーゼが太股を通り抜けるようになり、後方の病院に送られたが、その後彼のことは分からない。
◆虎の恐怖
そんなある日、竹で造ったあばら屋で、屋根は椰子(やし)の葉を並べただけの宿舎へ、夜中に屋根から虎が飛び込んで来た。床は竹を割って並べたものだから、ふわふわで太い虎の足を挟み、蚊帳(かや)が虎と人間に巻きつくという騒ぎが起きたが、幸いにして怪我人もでず、虎もびっくりしただろうが逃げていった。
それからは、虎が出そうだとか出たとなると、皆で「ワッショイ、ワッショイ」と大きな声で叫び毛布をバタバタ振り上げて、大きく見せることにした。なお、それ以後は不寝番も外に出ないで、あばら屋ながら家の中におるようにした。
私も時に不寝番をしたが、鹿に似た動物のノロの啼く声をよく聞いた。誰かが虎に追われて啼いているのだと言っていたが、虎が近くに来ているかと思うと、気持ちが悪かった。また、静かな夜中に、小動物が動くのか落葉がカサコソと音を立てると、虎が足音を忍ばせて来ているのではないかと、不気味な感じになったものだ。
ある日の朝「昨夜は馬の様子がおかしかった」と誰かが言った。草原や普通の土の上では虎の足跡は殆ど残らないのに、炊事場近くの土間が洗い水で濡れ軟らかくなっていた所を歩いたのであろう、足跡が窪(くぼ)んでついていたが、足跡全体がはっきりとよく見える程ではなかった。虎はその後すぐに炊事場の大鍋の中を歩いたのだろう、奇麗に洗ってある鉄鍋の中に一個だけ土に汚れた足跡が鮮明に残っていた。大きな足跡で直径二十センチもあった。猫の足跡と体の大きさから比較すると、この足跡だと大変大きな体をした虎であることが想像できた。子牛でもくわえて逃げると言われているが、そのとおりだと思った。
飛行機による爆撃銃撃も恐ろしいが、音がするので分かるし逃げる間がある。けれど虎は音もなく、闇の中から直接人間めがけて襲って来るから恐ろしい。虎は一夜に千里(四千キロ)を走ると昔から過大に言われているが、疾風のごとき早業で、全く夜の魔物である。
他にも虎の被害を幾つも直接見たり聞いたりした。当初虎を捕ろうと意気込んでいろいろ仕掛けをしたが、私の中隊では結局虎を獲(と)った武勇伝は聞くことがなく悲しい被害を被っただけであった。大分後になって他の部隊で、自動車のヘッドライトに幻惑され、虎が轢(ひ)かれたことがあったと聞いた程度である。それ程虎を獲(と)ることはむずかしく、被害ばかりが出て本当に恐ろしかった。
◇マラリヤの始まり
◆谷田君の場合
虎に悩まされている頃、私と一緒に二月十五日に召集で入隊し、同じように金井塚隊に転属してきた谷田一等兵が、マラリヤに侵され毎日高熱で次第に弱っていると聞いた。
我々が今まで一般に聞いていたマラリヤは、二日熱とか三日熱とかで、高熱が出ても出たり引いたりし三日、四日苦しむが、薬を飲み治療し休んでいると、その内大抵治る種類で、死ぬことはないと思っていた。
しかし、ビルマには悪性のマラリヤがあり、元気な人も急に悪寒(おかん)に襲われ、一気に四十度を越す高熱が出てそれが連続して下がらない。何も食べられず水ばかりが飲みたい。薬は今更飲んでも効かないし下痢も始まる。一週間ばかりすると高い熱のため脳症を起こし意識が無くなる。後は三、四日生きているだけで終わりとなる。極めて恐ろしい種類のマラリヤがはびこっているのだ。
私はその時悪性マラリヤのことは知らなかったが、谷田君の熱は悪性マラリヤだったのだ。彼は松江の出身で二十七歳、早大を出てこれまで大手の商社マンとして東京にいたとのことでインテリであった。入隊直後の寒い日の訓練中に彼がポケットに手を入れていたということで、殴られるは蹴(け)られるはで大変絞られたことがあり、あまり軍隊が厳しいので驚き、気の毒に思ったことがあった。
隣の班だが、その時から彼をよく覚えており親しくしていた。そんなことで、私には「これが結婚して五ヵ月目の新妻の写真だ。これが二人で撮った最近のものだ」と言って懐かしみながら見せてくれていた。人生において最も楽しい時でもあり、前途に大きな希望を持っていたことが伺われた。「早く内地に帰りたいなあ、そして会社でウンと働きたいなあ」とよく語っていた。
彼は知識人であり軍事訓練等もよくできるのだが、生意気で真面目でないように古年兵に睨(にら)まれたのか、班内でも気の毒だなあーと感じることがあった。いわば軍隊向きではなく、むしろ文化人で常識家であったのだろう。
その彼が今悪い病に苦しめられているのだ。早速見舞に行くと彼は弱い声で「小田よ、病気だけにはなるなよ。病気したら辛いよ。俺のはマラリヤらしいが、お前も蚊には気をつけなければいかんぞ」と言って注意してくれた。「有難う」と答えたが、私にはマラリヤがどんなものか、悪性マラリヤがどれ程厳しいものかまだピンとこなかった。「元気を出すんだぞ、頑張れよ」と手を握った。高い熱のため熱い掌であった。
三、四人の患者が、ここから後送されることになった。鉄の車輪で出来た輜重車に乗せられ、悪い凸凹のガタガタ道を揺られて行くのである。落ちないように縁に板囲いをしてあるが、鉄の車輪だから直接こたえる。病人を乗せるような車ではない。
しかし山の中で乗り物はこれしかない。輜重車よりは歩いた方がましかもしれない。毛布にくるまって行く谷田一等兵に、無理に大きな声で「後方の野戦病院に着けば薬もあり、看護もよくしてくれるからきっと治るよ。頑張ってこいよ」と激励した。しかし本心、そんな行き届いた野戦病院があるだろうかと不安な気持ちで見送った。
谷田君の身の回りの品物は、少ししかなく、奉公袋(ほうこうぶくろ)と書いた青い袋が目についた。御国のために奉公するとの意味で名づけられたこの袋、国のために働きたいと思っているのに病気になり残念に思っているだろう。この袋の中にあの楽しそうに撮った新妻の写真も入れているのだろうか。いや、もっと体に近い肌の温もりが伝わるポケットに抱いているのだろう。ガタリと音を立て車は動きだした。心より全快を祈った。しかし、願い空しく二週間の後に、小さな骨壷に入れられて彼は中隊に帰って来た。
冷たくなった固体が谷田君だ。発病以来二週間、何を考えどんなに苦しんだことだろうか。戦争に勝って凱旋(がいせん)し、打ち振る日章旗に迎えられたい、楽しい家庭を築きたい、もう一度内地の土を踏みたい。それが叶えられないのならば、せめて華々しく戦って、散りたいと思ったことだろうに。次第に悪化する病魔に抗することもできず涙も出ない苦しい気持ちで逝ったことだろう。
ちょうど一年前の二月に入隊した当時の姿が二重写しとなり哀れをさそった。この遺骨は内地に送還されたが、戦況悪化の折、無事遺族の元に届いたか否か私には分からない。
このクインガレーからグワに向けての困難な駄馬による輸送業務、虎との戦いも終わるのだが、その間に数人の犠牲者を出した。
馬も内地とは異なる気候で馬糧も乏しく重労働。鼻カタルになって鼻から鼻汁を引っきりなしに出し弱っていく病気になったり、せ・ん・つ・う・(激しい腹痛)で、立っている力もなくなり倒れ苦しんだり、いろいろな熱帯の病気で数頭死んだ。
馬は本当に利口な動物で人間の愛情によく馴(な)れ、一緒に生活してきたのに可哀相でならない。戦争がなければ住み慣れた田舎で平和な日々を送っていただろうに。
我々兵隊は、馬のために随分苦労もさせられた。しかし切っても切れない間柄となっている。馬が悶(もだ)え死んで行くのを見ると哀れでならない。馬はどんな気持で息を引き取っておるのだろうか、馬は馬なりに死が分かるのだろうか、可哀相で痛ましい。
◆第二小隊十二班に帰る
三月上旬、命令が下り移動が始まった。山を下りクインガレーから後方に退き、懐かしいレミナの町を通り抜け、ヘンサダの町に来た。その間四日間の行軍が続いた。
その頃、通信班が解散したので、私は金井塚中隊長や溝口班長と分かれて、中隊本部から元の瀬澤小隊の自分の班に帰ってきた。その時、寺本班長は他所に転属し、古参の戸部兵長が班長に任命されていた。
行軍は、輜重車に我々中隊の装備を乗せ馬に引かせて行った。ここしばらく山の中で幾らか標高の高い所にいたので余り暑くなかった。しかし、遮蔽物(しゃへいぶつ)のない平地の道路では日中の暑さはやはりこたえた。南部アラカンの山から降りて、久しぶりに見る町の様子は、子供達が元気で遊び若い娘達が奇麗にしており、なんとなく和やかなものを感じた。
以前から、ビルマでは日本軍は軍紀を正しくしており、現地人からひ・ん・し・ゅ・く・をかうようなことは一切していない。娘さんを見ても、ひやかすようなこともせず、秩序正しい兵隊として行動していた。けれども、久し振りに見る女性の優しい姿に思わず目がそちらの方に向くのは仕方のないことであった。
◇輜重本来の輸送業務解除
◆馬や輜重車両全部を他部隊に渡す
ヘンサダに一週間いたが、私の所属する第二小隊は、その間に他の部隊に車もろとも(各班に一両づつ車を残し)、馬も全部渡すことになった。どんなことでこのようになったのか知らないが。一日がかりで最後の点検整備を行い、申し送りに必要な準備をした。
思えば去年六月以来、共に苦労してきた馬とも今日限りお別れかと思うと胸を締めつけられるものがあった。
馬も、知らない兵隊に使われるのだから馴れるまで辛いことだろう。どこに連れて行かれるのか分からないが、北部ビルマ方面の輸送に使われるとのこと、あまり苦しい目に遭わなければよいが。馬にとってこの暑い国、病気の多い国で、山また山、道なき道を、馬糧も無く、重荷を運び戦うのは辛く苦しいことであろう。思っただけでも可哀相である。
おとなしく利口な愛馬「金栗(きんくり)号」も連れていかれる。私は自分の馬に髭面(ひげずら)を摺(す)りつけ、首を撫(な)で、たてがみをといてやり、しばし別れを惜しんだ。馬は賢い動物だから、すべてを感じているはずである。惜別の情堪え難いものがある。瀬澤小隊百頭の馬よさようなら!元気でやれよ。涙 涙 涙 ああ・・・・
こんなことになって馬と別れるとは、夢にも思わなかった。
引渡し業務がすむと、その次の日から厩作業が無くなり気が抜けた。今まで一日たりとも一食たりとも欠けることなく、餌を与え水を飲ませ、馬体の手入れをしてきていたのに、急にいなくなると寂しくリズムが狂ってしまう。馬の世話は大変だったが、いなくなると虚脱(きょだつ)感で放心したようだ。
◆プローム方面に向う
馬の引渡しがすむと二日後には、また移動出発だ。汽車に乗せられたが今度は今までと違い自分の装具と小銃等携帯の兵器だけなので簡単だ。夕方ヘンサダの駅を出発し夜が明けると、広い平野の中を列車は走っていた。
所々に森があるが、そこが集落や町である。かなり大きな町の駅に止まった。ビルマ人が「マスター マスター」 「セレー、バナナ、マンゴウ」と言って、物売りにやってくる。頭の上に竹で編んだ籠を乗せ、その中にそれらを入れており器用に持ち運んでいる。
私が、ビルマ言葉で「ベラウレ、パイサンベラウレ」お金はいくらかと聞くと「これ五十銭(ゴジツセン)、これ一円(イチエン)」と答え商売になる。ビルマでは日本軍の発行する軍票が通用するので欲しい物が買えるようになっていた。
軍隊でも階級に応じ給料が支給され、我々兵隊にはほんの小遣い程度だがこの軍票が支給されるので、それで買物ができたのだ。
セレーは現地たばこだが、内地の桑の葉のようなものに、たばこの軸とたばこの葉を刻んで入れ、万年筆ぐらいの大きさに巻き乾かした代物である。桑の葉と見えるのもたばこの葉かも知れないが。
用心して吸わないと火の粉がポロリと落ち服に穴があく恐れがある。でも日本のたばこの配給は殆ど無いので、兵隊はこれを買ってよく吸うたものだ。その他にも、トウモロコシの鞘(さや)のような物にたばこの葉を詰めこんだ大きい形の物などいろいろなたばこがあった。あまりうまいたばこではなかったが、そんなことは言っておられなかった。
バナナもいろいろの種類があり、美味しいもの、あまり美味しくないもの、大きいもの小さいもの、種のあるもの、種のないもの等があった。台湾の高雄で食べた程美味しい物はなかったが、我々の命を救い元気をつけてくれたのはこのバナナであった。また、ドリアン、マンゴウ、パパイヤなど熱帯の果物が元気をつけ命を繋ぎ、よみがえらせてくれたのだ。
貨物車の入り口の扉を開けて空気を入れているが、天井の鉄板が焼けつき暑くてたまらない。しかも停車中は風が入らないので特に激しい暑さとなる。いつ発車するか分からないので、降りても汽車の近くを離れることはできない。
列車が走り続ける。どの町にもどの村にも、大きいパゴダや小さいパゴダが、金色に、または真っ白に、美しい姿で建っている。村は貧しいがお寺はしっかりしており、しみじみ仏教の国であることを知らされる。
しばらく行くと、焼けたばかりの大きな町に差しかかった。三、四日前焼夷弾(しょういだん)で焼野ヵ原となっていて、まだくすぶっている所もあり、焼け残りの柱が黒焦げのまま立っていた。しかし、幸いに鉄道線路はやられていなかった。
午前十時頃になって空襲警報が発令され、列車は平野の真ん中に止まった。みんな跳び降り、線路より横方向百メートルぐらいの所にある木立の中に隠れた。幸いに敵機は来なかったので、再び列車に乗り発車した。午後四時頃プロームという駅に到着したが、そこにはホームがあるだけで駅舎等何もなかった。
プロームの町を歩いて行くと、ここも最近の火災で、黒焦げの柱が立ったまま残っていた。かなり大きな町が、無残な灰燼(かいじん)の町と化している。住んでいた現地人はどうしているのだろう、近くに全く人影は見えない。
この町はビルマ西部を流れる大河イラワジの中流部の左岸に位置しプローム鉄道の終点である。
また、ラングーンからここを通り、更に北に伸びていく幹線道路プローム街道の中心地に当たり、ビルマで屈指の人口を持っている。それに、ここからイラワジを渡りアラカン山脈方面へ行く渡船場でもあり、非常に重要な地点である。その町の中心部分をこのように焼かれているのだから、敵の勢力が次第に伸びて来ていることがよく分かる。
◆シュエーダン お寺の屋敷に駐屯(ちゅうとん)
我が中隊はこのプロームの町並みを通り抜け南へ二時間ぐらい歩いた。このあたりはもう長い乾期のため、草は枯れて茶色になり、落葉樹の木からは葉が落ちてしまっていた。内地の秋を思わせる光景の所を過ぎ、大木の茂る森に到着した。
そこには大きなお寺の屋敷があり、それに続き広い森林があった。このお寺の大きな講堂に泊まることとなり、ようやく落ち着いた。
このあたりには、何百年も経った小さなパゴダや、古い壊れかけの仏像が沢山あり歴史のある地方であることが偲(しの)ばれるが、戦争中の仮の宿ゆえ情緒を楽しむ間はない。ここでも馬がいないのですることが無く、体操をしたり班ごとに相撲をしたりして体力と健康の維持に努めた。
中隊全員の約三分の二程度二百五十人ぐらいがここに集結していたが、ある日、全員で会食をした。会食と言っても何もない、各自飯盒(はんごう)を持ち寄り一堂に会して飯を食べ、顔合わせをしたというだけのことであった。しかし、川添曹長が、これまでの苦労をねぎらい、「今後何が起きるか分からないが心身の鍛錬をしておけ」との挨拶をされた。軍隊としては珍しく、和やかな雰囲気をかもしだそうとしたようであった。予定通りの進め方だったのか、下士官の誰かが詩吟をした。続いて田舎歌手の山下一等兵が流行歌を上手に歌った。次第に場が和(なご)み拍手もあった。
次に誰も現われてこない。これだけでは少し寂しいなあ、どんな進行をするのだろうか?と思っていたら、中隊本部の中村伍長の大きな声がして、「第二小隊の小田上等兵やれ」と声がかかった。一瞬ドキリとし、困ったことになったと思った。「いないのか、早く出てこい」と再度声が飛んできた。
もう仕方がない、立ち上がり「ハイ」と答えた。何を歌おうかと思案したが、この場は軍歌ではなく流行歌で軟らかく歌うのがよいと思った。よし映画「愛染(あいぜん)かつら」の主題歌「旅の夜風」を歌おうと決心した。
「花も〜嵐も〜踏み〜越えて〜〜行くが〜男の〜生きる道〜」と大きな声で一生懸命に歌った。
拍手があったかどうか覚えていないが、とにかく責任を果たしてホッとした。
中村伍長は、川添曹長の下で庶務や人事係の仕事を直接やっており、つい最近上等兵の選考をしたらしいから、その時私の経歴や教育期間中の成績、また中隊本部通信班に所属した最近二、三ヵ月の評判等をよく承知していて、少しでも皆にアピールしてやろうとのとっさの気持ちから、指名してくれたのだろう。後から考えると涙が出るほど嬉しく有難かった。余程のことがない限り末端の兵隊にこのようなチャンスが与えられることはないはずなのに・・・・
そのうち、空襲の回数が次第に増え、ある日焼夷弾(しょういだん)により、近くで山火事が起きたので火消しに行った。川添曹長について行ったのだが、長靴を履いているから足が重いはずなのに早く走る。さすがに現役の曹長、気合いが入った人だと驚き感心した。
このお寺の敷地内には、他の部隊も来ており、見知らぬ兵隊とすれ違うことがあった。最近内地から来たのだろうか、彼ら二等兵が私に対して先に敬礼するではないか。照れくさかったが受礼した。初めての出来事だった。そうだ自分はつい最近上等兵になり三っ星をつけているからだ。軍隊に入ってからこのかた、敬礼はいつもこちらが先にするものだと思い込んでいたので、面食らった格好だ。『星の数』とはよく言ったものだ、ここは星の数がすべてを決める社会なのだと実感した。
しかし、同じ中隊の中では顔はよく知っているし、同期のものが少しぐらい早く上等兵になったとて、誰も敬礼などしてはくれない。野戦ではそんなことを言っていられない。我々の部隊に新兵が約一年遅れて補充されて来たが、ほんの小人数なので、我々はいつまでたっても最下位にランクされた兵隊だった。年が経ち、星の数が増え上等兵になろうと兵長になろうと下が来ないので立場は変わらなかった。
プロームの町を目指して敵機がまたも夜八時頃爆音をとどろかしやって来た。真っ暗だから何機いるのか分からない。爆音の響きから四、五機は来ているのだろう。急にパアッ、パアッ、パアッ、と照明弾を次から次にと落とす。十個ぐらいもあり落下傘(らっかさん)に吊るされているので、ふわり、ふわり、ゆっくり落ちて来て地上を明るく照らす。その明るさは六キロ離れたここでさえ影が映る程だから、真下は非常に明るく照らされていることだろう。不謹慎(ふきんしん)なことだが一瞬、美しい眺め、珍しい光景であるとさえ感じさせられた。
ここプロームは、日本軍の兵站基地で、弾薬、食料、衣類等が集結されているので、敵は執念深く攻撃してきているのだろう。
地上を照らし、建造物を確認しておいてから焼夷弾や爆弾を投下するのだから仕方がない。下からは敵機の姿は逆光で全く見えず、それに対空火砲も無いのだから敵の思うままである。やがて「どんー」 「どんー」と爆弾の破裂音が地響きをたてて聞こえ、夜空に火の手が上がるのがよく見えた。あの辺に友軍がおり痛めつけられ、大きな倉庫が燃えているのかと思うと、身震いが止まらなかった。
◆内地からの便り
お寺の境内にいる頃、内地からの便りが届いた。母からのものが二通あった。出したのはもっと沢山だったかも知れない。文面は父は元気に小学校へ勤めているが、学校でも防空演習等で忙しく、本来の勉強や教育をする時間が足りなくなり困っていること。母は内助の仕事をいろいろしており、妹は勤労奉仕で軍需工場へ働きに駆りだされて勉強ができないが、頑張っている由だった。
母が一生懸命に私のことを祈ってくださっていることが、文面からうかがわれ有難く懐かしく読んだ。母の優しい顔が目に浮かび、何物にも勝る親と子の情愛の深さ、切れない太い繋がりをしみじみ感じた。
この時、米沢の西澤とよ子さんからの手紙も受け取った。物資不足で困っていることや、勤労奉仕のことが書いてあった。女学校四年生になったが戦争中のことなので、上級学校をどこにしようかと思っていることなどが書かれてあった。特に印象に残ったのは「小田さん元気で頑張って下さい。米沢のさくらんぼが一生懸命にお祈りし待っています」と書いてある文面であった。
米沢のさくらんぼは淡黄の薄紅色で、甘すっぱく舌触りがさわやかであった。その時代の若者や我々学生達は、初恋の味がするもの、初恋を象徴するものとして愛し食べた特産品だったので、彼女もその意味を込めてしたためてくれたのだ。どんなに胸をときめかしてくれたことか、一文字一文字がどれ程優しく温かく、彼女をどんなに懐かしく思ったことか。清純なセーラー服姿が目蓋(まぶた)に浮かぶ。
当時軍隊に出し入れする手紙は検閲(けんえつ)され、あまり変なことは書けない時代であったが、さくらんぼが待っているのであれば、いくら検閲を受けても誰にも分からない言葉であった。彼女と私にしか分からない大切な味わいのある表現だった。
私はこの手紙をその後何回も何回も読み返し、ずっと服の内ポケットにしまいこんで、肌身離さず持っていた。長い間持ち続ける間に外の封筒は破れ、汗に汚れ雨に濡れ、グシャグシャになってからもしっかり抱きしめ、お守り代りにし、少しでも時間があると開いて見、危険な時もそのことを思い出し勇気をだした。
しかし、敵に追われ、雨に遭い、水に浸かり、弾丸の中を潜る間にいつの間にか不覚にも失ってしまったが、「小田さん、さくらんぼが待っています」という一節はいつまでも心に沁(し)み込んでいて、私を温め勇気づけ励ましてくれたのである。

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