五 ビルマ西部海岸警備

◇第一アラカン山脈を目指す
◆イラワジ河を西に渡る
昭和十九年三月下旬、前進命令が第一中隊に下りた。大アラカン山脈を越えインド洋に面するタンガップの町に前進することになった。
イラワジ河の東側、左岸渡河地点近くに来た。敵機から見つからないようにネットや木の枝で擬装(ぎそう)し、乗り場に至る道や、船着場を覆うようにしていた。また道端のあちらこちらに止まっているトラックにも充分な擬装をしていた。
ここで、珍しい人に巡りあった。金平操(かねひらみさお)さんである。同郷の可眞(かま)村弥上(やがみ)の出身で家が三百メートルぐらいしか離れていない。可真小学校では兄貴分で、しかも岡山二中に進んだ時も先輩として大変可愛がってもらい、仲良くして頂いた方である。
操さんは、岡山師範学校(岡大教育学部の前身)を卒業され先生になっておられたと聞いていたが、長身でスマートな先輩で懐かしい。こんな所でよくもパッタリ会ったものだ、奇遇という他はない。どこの部隊に属していたのか覚えていないが、本当に嬉しく元気でやろうと励ましあった。南方の軍隊生活で日に焼け、たくましくなっておられ、野戦で苦労されている様子がうかがわれた。
お互いに、軍務の途中でゆっくり話すことができないまま、武運長久を心に祈り誓いあって別れた。その後操さんに会うことはなかった。
---操さんはその後、どこでどうなされたのだろうか?きっと苦労され戦死されたのだろう。ここでもまた、立派な若い先生を失ってしまった。戦争は苛酷(かこく)であり無残である。私は抑留生活二年をビルマで過ごし、昭和二十二年七月に復員し、郷里の弥上部落内を挨拶して回った。当然操さんの生家にも行った。既に戦死の公報がきており、悲しんでおられた。私のみ生きて帰り悪いような気持ちがしたが、イラワジ河畔(かはん)で会った時のことを話してお慰めした。
---その時、彼のお母さんは「戦死の公報は来ていても、まだ操が帰って来ると思う。夜帰ってくるかも知れないから、庭や入り口辺りに物を置かないようにし、操がつまずかないようにいつも片づけているのですよ」と言われた。その時私は、操さんが元気で帰って来られるのならば、ビルマの山河を何ヵ月も裸足で夜道を歩き通し大変な経験をしているのだから、庭先の物や小石につまずくようなことはない、もっとしっかりしているはずだと思ったが、親はこれほど我が子のことを思っておいでかと、目頭が熱くなったことを今も覚えている。
この辺りの河幅は三キロぐらいだったろうか。三十トン程度の船で夜の闇に助けられ何事もなく無事渡河できた。幸いこの頃は乾期のため水量も少なかった。渡ってしまうとなんのことはなかった。でも、渡河後はなるべく早く渡河地点であるセダンを離れなければならない。夜明けまでに十キロ程を歩いた。大した距離ではなかったが装具の重さが肩に食い込んだ。それでも道も良いし平坦地であり夜間の涼しさで思うように行軍ができ、ある部落に着いた。現地人は既に山の中に逃げ込んでどこも空き家になっていたのでそこに入って休んだ。
次の日は朝より行軍だ。西へ西へ向かって歩くうちにアラカン山脈の麓(ふもと)に近づいてきた。次第に林が多くなり、道も埃(ほこり)だらけの道となってきた。時折友軍のトラックが埃を残して走って行った。我々は一個班に一つの輜重車のみは残しており、できるだけそれに荷物を積み、積みきれないものは各自背嚢(はいのう)に詰めて背負い、車を皆で引いて、汗みどろ埃だらけになって歩いた。午後になると緩やかな坂道が曲りくねってきた。夕方になり大休止となったが、もうここは山の中で民家は無く露営である。
山から薪(まき)を拾ってきて、飯盒で飯を炊いた、幾人もの飯盒を並べて炊いた。でき上がる少し前水分が出なくなると一つ一つ取り出し、逆さにしておくと、良く蒸せ美味しくなり、しばらくすると食べ頃になる。もう何回となく使用してきた飯盒なので貫禄(かんろく)がつき、外側は真っ黒になっていた。残りの飯盒で乾燥野菜と乾燥醤油で汁をこしらえる。干し肉や干し魚があるときは良いがこの頃は欠乏しかけていた。木の若芽を摘んで野菜代わりにしてみたがまずかった。
◆第一アラカン山脈を越え
次の日も行軍は続いた。坂道はだんだん急になり谷を渡り山を越えながら登り坂が多くなり、標高も高くなってきた。乾期の最中だから山道の埃は我々が歩くだけでも、もうもうと舞い上がった。
この第一アラカン道は日本軍が二年前に造った道で、一応自動車が通れるように応急的に造ったのだが、ビルマでは粒子の細かい土質の所が多く、切り開いただけの道で、長い間、雨が無く乾き切っているので大変な埃がたつのだ。
三日目からは、昼間の行軍はしないことになった。敵の飛行機に見つからぬよう夕方から夜明けまで歩いた。夜は暑くなくてよかった。
見も知らない曲がりくねった山道を夜行くのだから、どの方向に進んでいるのか全然分からない。全体として西に向かってアラカンを進んでおり毎日登って行った。黙々と前の人に遅れまいと歩くだけである。背嚢(はいのう)を背負い、車を皆で押したり引いたりしながら、時には「ワッショイ ワッショイ」と掛け声をかけ、元気を出して登ったが、疲れていつの間にか黙ってしまうのである。
イラワジ河を渡ってから四日目、やっとニューワンギョという地名の所に着いた。ここはアラカン道の中央で山脈の頂上である。夜明けに着いた。そこには大きいチークの木がたくさん茂っていた。寒い、寒い、標高千二百メートルぐらいだと誰かが言った。携帯の毛布二枚を引きかぶり、やっと寒さをこらえ眠りにつくことができた。昼の間は休み、夕方前にニューワンギョを出発した。しばらく行くと見晴らしのよい所に出た。アラカン山脈の山々が雲海の上に頭を出し、西の山に夕日が沈みかけ赤く染まっている、なんと美しい眺めであろうか。自然の偉大さ、その見事さに、しばし疲れを忘れ、戦を忘れ、目を奪われた。絵にしたらどんなに美しいだろうか、などと思った。
道は次第に下りが多くなった。開けた所は星明かりで助かるが、高い林の間を行く時は真っ暗なので足元が全然見えない。各班に一台ずつの輜重車を皆で力を合わせ引くのだが、下りはガラガラと惰性で早く転がるので、自分が転倒でもすると本当に危険であった。みんな一生懸命に走った。暗闇の中を下っていく時は奈落の底に落ちていくようであった。
当初携行した食糧も次第に減り、途中の倉庫で支給を受けた。しかし、これまた少なく形ばかりの支給であった。飯を、塩とと・ん・が・ら・し・の辛さで食べているようなもので、他に副食は何もない。
私はこの行軍で肩と手が痺(しび)てしまった。銃を持ち、重い背嚢が肩に食い込み、筋肉と神経が麻痺したのだろうか。日に日に痺(しび)れが増し手が殆ど動かなくなってしまった。しかし、そんなことは言っておられない。苦しいのは、自分一人ではないはずである。銃を持つ手が痺れているので、落ちそうになる。足の豆も次第に大きくなり、潰れて汁が出ている。しかし、こんなことで挫(くじ)けてはならないと困苦欠乏の行軍は続く。坂道を下るといっても、中途では登り坂もあり道程は長い。
ニューアンギョを出てから四日目の夜明け前、誰れかが「平地に出たぞ」と叫んだ。印度洋海岸に沿うたタンガップの平野に来たのだ。平坦な道を二キロぐらい行った所で、本道をそのまま四キロばかり直進すればタンガップの中心地に行くのだが、左へ曲がり細い脇道をうねうねと三十分ばかり歩いて林の中に止まり、大休止することになった。もう東の空がほのかに明るくなってきた。
ここまで歩いて来たのがプロームとタンガップを結ぶ第一アラカン道百七十キロの横断道である。野宿野営の毎日だったが、幸い虎にもやられず無事到着したのである。しかし、第二小隊で途中三名の者がマラリヤにかかり落伍してしまった。その後どうなったか知らない。
疲れた体を毛布にくるまり安堵(あんど)の気持ちでぐっすり眠った。
「皆起きろ」という浜田分隊長の声で目を覚ますと、もう太陽は空高く昇っていて時計を見ると十二時だ。「食事の用意をせい」との号令で、近くの川に行き水を汲み、薪を集めて各自飯盒炊事をした。さて、今日はどのようになるのだろう。我々兵隊には予定は分からない。命ぜられるままに、するだけである。午後も休み疲労回復に努めることになった。
◇タンガップ地区の警備
◆ヤンコ川沿いと山中の生活
その次の日からいろいろの作業が始まった。
当分ここに宿営することに決まり、家を建てることになった。竹を切って柱にし、梁(はり)を組み、屋根と床の骨を造り、割った竹で床を張るのだ。屋根は椰子の葉を一枚づつにしたテッケというものを並べるだけ、横の壁に相当する所は、竹を薄く編んだアンペラを取り付けるだけである。主な柱も屋根の椰子の葉もすべて、竹を割ってへぎにしたものを紐(ひも)代わりにして縛(しば)り、固定するのである。竹細工の家である。一個班の入れる宿舎の小屋を建てるのに、一日あれば出来上がる粗末なものである。
もう何回もこのような家を建ててきたので作業も慣れてきた。結構これで住めるのだ。以前に虎が屋根から飛び込んで来たことはあるが、そう簡単に壊れないし壊れたら直すのも簡単である。乾期には、屋根のニッパ椰子の葉が萎(しぼ)み、その間から空が見えていても雨期になり雨が降るとその湿りで葉が広がり案外漏らないのである。その国その地方で気候風土に適した住み方があるものだ。
現地人はダァーという刀か斧(おの)のような道具を一本持っているがこれさえあればすべての大工仕事が出来るのである。我々もダァーの使い方を覚え、器用な兵隊は上手に使うようになった。
設営に当たり、何人かはこうして住居をこしらえる作業をする。また、何人かはタンガップの町外れにある野戦倉庫に行って、食料や嗜好品(しこうひん)を受け取り、幾らかの衣類等も受け取ってくる。また、当分転進がないと見越して、共同炊事をすることになり、大きい鍋を使うため、それ用のかまどを石と土で固めて作るなど、分担して各種作業に精出した。
また野菜や、鶏、家鴨(あひる)等現地人から購入できるものは、そのような収集班を決めて食料の確保をはかった。
次の日は暇を見て川へ水浴に行き、十日間の垢(あか)を落とし洗濯もし、さわやかな気分になった。
その時、急に爆音がしたので、川にはみ出していた大きい木の陰にいち早く隠れた。裸のままだ。双発双胴(そうはつそうどう)の飛行機が二機超低空で飛んで来た。ロッキードだと誰れかが教えてくれた。薄黒い色をしていた。
敵は我々の中隊がここに来ているのを察知したのか、それとも飛行中に今見つけたのかも知れないが、我々宿営地の上空を旋回し二回目には、機関砲をパリパリと射ち込んできた。三回、四回と旋回しては撃ってきた。ピューン ピューン という不気味な音、早くも昨日造ったばかりの宿舎が撃ち抜かれた。私は裸のまま木の下に隠れ身を震わせていた。まだ、ここに到着したばかりで防空壕も掘っていなかったので避難する所もなかった。こちらが一発や二発を撃っても仕方がない。お礼返しが百倍も千倍もくるだけである。だが、どうしたことか攻撃は四回で終わり飛行機は去っていった。やれやれだ。
しかし、兵隊の一人が大腿(だいたい)部を撃ち抜かれて重傷、二人が軽傷を受けた。重傷の人には応急手当をして、直ぐにタンガップの野戦病院に連れて行った。タンガップ地区に来たとたんに、重傷者を出し、敵に小屋を見つけられてしまい、いよいよ最前線へ来たとの感を深くした。その翌日はもっと山奥で大木がありよく遮蔽した場所への移転の作業が早くも始められた。
◆弾薬倉庫等の警備
空から絶対見えない場所を選び、分散して小さい家を建てて宿ることにした。どの分隊もそれぞれ暗い木立の下に粗末な小屋を建てた。ここはヤンコという地名だが民家も何もない山の奥深くであった。
もう日本軍は平地で、部落のあるような所には、住めない程に敵の飛行機に追いつめられていた。
我々瀬澤小隊は、馬がいないので輸送業務はなくなり、タンガップ地区の警備に当たることとなった。この地区にある弾薬倉庫、糧秣倉庫、被服倉庫、燃料廠(ねんりょうしょう)、海岸の警備、野戦病院の使役、その他兵站(へいたん)の各種勤務に就いたのである。
これらの品々はいずれも山の中に分散し敵機に見られないように、遮蔽して野積みにされていた。その監視に当たるのである。
私も弾薬置場の監視に就いた。弾薬置場といっても山すその樹木と草原の交じった寂しい所にある。大きい木の陰に弾薬箱を置き、更にその上を擬装(ぎそう)して集積しており、昼夜三交替の勤務である。監視であるから、銃を持ち節度正しく警備し、周りを歩いて警戒するのであるが、考えることもないし特別することもないので、一人ぽっちで夜空を眺めていると、またしても故国のことが思い出される。これから先のことが明暗いろいろに頭をかけめぐる。
いつの日故国へ帰れるのだろうか?今に新兵が来れば交替して帰れるだろうが。戦いに勝ってしまえば凱旋(がいせん)だが、どんなに嬉しいだろうか。しかし、戦いはどうも見通しが明るくない。今の我々には、新聞もなければ、ラジオもない生活である。うわさだが西南太平洋方面の海戦で次第に押されており、サイパン島も危ないとか?事実ここでも日を追って敵の空襲が激しくなってきており、友軍の飛行機など見たこともない。戦況が次第に悪くなっていくのが分かる。
何であろうと戦い抜いて勝たねばならないのだ。与えられた軍務に精励すれば、それがお国のためなのだと思い返してみるが考えに前進はなく、いつも堂々巡りである。
しばらく深夜の静寂が続く。急に近くの山で、「ごおー」「ごおー」とビルマの山鹿であるノロが悲しそうに啼いた。虎にでも追われ逃げてきたのかも知れない。厳しい現実が襲いかかってきた。銃を握り直し、警戒を続けた。私の空想と現実の隔たりは余りにも大きい。
この辺りはビルマの西海岸アラカン山脈の西側で、辺境地といわれる不便な所で経済的にも価値のない所である。しかし戦略的には、英軍と印度軍がいつ上陸してくるか分からない重要な地点となっており、我が軍もこの地の防備に力を入れている。
ここからアキャブ方面にも通じており、海岸防備のためのラムレ島、チェトバ島への渡航地点にもなっており、行き来する人が泊まる場所となっていた。
私はその後、弾薬庫勤務からタンガップ兵站宿舎の勤務になった。いわば旅館勤務といったところだが、とてもそんな粋(いき)なものではなかった。前線へ向かって行く兵隊は、アラカンの険峻(けんしゅん)を歩いて来たとは言え、衣類も痛んでおらず兵器もきちんと持ち、顔色もよく元気で兵隊らしかった。
しかし、アキャブ方面から帰って来る兵隊は哀れだ。服はボロボロ、シャッもボロボロ、空の背嚢を背負い、兵器は殆ど持っていない。顔色は悪く、杖をついてやっと歩いている。乞食(こじき)のようだ。飯盒と水筒をだらしなく持っている。
兵站宿舎といっても、屋根と座がある程度のお粗末なもので、野宿よりは少しましといったところだ。「兵站はここですか」と細い弱い声で尋ねる。「ここです。どうぞ休みなさい」と答えると、ホットした様子で疲労しきった顔に嬉しさがかすかにうかがわれる。しかし一日二日と泊まるうちに、そこで息を引き取ってしまう兵隊が何名かあった。
負傷したり病気になったり、アキヤブの方から後退を命じられ、乗り物も無くやっとここまでたどり着くが、体力は非常に弱っており、息を引き取ってしまうのだ。気の毒なことと思う反面、これが日本の軍人兵士だろうかと、唖然(あぜん)とするのである。
死体の片づけも私達勤務者の仕事だが、あまりにも、みじめな姿は目を覆うばかりである。
二十日ばかり勤務したその頃、思いがけない命令がきた。
◇無線通信教育隊に
◆首都ラングーンへ
私は、聯隊本部から突然「ラングーンで通信技術の教育があるから、教育を受けに行くように」と命じられた。我が輜重聯隊から、私の他に、藤井、山本、西谷、矢野の各上等兵の計五人が選ばれた。中隊本部へ行き金井塚中隊長に申告した。中隊長はレミナの町にいる時一緒に生活していた関係もあり特に私の方へ向かって「しっかり勉強してこい」と激励の言葉があったように思われた。
それからタンガップの他地域にあった聯隊本部へ行き、ラングーンで教育を受ける旨の申告をした。こんな場合、いつでも同年兵ばかりの時は、私が引率者の立場で号令をかけるのが当たり前のようになっており、皆もそのように認めていた。
この時は後方、ラングーンへ向かう自動車に便乗させてもらうことになり、タンガップを夕方出発し、夜明けには大イラワジ河を渡りプロームまで来た。歩いて八日もかかった山道を一夜のうちに走った。さすが自動車は早い。夜の内なら敵機に見つかることもない。
トラックの荷台に乗せてもらったが、路面は凸凹道だから前後左右に揺れるやら、上下に跳ね上げられてはドサンと落とされるやら、荷台には周囲の枠につかまる以外にはつかまる所がないので、五人は懸命に枠にしがみついていた。
しかし、文句を言うどころではなく、自動車は本当に有難いものだと思った。運転手は一睡もせず大変な仕事だがこれも軍務の中、ご苦労なことである。太陽が上がる前に町外れの木立の茂みの中に入り車を止めた。
大休止の後、夕方になりそこを出発した。プローム街道を南南東に向けて走った。舗装道路だから昨夜に比べれば雲泥(うんでい)の差で、荷台に仰向けに寝転び夜空の星を眺めながら進んで行った。気持ちの良い夜だった。幸い、夜のことでもあったため空襲にも遭わず、次の朝はラングーンに着き、ビルマ方面軍司令部直轄(ちょっかつ)の森部隊の通信教育隊に編入された。
私達の兵兵団(つわものへいだん)(五十四師団)からは姫路の歩兵、鳥取の歩兵、姫路の野砲、姫路の捜索(そうさく)聯隊等からで、他の師団から選ばれてきた者を含めて総数約五十名であった。
教育の内容は無線通信機器の操作技術に加えて、モールス信号の発信オペレーターの技術学習であった。
私は学生時代にそれらの基礎を習っていたので、取りつきもよく、皆よりよくできるし、完全に頭の中にスイスイと入るので楽しかった。全体の雰囲気は良く軍隊の中としてはスマートな教育と言えよう。教育時間外も比較的自由に生活ができるようにされていた。
それだけに、厳しい教え方でなくても頭と体、指先と耳で、早く技術を修得しなければならなかった。
◆辺境タンガップとラングーン市内の比較
時折ラングーン地域にも空襲警報が発令されたが、敵機は現われず被害は出なかった。日曜日には市内に外出することも許された。ビルマ人の住宅地にはブウゲンビリヤの真っ赤な花が咲いており、庭には美しい草花が咲き乱れていた。家庭の温かい雰囲気が懐かしく思い出される。
市街の商店街では、日本の将校や兵隊が見物や買物をしていた。
ビルマの若い女性が髪に花を飾り、奇麗なエンジに、色鮮やかなロンジを纏(まと)い皮製のサンダルを履いて二、三人が歩いている姿を見ると、今までアラカンの山や辺鄙(へんぴ)なヤンコ川岸で警備に当たっていた私には、とても美しく感じられた。このように、和やかな女性の姿を見ることができた。男性も下はロンジだが上はスマートに洋服の上着を着ていたり、垢抜けしたビルマの衣装を身に着けていた。さすがビルマの首都である。我がビルマ方面軍の総司令部が置かれている所だけに、日本人の経営する店もあり、日本人の女の子をウエイトレスにしている喫茶店もあった。
戦友と一緒に早速入ってみた。久し振りに見る日本女性はやはり色が白く天使のような感じであった。コーヒーを一杯注文したが、内気な私は一言二言声をかけただけだった。でも心が和む感じがした。市内にはもっと遊べる所があるのだろうが、我々兵隊には無縁なことだし、どうなるものでもなかった。
ただ、ここで感じたことは、第一線の戦場と後方との大きな違いである。あの、タンガップの村落へ、アキャブ方面から戦いに破れ、食物も無く、息絶え絶えになり乞食のような姿で、ボロボロの服を着て杖にすがり帰って来る兵隊と、後方のラングーンで整った服装に身を固め、便利のよい恵まれた市内を闊歩(かつぽ)している兵隊を比較する時、同じ戦地といっても場所によって大変な籤運(くじうん)の違いがあると思った。
私自身も、数日前まで深い山の中で、虎の出そうな深夜、弾薬庫の警備をしていたことを思うと、その境遇に雲泥の差があり、今をしみじみ有難く感謝した。
ラングーンにも雨期がやってきて、毎日毎晩雨の日が続いた。室内での講義と教育はあるが屋外での実地演習はできなかった。気分も何となく重かった。
その頃のある日、急に寒気がしてきた。ガタガタガタガタと震えだした。生まれてこの方こんな悪寒を感じた経験はない。マラリヤかも知れないと思いながら三時間ばかり毛布にくるまって震えた。
それが終わると、こんどは熱が出てきた。ドンドンと高い熱になり、ご飯もおかずも喉を通らなくなって、お茶だけが欲しくなった。飯を食べないで、お茶をガブガブ飲むと胃に悪いのだが、無性に飲みたい。
皆が学習に行き、自分だけ班内に取り残され熱に悩まされていると、健康の有難さがつくづく感じられる。どうなることかと心配で心細く寂しいこと、何とも形容のしようがない。マラリヤで亡くなった谷田君を始めタンガップで悪性マラリヤで息を引き取っていった兵士達の悲しい姿が思い出され、滅(めい)入ってしまう。
軍医に見てもらい、薬を飲み休むこと数日、悪性でなく三日熱程度のものだったのだろう、幸い三、四日で熱が治まり元気な体に回復した。やれやれと安心し嬉しかった。他に同じ程度の熱発患者が三、四人でたが、皆大事にならなくてすみ、訓練を続けることができた。
◆西谷上等兵の病
この頃輜重聯隊から一緒に来ていた元気者の西谷矯正(にしたにきょうせい)上等兵がマラリヤと赤痢を併発し急激に衰弱した。
同僚であるが私が引率してきた責任もあり、一生懸命に看病した。しかしここでは充分な手当ができないので、ラングーン市内にある陸軍の基地病院に入院することになった。少しばかりの彼の装具やお守り等を持ち、付き添って病院に行った。鉄筋の大きな病院で設備も整っているようであった。
彼は私に、赤痢のことについて「絶対に外で物を買って食べてはいかんぞ、儂(わし)は菓子を食べてからこうなったんだ。お前も気をつけろよ」と後悔の気持ちを込め注意してくれた。
私は「ここは大きな病院だから薬もあり、設備も良いからきっと治るよ」「通信技術の勉強のほうは後から頑張ればよいのだから」と励まして帰った。
その後見舞いに行った時、ちょうど内地から来ている看護婦が「ご案内します」と言つて案内してくれた。まさに日本女性の優しい声である。私の心は疼き、すがすがしさを感じた。白衣が目に痛い程で白い肌が美しく、黒い髪の匂いがほんのりと漂ってくる。なぜ日本の女性はこんなにも美しいのだろうかと思いながら後について行くと「こちらです、どうぞ」と教えてくれた。
少しぐらいの病気をしても、こんな優しい女性に看護してもらえればいいなあ等と、つまらぬことを考えた。
内科の部屋に入るとベッドが幾つも並んでいた。この部屋の人は、みんな重病なのか起きている人はいなかった。案内の看護婦は西谷君のベッドに近づき「ここです」というと、そのまま出ていった。
西谷上等兵は気配を感じてこちらを向いた。私は「西谷、来たぞ」と言うと「有難う、よく来てくれて」と元気のない細い声で答えた。普段でも細い顔が一層痩(や)せて青く、くすんでおり、目はくぼんでいた。これが二十歳台の青年かと疑いたくなる程衰弱していた。
私はあまりの変わり方に多くも語れず「充分養生して早く治れよ。お前は心臓が強いのだから大丈夫だよ」と励ました。それ程に西谷君の病状は重く、平素気丈夫な彼であったが、病魔の侵すところい・か・ん・ともしがたく、闘病の日を過ごしていた。
私が思う以上に、その時の彼は看護婦さんを頼りにし、祈る気持ちだったことだろう。ほかに現地採用のビルマ人看護婦達も甲斐甲斐(かいがい)しく働いているのが印象的であった。
タンガップの野戦病院は病院といっても野宿同様の小屋で薬も設備もなく、死出に旅立つ人の溜(たま)り場のようなものであるが、それに比較し、ここで治療が受けられるのは幸運だと思われる。でも重い病気にはかなわないが。
何回か見舞いに行ったが、一進一退というより心配の方が多くなってきた。励ましてやるのだが、うなずくだけで心なしか目には涙が光っていた。異境の地に来て、華々しい戦いにも出られず、病気に倒れての苦悶(くもん)の日々。さぞ残念であろう。そして故郷の父母兄弟を思い懐かしんでいるのだろう。
そのうち、看護婦二人がリンゲルを打ちにきた。毎日打つのだろうが、大きな針が痩せた太股に刺されている。果たして治るのだろうか?彼が快方に向かうことを祈りつつ兵舎に帰った。
彼が私を頼りにしているのがよく分かるので、学習の合間を縫って何回も見舞いに行った。
◇原隊復帰(げんたいふっき)
◆再びタンガップの山中へ
そうこうしている間に、いよいよ教育効果試験もすみ四ヵ月間の訓練を卒業した。彼を病院に残したままで元の輜重聯隊に復帰した。教育の効果試験の結果は、私がトップだったようである。
先にも述べたが、学生時代に基礎を習っているし、真面目に学習したのだから当り前と言えばそれまでだが、聯隊本部に復帰の申告に行った時、及び金井塚中隊長に申告に行った時も大変褒(ほ)められた。おそらく成績が原隊に通知されていたのではないかと思われた。自分自身にとっては便利のよい首都ラングーンで、前線の苦労から開放されて勉強させてもらった上に、聯隊や中隊内での印象も更に上がり、有難いことであった。
タンガップの中隊本部に帰った頃は、雨期も終りに近い九月中旬だった。私は激しい雨期の期間をアラカンの辺鄙(へんぴ)な山の中でなく、都市ラングーンで食糧にも全く不自由せず過ごせたのだから、そのこと自体本当に有難いことであった。
主要な方に挨拶をすませ、私の属する瀬澤小隊に帰ってみると、山の中の掘っ建て小屋の中に四、五人の兵隊が残っていた。
建物は雨期を過ごしてきたので古ぼけ痛んでおり、いわば乞食の小屋のようであった。殆どの兵隊は各場所に分散して海岸警備等の任務に行っており、警備先でも皆この程度の小屋に住んでいるのだろうが、瀬澤小隊長もどこかの警備の指揮に当っていて、ここにはおられないそうである。この兵隊達はみんな半病人のようで顔色も悪く元気もなく、小屋の中の土間で小さな焚火(たきび)をしていた。
その兵隊達の話によると、中隊も小隊も分散していろいろの所に配置されているが、雨 雨 雨の毎日で、山の中で食物は無く雨期の間に大勢の人が栄養失調やマラリヤで死んでいったそうである。この間もタンガップの倉庫が空襲で焼かれたため、物資がなおさら欠乏し、爆死した人もあったという暗い話ばかりであった。
私がもし、ラングーンに行かずここの警備任務を続けていたら、悪性マラリヤに罹(かか)り、あるいは食糧不足で病死していたかも知れなかった。幸運であった。
その後しばらくして、西谷上等兵が不帰の客になったとの知らせが中隊本部に届いた。やっぱり駄目だったか、と私は暗然とした。元気な頃、彼のお父さんから来た手紙も見せてくれたことがあったが、身内の人が聞いたらどんなに悲しまれるだろうか。彼は立派な病院で、日本人看護婦に見取られて逝ったのだろうが、同じ聯隊の戦友に見守られることもなく、寂しくこの世を去っていったのである。その後、遺骨がどうなったか知らないが、今も在りし日の彼の特徴ある面影が思い起こされてならない。合掌
その頃、ヤンコ川のほとりにある中隊の医務室は患者で満員であった。殆どの人がマラリヤで重い患者が多く赤痢の人もいたが、繁盛するのは医務室ばかりであった。しかし薬も乏しく、悪質な病気にはどうすることもできない状態で、ただ寝させているだけのようでもあった。
◆久保田上等兵の最期
久保田上等兵がマラリヤでもう五日間高熱が続き、全く何も食べていないので入院することになった。彼はこの間まで元気で、作業していたのに四十度の熱が出たきり下がらなくて、それに下痢までするようになったのだ。私が牛車に乗せてタンガップの野戦病院に連れていった。道なき道を行くのだから揺られ揺られて大変な苦痛だっただろう。それにどんな思いをしているのだろうかと心配だった。
やっと、野戦病院についた。「まいったなあ!」と彼が言った。「しっかりしろ大丈夫だ。病院に入れば薬も沢山あるし、少しすれば熱も下がるよ」と勇気づけた。しかし、病院とは名ばかり、我々が住んでいるあ・ば・ら・や・と何ら変わりがない。幾棟かの貧しい小屋が山中の薄暗く湿気の多い場所に、建っているだけである。ここも患者が一杯で空いているところがなかった。やっと、一人分のスペースを見つけそこに入った。奥の方に大勢の患者がいるようだ。でもうす暗くてよく見えず不潔な感じが溢(あふ)れている。こんなところで治るのだろうか?
椰子の葉で造った窓の蓋(ふた)を押し上げて開ける元気もなく、皆寝ているだけなのである。そのため暗く陰気なことこの上ない。
病院はタンガップ地区にいる兵隊ばかりでなく、前線から傷ついて下がって来た者もおり患者で一杯だ。軍医も看護兵も足らず、薬剤も何もかも不足していることは明らかであり、久保田上等兵を寝かせて「また来るから元気を出しておれよ」と勇気づけたものの心配しながら中隊へ帰った。
この野戦病院でどんなに多くの人が死んだのだろうか。金井塚中隊から入院した人がもう五人も死んでいるそうである。恐ろしいことである。
それから一週間後「久保田上等兵の遺体を受領に行って来い」と命令された。やっぱり駄目だったのか彼は死んだのだ。私は愕然(がくぜん)とした。
◆屍(しかばね)の処理
この地で悪性マラリヤにかかれば治ることは殆どない。それに下痢を併発したとあっては、仕方がない。いくら病院といっても、薬は殆ど無く看護する兵隊が病気で倒れ、次から次へと増える患者の世話をすることはできない現状である。
結局、病人や負傷者は自力で回復するより方法が無いのである。すでに弱りきった体では、なすべき手段もなく最期を待つのみである。死んでしまえば、病院側も原隊に知らせるのが精一杯といったところのようである。野戦病院やその勤務者が悪いのではない。戦況がこんなにも悪いのである。
このようにして、薄暗い竹で造った野戦病院とは名ばかりで手厚い看病も充分な薬も与えられず、亡くなって逝つた兵士達は、自分の運命はこれまでかとあきらめながらも、また生への執着と故国への夢には去りがたいものがあったであろう。
案内されて行ってみると、久保田上等兵は昨夜十二時過ぎから様子が変わり午前三時に息を引き取ったとのことである。
遺体には彼の毛布がかぶせてあるだけである。枕元には飯盒と水筒、薬の袋と少しの日用品があった。これが彼の全財産である。余りにも寂しい旅立ちである。彼にも内地に両親があり息子の武運を祈っていただろうに・・・・。浅黒い整った顔立ちの気持の良い男だった彼は、哀れな姿に変わり果てている。
---一年四ヵ月前内地出発の時、姫路駅から宇品駅に行く夜行列車の中で、私の前の席に腰掛けていたが、しんみりと「いつまたこの汽車に乗れるだろうか?」と話しかけてきたことを思い出し、私が彼の最期、遺体の処置をするようになろうとは、つゆぞ思いもかけないことであった。
迎えに行った我々三人は、彼の屍(しかばね)を担架に乗せて病院敷地内の火葬場に運んだ。この病院にそんな仕事をする兵隊もいるのだが、余りにも死人が多く手が回らず、疲労しきっており処理ができないので、原隊の責任でやってくれとのことである。
そこには大きな穴が掘られ鉄の太い棒が数本渡されていた。我々は教えられるままに久保田君の死体をその上に乗せた。近くの山から二時間もかかって薪(たきぎ)を取ってきて、斧(おの)を病院から借りて割り木を作り、窯(かま)の中の方に放り込んだ。屍の上にも一杯積み上げた。病院から灯油を十リットルばかりもらってきて、屍の上や焚き木の上にかけた。それはあらかじめ、このために用意された油であった。
内地からここまで苦労を共にしてきたのに、その友をこうして火葬にしなければならなくなった私、与えられた命令とはいえ余りにも耐えがたいことである。しかし、屍をこのままにしておくわけにはゆかない。今ここでは感傷は無用である。軽く合掌(がっしょう)し点火した。火は油のためかよく燃え広がり、どんどんと燃え久保田君の着ている服にも火がついた。
しばらくその場を外した。その内なんともいえぬ臭いが鼻をつき、気持ちが悪い。体が焼けている臭いだろう。この火葬場で次から次に大勢の人が白骨となったことだろう。嘔吐(おうと)をもよおす臭いが立ち込める。
大分時間も経過したので、臭(くさ)いのを我慢して行ってみると、内臓あたりが焼け切らずジュウジュウと音を立てていた。長い棒でよく焼けるように直し追加の薪を重ね、風上の林の中に行って待つことにした。誰も口をきかない。
私は「人間もこうなってしまえばおしまいで、すべては終わりだ。肉体はこのようになってしまったが、人の魂はどうなるのだろうか?故郷の国へ帰ることができ御仏となることができるのだろうか。せめてそうであってほしい」と思った。
敵機に発見されると攻撃されるので、なるべく煙の出ないように努めやっと焼き終った。多少焼け過ぎてボロボロに砕けた部分もあった。
幸いにこの時間に敵の飛行機が来なくて助かった。骨を入れる壷がなく、適当な容器も無いので、もう必要のなくなった彼の飯盒に骨を拾って入れた。英霊に対しご無礼なことかも知れないが、これが一番安全確実な方法だと思わざるを得ない。大切に中隊本部へ持って帰った。命令とはいえ戦友の屍の処理に当たることは、どんなにつらく悲しいことか。
その日の夕食は吐き気がして、食事が喉を通らなかった。ご遺骨はその後どうなったか、内地まで届いただろうか?それは昭和十九年十一月頃のことで戦況は次第に悪くなり、その可能性は薄いと思われるが。届いていることをお祈りする。
◇悪性マラリヤで死の淵(ふち)に
◆発熱
雨期もすっかり終わり晴天で平穏な数日が続いた。そんなある日、私達四、五人は、タンガップにある野戦の食糧倉庫に、糧秣受領に行った。待っている間に私は急に寒気がしてきた。その悪寒は急激に増し、ガタ、ガタ、ガタと音を立てて歯が震えてくる。幾ら日のよく当たる場所に行ってみても寒いばかりである。
ああ、マラリヤだと感じた。しかし、ラングーンでかかった三日熱ぐらいではなかろうか、そうであって欲しいと思った。そうならば二、三日もすれば熱は引くだろうと思った。しかし、糧秣(りょうまつ)を受け取り帰る間に悪寒(おかん)は急激に増し、次に発熱を感じてきた。中隊に帰るとすぐに医務室に行き診断を受けた。マラリヤだということで医務室に続く病室に入った。ここも粗末な竹の小屋であった。
夕飯はほんの一口食べただけで何も欲しくなく、水やお茶が飲みたいばかりであった。夜になっても熱は一向に下がらない。体温計は四十・五度を指していた。熱のため体からは汗一つ出ず、気持ちが悪い。
夜も更(ふ)けてきたが熱は下がらない。うつらうつらと眠るような眠らないような一夜が明けた。
朝飯は一匙(さじ)おかゆを口に入れてみたが全く味がなく喉を越さない。スッパイ梅干を一個だけやっと口に入れた。食後に苦い液体のキニーネを飲んだ。今飲んでも効くはずがないし、食べていないのに飲むとかえって胃によくないが、せめてもの慰めだ。体温を計ったが四十度のままで変わらない。熱で頭がズキンズキンと痛む。
少しの汗も出ず、つるつるとした肌触りである。毛布を被ってみても気持ちが悪い。熱のために毛布の端がピリピリと震えている。毛布を脱いでみても気分は良くならない。
隣に寝ている戦友が「小田どうか」と尋ねてくれるが、「うん」と答えるだけである。喉が乾く、水筒のお茶をゴクリ ゴクリと飲んだ。なんと美味しいことか。このお茶がたまらなく美味しい、一口では足りなくまた一口また一口と飲む。
「水やお茶をあまり飲むと胃を弱くするからいけない」と軍医から言われているが、欲しくてたまらない。キニーネで胃を傷めているのに、水を飲むと更に胃を傷め下痢となるのだが。
胃に障害が起こり、アメーバー赤痢にでもなれば、余計に衰弱することは明らかである。しかし、今の私にはお茶にまさるものはないのである。こんな時にリンゴとかミカンがあれば食べられるのではないかと思ってみるが、この山あいには果物等何も無い。バナナさえ買うこともできない程の山の中である。また野生の果物がそうそう在るはずもない。実際には果物があっても、この高熱では受けつけないだろうし、いろいろと思ってみるだけである。
ままよと思い、配給になった日本のたばこを口にしてみたが、気持ちが悪いだけで受けつけられるものではない。やがて、石川軍医の診察が始まった。期待して診察を受けたが、「これはマラリヤだ」と言っただけだった。衛生兵がビタカン一本を注射し、キニーネを五粒ずつ飲むようにと言って袋をくれた。午後もその夜も高熱が続き体が次第に弱ってくる。
眠ったり目が覚めたり、うつらうつらしている間にその夜も明けた。だんだんと心細くなってくる。食べる物は何も食べられずその日もお茶を飲むだけである。隣に寝ている戦友が「心配するな、三、四日すればよくなるよ、大丈夫だ」と言って励ましてくれた。
それを聞くと、自分のことはひいき目に考えられ、この熱はきっと下がり自分だけはきっと治ると思った。
小便のために、建物外の便所まで行くのが苦痛になり、ふらふらする体を柱や庭の立ち木につかまりながら、支えて行くのがやっとであった。くらくらと目が眩(くら)む、ああ情けない。小便の色は濃い茶色で、恐ろしい程の濃いさだ。
血が溶けて出ているのではなかろうか。気持ちが悪く長く見ている気もしない。自分の床までやっと帰り身を投げ出すように転ぶ。このようにしてその日も暮れた。石油ランプの明かりも無く暗い静かな夜が更ける。
少しでも寝ようと思っても熱にうなされ眠れない。心臓の鼓動がドキドキと早く脈を打つ。なんでこんなに早く脈を打つのだろうか、果たして治るだろうか?
◆高熱が続く
先日久保田上等兵がかかっていた状態と同じではないか。そして多くの兵士が命を落とした悪性マラリヤではないか。一度発熱したら最後、余程の良い薬があるか、余程の幸運に巡り合わないと高熱はいつまでも続き、一週間もすると下痢を伴い脳症(のうしょう)を起こし意識不明となり、更に三、四日すると死んでしまうと言われている。
私も、まさに同じ症状の三日目である。あの暗い野戦病院行きとなるのだろうか。野戦病院に行けばそこで四、五日すれば脳症を起こし意識不明となる。あと二〜三日であの世行きになるのかと思うと、暗然とした気持ちに襲われ不吉なことだけが頭の中を駆けめぐる。夜明けになりやっと浅い眠りに入ることができた。
朝になり、飯盒に少しの粥(かゆ)を入れてくれた。幾ら塩を入れても苦い、一匙(さじ)二匙口に入れてみたが食べる気がしない。粉味噌で作った汁も苦いだけで飲めないので力なく向こうに押しやった。隣の戦友に後片づけを頼んだ。飲めるのは水筒の水のみである。水がおいしい。でも、昨日辺りから下痢が始まりだんだん回数が多くなってくる。水を飲んではいけないのにガブガブ飲みたい。胃の中はどうなっているのだろうか。素通りして下痢となって排泄(はいせつ)しているだけである。
今日はビタカンの注射をしてくれた。キニーネは胃によくない。続けて飲んでいるが今更(いまさら)効くはずもない。ふらふらしながら、外の便所に行く回数が増えるが、もうたまらない。私は痔が悪く、手術したことがあり肛門の括約筋(かつやくきん)がやや緩いので、漏らさないようにするのが大変なのである。
クラクラする頭、よろめく足元、濃い茶色の小便、血のような粘液物が混じった大便、ああ恐ろしい。
その日も暮れ、夜になったが熱は一向に下がらない。体温計は四十度一分を指したままで、汗は全然出てこない。
衛生兵もこの悪性マラリヤにはホトホト手を焼いている。私も、次々に倒れ死んでいった兵士達の姿を見てきた。先日も久保田君の罹病(りびょう)から最後の姿を見届けたばかりであり、死の恐怖をひしひしと感じる。
でも自分だけはそのコースをとらないでよくなるだろうと、欲目なことを思うのである。椰子の葉で葺(ふ)いた屋根の隙間から残月の明かりが病室に差し込んおり、周囲の患者は寝静まっている。内地から持って来て肌身離さず着けているお守りをもう一度固く握り直してみると、母の姿が思い浮かんでくる。
「敦ちゃん、お母さんが一生懸命信心しているから、元気をだせ」「お前のために一心にお祈りしているから、お前はきっとおかげをいただけるから」と、母がはっきり夢枕にたち、幾らか気分が落ち着いて来た。そして「神様どうか助けて下さい」と深く厚いお祈りをした。声には出さないが悲壮な願いであった。
高い熱にうなされ体を反転させ、うつらうつらしている間に夜が明けた。昼中は今日も暑い日である。発病してから四日になる。一日一日と悪くなっていくだけで、またしても不吉な予感に襲われる。周囲の者も「小田はもう駄目だろう」と感づいているのだろう。誰も声をかけて来ない。今日か明日には野戦病院に行くような命令が来るのではないかと、みんな思っているようである。午後になると熱に加えだんだんと下痢が激しくなってきた。衰えてゆく体、急転直下奈落(ならく)の底に転落するようだ。今日もそのまま日が暮れてきた。
◆救いの神
夕方、志水衛生伍長が病室に入ってきて、「小田どうだ」と尋ねられた。「はあ」と力なく答えた。勇気づけるためかわざわざ笑顔で親しそうに「弱ったか、熱が出て何日かのう」と聞かれた。私は「今日で四日ですが、ずーっと熱が出たきりで下がらないんです。それに下痢も始まり・・・・」と哀願(あいがん)するような気持ちで答えた。神様にお祈りするような心境で、それに知っている人だけに、いささか甘えたい心理も働きつつ答えた。「そうか」と言って衛生伍長は立ち去った。
しばらくして「小田ちょっとこちらへ来い」と呼ばれた。病室を出て奥の部屋にふらふらしながら行った。誰もいない治療室だった。もう室内は薄暗くなり、カンテラに明かりが点されていた。
「腹ばいになって尻をだせ、打ってやるから。この注射は人によってはよく効くんだ。だけどこれはもう殆ど無い、取っておきなんだ。もう補給もないだろうし」と言いながら「痛いぞ、我慢しろ」と言って、グサリとお尻に一本打ってくれ「もう一本だ、こちらの尻だ」と言ってグサリと二本目を注射して下さった。バグノールという薬だそうだが、当時貴重品中の貴重品だったのだろう。兵隊の私にもこんな戦況で辺鄙(へんぴ)な山奥にいる中隊の医務室に貴重な薬品が、沢山在るはずがないことは分かる。それを私に打ってくれたようである。尻の注射は痛かったが、これぐらい有難い痛さはなく、感謝の注射であった。
注射が終わった後、志水衛生下士官は「元気を出しておらんといかんぞ」と一言励まして下さった。
しかし、熱は下がることなく暗い夜は更けていった。やはり駄目なのだ、もう駄目なのだ、私の運命もこれまでかと悩み、不吉なことのみが頭の中を駆けめぐり、眠るでもなく目覚めているでもない状態が続いた。その内いつの間にか眠ったようである。ふと目が覚めるともう朝だった。
少し気分が良いではないか。「少しいいぞ!」心が明るくなった。「シメタ、あの注射が効いたのだ」きっと志水伍長の措置が効を奏したのだ。有難い、志水伍長有難うと思わず手を合わせた。体温を計ってみると三十八度だ。四日間ぶっ通しで四十度続いた熱が下がっている。あのバグノールという注射が私にはよく効いたのだ。病状により、いつでも誰にでもどのマラリヤにも効くのではないようであるが、私には幸運にもピッタリ効いたのだ。
昨日までは何も食べられなかったのに、今朝はお粥(かゆ)が少し食べられた。昨日に比べ今日は本当に嬉しい。夕食のお粥はもっと食べられた。病気が快方に向かう時の嬉(うれ)しさは格別である。希望が湧きその夜はよく眠れた。
翌日、体温は七度五分に下がり下痢も止まった。素晴らしい治り方だ。不思議なぐらい熱が下がり下痢も全く無くなった。私は死の淵から救われ、日々快方に向かい半月もたたない内に元気に働くことができるようになった。三途(さんず)の川まで行って引き返してきた大変な幸福者である。このことはいつまでも忘れられない。復員後戦友会で私はこの命の恩人に時々お目にかかる機会に恵まれている。

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